東大入試に必要な頭の良さと社会で必要な能力のズレについて

 以前の記事でもさんざん触れている項目ではあるが、東大生だからと言って仕事の能力が高いわけではないし、むしろ東大レベルの学力は社会で使い道がないという方が実情に近いだろう。東大生の多くは大学入試の時点での優位を失ってしまい、早慶やMarchの出身者と同じ土俵で再度競争することになる。確かに東大卒には優秀な人は多いが、それは競争心の強さや元のスペックの高さに起因することが多く、東大入試に求められる頭の良さとはあまり関係がないと思う。今回は東大入試の考察を通して実社会で求められる頭の良さとのズレを考えてみたいと思う。

なぜ東大入試と社会で必要な頭の良さがズレるのか

 東大入試は確かに頭のいい人しか通らないような仕組みになっている。ここは実に的確だ。地頭の良くて勉強をしっかりしている生徒は例外なく東大に合格していったし、逆にどちらかが不十分な人間は合格することは難しい。社会に出ても東大卒の多くはやっぱり頭がいいと感じることが多い。

 しかし、これは社会人的な文脈における頭の良さとは別物だ。社会人にとっての頭の良さは東大合格に必要な頭の良さと違うのだ。主に理由は2つある。

・東大は学問の府であり、サラリーマン養成所ではない
 東大が欲している人物は学術的に秀でた人物だ。サラリーマンとして優秀な人物を入学させたいわけではないだろう。これは大学という場所の本質にかかわる問題だ。大学は学問をする場所なのだから、アカデミックな才能を持つ学生を採りたいというのは当たり前の話なのである。

・東大が難しすぎる
 これももう一つの要因として存在する。サラリーマンに学歴は関係ないと言っても、基礎学力が高いほうが良いことは間違いない。具体的にはMarchくらいの学力がないとサラリーマンの場合は問題となることがあるだろう。早慶旧帝クラスの学力があれば上出来である。問題はそこから上だ。確かに東大生の学力は圧倒的だし、上位層は雲の上の世界だ。しかし、ここまでくると特殊化が進みすぎており、一般社会のニーズとは乖離が発生する。東大入試を時間内に解く能力はあまりにも受験に特化しすぎており、ほかに応用が利かなくなってしまうのだ。

 それでは具体的に日本の高校教育のカリキュラムなども踏まえながら、東大入試と実社会のズレについて考えてみたいと思う。


英語

 英語は東大入試の科目の中でも一番実用性が高いだろう。実際、英語は学校教育でしっかり文法などをやらないと上達しないし、これからは国際化が進むだろうから、一層の英語教育が求められることは間違いない。

 東大の入試問題は多種多様な問題形式の詰め合わせであり、日本の英語試験の中では最難関だ。ここにも問題はない。英語の場合はどちらかというと日本の英語教育全般の問題だ。英語の授業で読まされる文章の多くは論説文と小説である。これは国語と似ている。英語の場合は英文科の教授が作っていることもあって、文学的な文章が結構多い。

 ところが、こうした文章を読む能力は教養として価値があったとしても、社会では求められていない。社会で必要な語学能力とは日常会話と契約書などのビジネス文書の読解である。チラシとか、取扱説明書とか、そういった文章を読むことが必要とされる。シェイクスピアなんか読めても趣味の世界であり、自宅でどうぞという話になる。

 個別の問題形式にも乖離がある。例えば英文解釈は難解な英文をじっくり考えて和訳する問題だが、実社会の文章にこんな難解なものはないし、英文を英文のまま理解することを重視する最近の風潮には全くそぐわない。

 パラグラフ整序や要約問題に関しても同様だ。東大の入試問題は物事の概要をつかみ、その背景にある真実を高度な思考能力をもって読み解く能力が求められているのだが、この能力もまたビジネス文書の読解には必要がない。寧ろ細部を飛ばし読みするクセが付いて良くないかもしれない。ビジネスにおいて文脈の読解能力は不要で、一文一文を間違いがないかにらめっこすることが必要である。

 思考力重視の東大英語は小説の問題やリスニングに関しても及んでおり、思考力のパズルとしては有効でも、実社会で求められる能力とは乖離が大きい。実社会で求められる言語能力はメールやパンフレットのように文脈のない大量の英文をミスなく読むことであり、その点ではTOEICが最適だろう。TOEICは地獄のようにつまらないテストかもしれないが、仕事というのは基本的にそういうものであり、子供の時から耐性を付けた方が将来有効のような気もする。

 なお、東大以上に実用性がないのは京大英語だ。京大英語は英作文と英文解釈の二題しかなく、分量が少ない。これでは現代のタイパ社会が求める処理能力を全くテストすることができない。

数学

 数学自体は現代社会においては必要なことが多いと思う。コンサルなどでは理系人材を欲していることが多いし、エンジニアなどにも数理的な素養は必要だ。

 ただし、理系専門職を除けば数学の能力はあまり必要がない。少なくとも、難問を瞬時に解くような能力は全く使う機会がないだろう。理系の優秀層は確かに高度な数学能力を持っているかもしれないが、ここまで高度な受験テクニックは不要だ。自己目的化してしまったような印象もある。

 実社会で求められる数理的要素はアクチュアリーのような専門職を除けば単純であることが多い。基本は四則演算の延長線上だ。実社会における「数学に強い」とは、「数字に強い」ことを指すことが多い。この場合、結局は英語と同じく、単純処理力ということになる。要するに計算が早く、数字を忘れないということだ。簿記会計は数字を扱うが、理系のような数理的思考能力は全く必要がなく、使う能力は別物である。

 二次試験の形式もよくない。東大全般に言えることかもしれないが、東大の数学は数行の問題文から数十行の答案を作成するような回答形式が多い。問題はシンプルだが、その言わんとしている内容は深く、きちんと論証しようとすると長大な答案を書かなければならない。

 これは実社会での頭の使い方とは真逆だ。ブルシットジョブに必要な能力とは長大な文章の中から必要な数行を見出すことだ。考えをどんどん拡散させていくような頭の使い方は全く不要だし、むしろ業務の妨げになる。記述式の能力は仕事ではほとんど生きないのではないかと思う。

 実務に必要な頭の使い方はむしろすでに完成された業務フローから足りない部分を見つけ出して補うことであり、これはセンター試験の数学の方が近いだろう。一から十まで理解することは求められておらず、むしろ行間を読みながらハイスピードで穴埋めを行うことが求められる。これはブルシットジョブの性質によく似ている。易問高得点が必要なこともよく似ているだろう。

国語

 一般社会で生きるうえで国語力が必要なことは間違いない。学校教育の中でも最も重要な科目だと思う。

 しかし、学校教育で出される文章は基本的に論説文か物語文だ。両者は教養を深めるうえでは重要かもしれない。しかし、仕事という観点で見ると、こうした文章を読む機会も書く機会も基本的に存在しない。抽象的な説明を読み解く能力は不要だし、作者の気持ちを考える機会もないだろう。メールの文章や社内決裁の文書を作成するときに高度な語彙は不要だし、それよりも形式通りにミスなく文書を処理する能力の方が重要である。

 東大国語は実用的な日本語能力とはかけ離れている。まず古文漢文は実社会で何の役にも立たない。では現代文はというと、仕事はもちろん新聞記事ですら見かけない抽象的で難解な文章であり、読解のレベルも例をみない文脈の理解能力が問われている。ここまで深い理解を要する文章は会社で出会うことがないだろう。

 では実用的な国語能力は何かと考えると、TOEICの日本語版のように大量の文章を間違い探しのように正誤判定するといったものになるだろう。例えば契約書のドラフトのミスを修正するとか、大量のマニュアルを読んで問題解決の方法を記している部分を指摘するといった内容だ。コミュニケーション能力を問うことは難しいだろうが、電話応対の要素を入れたリスニングなども良いかもしれない。

社会

 実社会で生きる上で意外にこの科目の重要性は低い。大学入試の理系はもちろん、私立高校の入試であっても社会は要求されない。地理や歴史に詳しくてもあまり社会では役に立たないということが分かる。理系の学生の中には社会科にきわめて疎い人間も多く存在するが、このような人物が仕事上の能力でなにか欠点を見せたという話は聞いたことがない。

 むしろ社会科に詳しいことは実社会においてリスクになるかもしれない。政治経済の話は職場のような場所では嫌がられることが多いし、思想の偏った人間と思われるかもしれない。それに物事を社会科学的にとらえる見方は仕事では机上の空論と扱われる。マクロスケールで物事をとらえる癖ができると生意気だと思われるし、理解したところで個人の力ではどうしようもないことだ。

 東大社会の特徴は長大な大論述だ。表面的な暗記では到底太刀打ちできない問題形式である。ところが、これは数学でも述べたことだが、長大な文章を組み立てる能力はブルシットジョブにおいてあまり必要ではないことが多い。必要事項を簡潔に書けばいい話だし、内容もおおむね決まっていることが多いからだ。

 社会科という科目の存在意義は、結局のところ単純暗記を乗り越える能力の涵養だけなのかもしれない。だったら簿記とか法律の暗記を科した方が実用的である。社会科的な素養が役に立つとしたら株式投資だろうが、こういうのは副業の世界の話である。

理科

 筆者は文系なので、理科を受験で使ったわけではない。したがって、東大理科について語るのは難しい。ただし、高校の時に科学五輪に入り浸っていたこともあり、全科目にある程度は触れたことがある。

 一つだけ言えるのは、社会科と同様にこの科目の実用性が乏しいということだ。理科を勉強すればシャンプーのボトルを見た時に化学式が思い浮かぶようになるが、仕事には役に立たないだろう。物理や生物も到底役に立つ場所があるとは思えない。人体の臓器の名前くらいは知っていた方がいいと思うが、これは中学範囲だろう。

 理科は選択科目であるため、特に知っても知らなくても問題はない科目と言える。ましてや文系は理科に触れる機会はない。サラリーマンとして生きる上で高校理科は何一つ役に立たない。

難易度

 東大入試の難易度は高い。二次試験全般がそうだが、東大はその中でも最高難度である。あの難しい二次試験を60%ほど得点しなければ合格には届かないだろう。東大の問題を解くには高度な思考能力が問われ、残念ながら才能のない人間は何年浪人しても合格はおぼつかないと思う。

 ところが、こうした難問型のタスクは実社会には少ない。60%の完成度で良い仕事がどこに存在するだろうか。最先端の研究やユーチューバーのような自由業であれば問題ないかもしれないが、東大生の多くが進むエリサラの世界にそんな仕事はない。それよりも普通に人ができる仕事をミスなく着実に完成させることが重要である。簡単な問題をミスなく素早く95点くらいで解く能力こそが社会人に求められているだろう。

 また、東大入試のような高度な思考能力を求める仕事は少ない。特殊な才能がないとできない仕事は大企業の場合はなるべく回避するべきとされているからだ。マニュアル化し、誰もができる仕事にタスクは分解されている。難しい問題を頭をひねって考えることは知的遊戯としては興味深いかもしれないが、職場ではほとんど使うことのない能力である。

情報量

 東大入試の問題は良く練られている。数学にせよ、理科にせよ、無駄な文章は全くない。与えられた条件を全て過不足なく使用して初めて正解にたどり着けるのだ。英語にせよ、社会にせよ、国語にせよ、問題構成は至ってシンプルであり、少数の条件を二重三重に工夫して長大な答案を書き出す能力が求められる。

 一方で現代社会ではこう言ったシンプルな思考能力は意外に使わない。むしろ使う頭は逆方向だ。例えば企業のウェブサイトを見てみると、どうでもいい広告とか目がチカチカするレイアウトとか頭が痛くなる長大な約款でいっぱいだ。現代社会では多数の無駄な情報から一行の必要な情報を見つけ出す能力が重要であり、東大入試のような頭の使い方をしていると、すぐにパンクしてしまう。

 例えるならば、東大入試は無人島で手持ちの道具を工夫して住居を作る作業なのに対し、実務は辺り一面のガラクタの山から少しでも使えそうな資源を見つけ出している感じなのだ。前者に必要なのが想像力や工夫する力なのに対し、後者に必要なのは斜め読みと要領の良さである。

方法論

 受験は「答えが決まった問題」を解く作業であり、受験生の頭を型枠に押し込んでいるという批判がある。確かに創作活動などに比べれば受験勉強は形の決まったものなのかもしれない。しかし、東大をはじめとした難関大の受験は結構奥が深く、そこには多種多様な創意工夫が存在する。

 東大受験で大切なことは自分なりにやり方を工夫することだろう。理科三類の場合は鉄緑会で限界まで詰め込み教育を行う必要があるかもしれないが、普通に東大に受かる程度であれば、そこまでの密度は求められないため、いろいろと思考錯誤の余地がある。参考書をいろいろと変えてみたり、いろいろな塾に通ってみたり、自分なりの暗記術を開発したりという具合である。

 ところが大企業に入ると、こうした創意工夫を発揮する機会はあまりない。大企業の業務フローは大抵が細部まで完成されており、勝手に個人の思い付きで変更されるのは困るのだ。相性の良くない予備校の授業を切ることはできても、相性の良くない上司を切ることはできない。

 それに周囲との兼ね合いもある。自分なりのやり方は効率が良いかもしれないが、ほかの人から見た時の印象が良くないかもしれない。音楽を聴きながら勉強するのが自分に合っていても、音楽を聴きながら仕事をしたら問題になるだろう。

 要するに、会社で必要な能力は難関試験のために学習の仕方を工夫することではなく、どちらかというと学校の勉強をしっかり行って内申点を取る工程に近いのだ。

集中力

 東大受験に必要な集中力は受験期の一年や二年を勉強に集中してエネルギー投入する能力と、長い試験時間の間に集中力を保つ力である。

 ただこうした能力が会社員に必要かと言われると、微妙だ。確かにエネルギーを集中投入する能力も大事かもしれないが、どちらかというと家事や資格勉強と並行して業務を行う要領の良さが必要であり、一つのことに没頭できる機会は基本的に少ないと考えるべきだろう。特に最近は男性にも家事能力が求められるようになったので、一層バランスが重視されるだろう。

 一点集中型の集中力も、職人を目指すのなら良いかもしれないが、会社員に必要な注意力の在り方とは乖離がある。もっとマルチタスク的な能力が必要だろう。こうした要素はペーパーテストでは測ることができない。会社員に必要な能力とは業務を行いながら、周囲の様子にも気を配り、なおかつ急に話しかけられても対応できるような集中力の在り方だ。試験中は話しかけられたり騒音に悩まされることはないが、実社会ではむしろそれが当たり前である。

サラリーマンに必要な学力

 高校過程の勉強は教養要素が強く、実社会で使う頭の良さとは乖離が激しい。まったく高校の勉強が不要とは言わないが、学力は地方の国立大学程度で十分であり、東大はオーバースペックだ。

 東大合格に必要な高度な思考能力は実社会では不要だ。むしろ単純な問題をミスなく大量に処理することが求められる。二次試験よりもセンター試験の方が近く、TOEICはさらに近い。ワーキングメモリーは実務能力に必須だが、東大入試にはほとんど必要がない。理科や社会に関しては科目自体が実用性に乏しい。こうした科目は教養を深めたり学者になる上では重要だろうが、会社員として働く上では使い出がなく、できなくても問題がない。

 こう考えると、東大生が社会に出て必ずしも優秀とは限らない理由がよくわかる。コミュニケーション能力や体力など勉強以外の要素は沢山あるが、そもそも頭の良さの方向自体が実社会で求められる能力とズレているのである。

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