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<地政学>欧州の中心国・フランスの興亡を語る

 前回はスペインについて語った。今度はスペインの伝統的なライバル国のフランスについて語ろうと思う。

 スペインは気候的な問題でフランスよりも人口が少なかった。面積的にもフランスの方が上だ。スペインは新大陸の一攫千金で成り上がったという側面が強く、もともとの国力ではフランスに大きく劣っている。まともに戦ったらフランスの方が強力だったのだ。

 フランスは欧州の伝統的なリーダー国であり、文化的な影響力も強い。スペインよりも遥かに発展していたと言えるだろう。今回はそんなフランスの地政学について語ろうと思う。

フランス王国の成り立ち

 現在、ヨーロッパと言われる地域の起源はフランク王国である。この王国は現在のフランス・ドイツ・イタリアにまたがる地域を支配しており、カール大帝の働きは有名だろう。

 カール大帝の死後、フランク王国は分裂する。現在のフランスに該当する地域に存在したのは西フランク王国だ。この国の王朝はすぐに絶えてしまい、しばらくゴタゴタがあった後でパリ伯ユーグ・カペーという男がフランス国王として即位した。この1人の男がフランス王国1000年の歴史の始祖となる。

 当初のフランス王国は封建制国家の最たるもので、国内は無数の小王国によって分裂していた状態だ。日本で言うところの室町時代か、それよりも酷い。カペーは一般的にイメージされる国王よりもパリ周辺を収める大名のようなものだった。ソマリア暫定政府のようなものだろうか。

 時代が下るに連れ、王家は次第に勢力を拡大し、諸侯を討伐して領地を拡大していった。この時代の諸侯は小王国のようなものなので、王家の勢力が拡大すると、勝手にイングランドの王家と同盟を結んで彼らをフランスに引き入れるようになった。フランス国内で勢力均衡政策のようなものが行われていたのである。まるでジョージアやウクライナがNATOを引き入れるかのようなやり方だ。一時期のイングランドはフランスの半分を支配するアンジュー帝国を築いていたが、ジョン欠地王がアホすぎてこの帝国は崩壊する。

 カペー朝は断絶し、王朝交代が起こったのだが、この際に発生したのが百年戦争である。これもまた、日中戦争のようなものではなく、南北朝の動乱に近い雰囲気だった。フランスの内戦にイングランドが介入してくる形である。フランス王政に反対する諸侯はイングランドの味方になり、仏王家と長らく抗争が続いた。戦いはフランス、というより仏王家の勝利に終わり、イングランドは島国に追いやられた。

 この辺りになってくると、フランスはだんだん中央集権の王国めいた感じになってくる。ヴァロワ朝が断絶すると今度はブルボン朝が誕生するが、この際にも大戦争が発生した。これがユグノー戦争である。ユグノーとは新教徒のことだ。ユグノー戦争はフランス全土を巻き込む大戦争になるが、最終的にユグノー側の有力者だったアンリがカトリックに改宗するというウルトラCを経て、ブルボン朝が誕生した。

 ブルボン朝の下でフランスの絶対王政は完成していく。立役者となったのは宰相のリシュリューとマザランだ。時代は大航海時代、ヨーロッパの黄金時代は既に始まっていた。リシュリューは三十年戦争でハプスブルクを破ると欧州の大国としてフランスを君臨させることに成功した。マザランはフロンドの乱を鎮圧し、ルイ14世の絶対王政へと道を開いた。

 ルイ14世の下でフランスは欧州の最強国として戦争を繰り返すことになる。フランスの強大化を恐れたイングランドは大陸諸国と同盟を組み、フランスの封じ込めを行う。特に大規模だったのがスペイン継承戦争だ。イングランドは大陸に遠征軍を派遣する。この時の司令官だったマールバラ公ジョン・チャーチルは戦功を評価されて公爵になった。身分が高く無かったチャーチルは「私は子孫ではなく、祖先になるのだ」と返した。ウィンストン・チャーチルとダイアナ・スペンサーは彼の子孫である。

 この後もフランスの戦争はオーストリア継承戦争や七年戦争など、続いていく。フランスの痛手はイギリスに産業革命で追い抜かれたことだ。イギリスはフランスの目の上のたんこぶとして長年君臨することになる。フランスはナポレオン時代に全盛期を迎えたが、最後は敗れてしまう。1848年革命でフランスの王政が廃止され、フランスは共和制国家となる。

近世フランスの地政学

 フランスの欧州における立地を考えてみよう。フランスは典型的な大陸国家だ。大西洋にも面しているので海洋進出も盛んだったが、イギリスに比べると遥かに劣っていた。ここが海洋国家と大陸国家の違いだろう。それでも大西洋に面していたことはメリットであり、フランスは早期に工業化を果たした国の一つだった。

 フランスは欧州の重要地点に立地しており、多くの国と国境を接している。フランスの接する外国は主に北西のイギリス・南西のスペイン・北東のドイツ・南東のイタリアである。フランスの進出方向もこの4方面を軸に行われてきた。スペイン継承戦争でもネーデルランド方面でのイギリス軍との戦い、ドイツ方面でのオーストリア軍との戦い、イタリア半島における同じくオーストリア軍との戦い、スペインにおける反仏勢力との戦い、と4つの戦線に分かれていた。

 地域の中央部に位置する国はだいたいバトルアリーナ化することが多いのだが、フランスはこのような運命を免れることができた。理由は単純で、フランスが強かったからだ。フランスは面積が広く、耕地も多い。人口規模は欧州で一番だった。それに中央集権化が早く進んだ国の一つだった。神聖ローマ帝国は人口規模では一応フランスを上回っていたのだが、国家としての体をなしておらず、無数の小国家の集まりとなっていた。この時代、地域大国のバトルアリーナ化していたのはドイツとイタリアである。

 フランスは人口が多かったのみならず、経済的にもそれなりに発展していた。近世初期は欧州で最も発展していたイタリアに隣接しており、それなりに経済水準が高かった。中心地がイギリスとオランダに移動しても、やはり隣接するフランスはそれなりだった。18世紀にイギリスが爆発的な近代化を果たすまではフランスは欧州の文化的な中心であり、かなり先進的な国だったのだ。これは当時の知識人の動きを見れば分かる。

 というわけで、近世の欧州において最強の国力を持つ国はフランスであると考えて間違いないだろう。一人当たりGDPではイギリスとオランダに負けていたが、総額では勝っていた。スペインは新大陸の銀に依存したレンティア国家であり、見合った産業力は無かった。ハプスブルクは強敵だったが、この時代のドイツは近代と違って遅れた地域だったので、フランスは国力で上回っていた。したがってフランスは常に周辺諸国を攻める立場だったのだ。

ナポレオン戦争

 フランスはルイ14世の時代に大規模な侵略戦争を行ったが、その都度イギリスやオランダの妨害にあい、頓挫してしまった。新大陸の植民地も奪われてしまった。それでもフランスは欧州最強の国力を持っていたことに変わりはない。その潜在力が存分に解き放たれたのがナポレオン戦争だった。

 1789年のフランス革命は26年にも渡る大戦争を引き起こした。この時がフランスの歴史上の全盛期と思われる。

 フランス革命で国王が処刑されると周辺諸国はフランスを警戒するようになった。オーストリアとプロイセンは即座に介入を宣言している。第一次対仏大同盟が組まれ、フランスは周辺諸国からの侵攻を受けることになった。孤立無援だったはずのフランスだったが、革命後の混乱を乗り越え、勝利を手にしている。お陰で外国勢力がフランス革命を潰すことは不可能になった。

 特にフランスつぶしに積極的だったのがイギリスである。イギリスは議会制の国でリベラルだったはずなのだが、最もフランスを敵視していた。フランスが強大化して欧州大陸を統一することを恐れていたからだ。イギリスはありとあらゆる国をけしかけてフランスを封じ込めようとした。

 第二次対仏大同盟がイギリスによって結成され、両国はエジプトやイタリアで戦闘を行うことになった。もはや欧州全土が戦場になっていたのである。エジプトから帰国したナポレオンはブリュメールのクーデターで独裁者となった。統治者自らが軍事遠征で各地に赴くという奇妙な政治体制である。

 ナポレオンが皇帝に即位するとフランスの欧州征服が見えてきた。いよいよ状況は緊迫してきたが、各国は負担を他国に押し付けようとした。トラファルガーの海戦でフランスが敗れるとオーストリアとロシアが第三次対仏大同盟に参加してアウステルリッツの戦いが行われるが、両国は敗北を喫す。続いて焦りを感じたプロイセンが第四次対仏大同盟に参加するが、歴史低敗北を喫する。第五次対仏大同盟でフランスはオーストリアを完全に下し、欧州でフランスに立ち向かうのはスペインのゲリラ勢力だけに思えた。

 1812年、フランスはロシア征服を目指してロシア遠征を開始するが、敗北する。これはヒトラーのソ連侵攻と良く似た展開だった。モスクワを陥落させたナポレオンは冬将軍にやられ、無惨な敗北を喫する。これに触発されてプロイセンやオーストリアも奮起し、第6次対仏大同盟が結成された。この同盟はフランス以外の大国が始めて一致団結した同盟であり、イギリス・オーストリア・プロイセン・ロシア・スウェーデン・スペインの連合軍が無敵に思えたフランスの軍を破ることができた。フランスは和平に応じ、ナポレオンはエルバ島に配流された。

 第7次対仏大同盟は完全に蛇足である。一発逆転を狙ってナポレオンはエルバ島から脱出し、百日天下となる。フランスは再び再起を狙うも、ワーテルローの戦いの戦いで敗れ、ナポレオンはセントヘレナ島に配流される。ここに来てようやくナポレオン戦争は終わったのだ。

 ナポレオン戦争の興味深い点は第二次世界大戦との共通点が多く見られることである。どちらも欧州統一を狙う陸軍国家をイギリスが同盟国を動員して封じ込めた戦争だ。フランスもドイツもイギリスを攻略しようとしたが、英海軍に阻まれて果たせなかった。イギリスは海上封鎖で両国を弱らせようとするが、欧州大陸を統一しているために物資は豊富にあり、膠着状態だった。続いてロシアに侵攻するが、これが原因で敗北している。仏独が統合されれば英露と釣り合いを取ることができるが、上回ることはできない。ナポレオンは英露同盟にオーストリアとプロイセンが加わったことで、ヒトラーはアメリカが加わったことでバランスが崩れて敗北している。

フランスの凋落

 ナポレオン戦争の敗北を契機にフランスは衰退していくことになる。スペインと違って劇的な衰退ではなく、あくまで1ランク落ちると言った意味での衰退だ。フランスの領土はあれほどの敗北を喫したのにもかかわらず、保持された。列強は戦前の秩序を再興することを優先したからだ。

 1848年革命で大統領に選出されたルイ・ナポレオンはナポレオン3世として復活し、叔父の業績を自分も達成しようとした。イタリアやベルギーに進出したり、海外植民地を獲得しようと言った具合である。だが、彼の構想はあまりうまく行かなかった。フランスは相変わらず欧州の大国ではあり続けていたのだが、更に上回る国が現れたのである。

 ナポレオン3世が没落した理由はビスマルク率いるプロイセンとの戦争に敗北したからである。これは欧州の勢力均衡を揺るがす大事件だった。ドイツ帝国の誕生と同時に欧州大陸では主役交代が起きた。これまでフランスが占めていた地位をドイツが占めることになり、独仏が逆転したのだ。これまでイギリスはフランスを封じ込めるためにプロイセンと友好関係にあったが、今度はイギリスはフランスと組んでドイツを封じ込めようとし始めた。

 独仏逆転の要因は何か。地政学的に国力を伸ばす方法は主に3つある。国土を拡張する、人口を増やす、一人当たりのGDPを伸ばすの3つである。ドイツはこの3つを全て実行して見せた。欧州最強の大国としてドイツが君臨するのは当然だった。

 しかし、フランスの側の要因も見逃せない。フランス衰退の理由は一つだ。それは人口である。フランスはナポレオン戦争の辺りから少子化が進行していた。ナポレオン戦争の時代はフランスの人口はイギリスの倍以上だったのだが、第一次世界大戦の時はイギリスに逆転されていた。アメリカの移民の出身国を見ても、イギリス・ドイツ・イタリアが多く、東欧やロシアもそれなりにいるのに、フランスはかなり少ない。フランスの強みは欧州最大の人口だったのだが、この強みは失われてしまったのである。

 かくしてフランスはドイツに逆転されることになった。かつてフランスが欧州で占めていた地位はドイツが占めることになった。自信満々のドイツは周辺諸国に同時に攻撃を仕掛けるようになり、世界大戦が勃発した。フランスは第一次世界大戦で懸命に戦い、ドイツに勝利することができた。しかし、この戦争で国力の全てを使い果たしてしまった。第二次世界大戦でフランスはドイツに6週間で敗北している。フランスは英米軍のお陰で解放されるが、戦勝国の輝きはなかった。フランスは続いてインドシナとアルジェリアでも連敗する。3つの戦争の敗北でフランスは帝国を失い、タダの国になった。

近現代フランスの地政学

 近代から現代にかけてのフランスは隣に自国よりも強力なドイツが存在することが特徴だ。ドーバ海峡の向こうには海洋国家のイギリスが鎮座している。スペインは完全に没落して存在感が無く、イタリアもなんだか弱そうなので、フランスにとっては英独の二国との関係が重要となる。

 近世のフランスは周辺に開拓できる緩衝地帯が沢山存在したが、近現代のフランスにそのような余地は無かった。ナポレオン3世はイタリア統一戦争に介入したが特に見るべき成果は出せていない。フランスの対外拡張は植民地関係がメインだった。欧州大陸におけるフランスは現状維持勢力であり、周辺国に脅威を与える存在ではなくなった。ベルギーとイギリスの協定はもともとフランスの脅威に備えるためのものだったのだが、いつしかドイツ向けのものへと変わっていった。

 19世紀の英仏はライバル関係にはあったが、決定的な対立を避けていた。むしろ具体的な戦争においては両国は協力し合う事が多かった。これもフランスの衰退が原因だろう。もはや欧州の平和を脅かす国とは見られなくなっていたのだ。19世紀前半の欧州はかなり安定していたと言われる。英仏露の三大国を中心に、間には緩衝材としてプロイセンとオーストリアが強すぎず弱すぎず、存在する。バルカン半島もまだオスマン帝国の下で平和が保たれていた。キッシンジャーの理想とするウィーン体制の時代である。ロシアは一時期脅威と見られたが、クリミア戦争の敗北で後退した。

 ドイツ統一後のフランスは困った地政学的状況に陥った。現在の韓国に近いかもしれない。イギリスはフランスをけしかけ、ドイツを抑止した。フランスはイギリスによってドイツのストッパーの役目を押し付けられた格好である。19世紀から20世紀前半にかけての仏独は宿命のライバルといった雰囲気であり、フランス人は何から何までドイツと自国を比較した。これまで仏独国境はフランスが攻めるための国境だったが、突如としてフランスにとっての深刻な安全保証上の脅威になってしまったのだ。

 この状況を打破するためにフランスが行ったのがロシアとの同盟である。それまでフランスは革命国家であることもあって、ロシアとの関係は良くなかった。ロシアの南下政策は中東に進出していたフランスにとって脅威だったので、クリミア戦争で両国は交戦している。しかし、19世紀後半になると仏露は非常に親密になっていく。

 ロシアは巨大だったが、後進国だったので、フランスとの関係をありがたがった。19世紀のロシア文学を読めば分かるが、この時代のロシア人は本当にフランスが好きだ。田舎の人間が東京に憧れるかのような口ぶりである。ロシア語の単語にもフランス語が外来語として多数入っている。こうしてドイツ包囲網をフランスは作り上げたのだ。

 フランスは大陸国家なので、イギリスほどの大帝国を築くことはできなかった。それでもドイツに比べれば海に面していたので、植民地を沢山獲得できたほうなのかもしれない。

戦後フランスの地政学

 第二次世界大戦はフランスの地政学的立場を変えた。もはやドイツはそれほど脅威ではなくなった。その一方でフランスも深刻に凋落していた。欧州は過去の大陸となり、地域はアメリカとソ連に分割占領されていた。

 戦後のフランスは戦前に比べると安全な位置にあった。ドイツは東西に分裂し、大幅に弱体化しており、戦前のような深刻な脅威ではなくなった。ソ連の軍事力はフランスを圧倒していたが、鉄のカーテンとの間には西ドイツやイタリアといった緩衝地帯が存在していた。それにフランスは核兵器を手にしていた。これがあればソ連との戦争になっても最低限の保身はできるだろう。

 EUの誕生はフランスが主導で行われた。これは単に経済的な意義だけではなく、安全保障上の理由も含まれていた。フランスがドイツと組めば安全保障に悩まされることはなくなり、イギリスを上回ることができる。西ドイツはフランスにとって緩衝地帯として使い出がある。フランスはアメリカの子分となることを快く思っておらず、独自の勢力として台頭することを願っていた。ド・ゴール主義もこうした動きの最たるものだ。仏独が統合されれば米ソと並ぶ大勢力として尊敬されるかもしれない。これがフランスの目的だったのだ。

 ナポレオンの帝国や第三帝国と同じく、大陸ヨーロッパが統合された組織がEUだ。これらの構造を前提とすると、EUはイギリスを上回るが圧倒することはできず、英露が組めば台頭の関係になる。これにアメリカが加われば完全に逆転するだろう。それくらいのパワーと思われる。EUは国家に変わりうる存在にはならなかった。理由はいくつか存在するが、一番の理由はNATOに変わりうるものが存在しなかったからである。欧州諸国にとって、フランスの提供する安全保障よりはアメリカの提供する安全保障の方が遥かに頼りになると感じられたのは言うまでもない。

 なお、当初はEUはフランスが主導していたのだが、冷戦終結後のドイツ再統一とEUの東方拡大でEUの盟主はドイツになってしまった。再び仏独逆転が起きたことになる。ドイツは1870年、1933年、1991年と三度フランスに逆転している。やはり統一さえできればドイツの方が強いのだろう。

 フランスがドイツに勝てる箇所は一つしか無い。それは核だ。いまのところドイツは核戦力を持っていないので、EUが独自の安全保障を行うならばフランスの核は重要になるだろう。

まとめ

 フランスの歴史は深いので、全部書いていると凄まじい量になってしまう。

 フランスは大陸国家であり多くの地域と隣接している。主に北西のイギリス・南西のスペイン・北東のドイツ・南東のイタリアだ。フランスにとってこれらの国境が脅威になることは少なかった。なぜならフランスの陸軍力はこれらの国を上回っていたからだ。熾烈だったのはオーストリアとの対決だが、それもフランスの側には余裕があった。

 一方で大陸国家のフランスは海ではイギリスに勝てなかった。イギリスに海洋覇権を取られたのはこれが原因である。フランスは植民地戦争でも常に敗北していた。大西洋の制海権を取っているのがイギリスなのだから、仕方ない面がある。

 ナポレオン戦争ではフランスの国力が存分に発揮され、フランスは欧州大陸部を統一した。それでも英露を圧倒することはできなかった。ドイツのナショナリズムに火を付けたこともあって、敗北を喫している。

 19世紀のフランスは少子化のために国力が落ちており、欧州を統一できる力は無くなっていった。一方で隣国ドイツが強大になり、フランスは安全保障上の深刻な脅威に晒されることになった。フランスは二度の世界大戦でドイツと交戦し、酷い打撃を受けた。

 戦後のフランスはドイツと組むことにした。お陰で平和的にナポレオンの帝国が再現されたことになる。しかし、東西ドイツ統一とEUの東方拡大で再び盟主はドイツになった。またもや仏独は逆転したことになる。

 なお、現在のフランスの地政学的な立ち位置は非常に安全である。ヨーロッパの撹乱要素は東方のロシアやバルカン半島であり、フランスは広大な緩衝地帯を持っている。それにフランスは核保有国でもあるので、国土に攻め込まれる可能性は低い。ドイツと組んでいる限り、フランスは安泰なのだ。

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