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「さ入れ言葉」はなぜ「ら抜き言葉」と違ってなぜ定着し得ないのか

 前回の記事では「ら抜き言葉」が文法的に自然であり、理にかなっているという考察を行った。最近は「さ入れ言葉」というものもあるらしい。「さ入れ言葉」とは「書かさせる」とか「歩かさせる」といった日本語のことだ。本来は「書かせる」「歩かせる」が正しいのに、余計な「さ」が入ってきてしまうのである。

 以前の記事で日本語の文法は子音末動詞と母音末動詞の二種類があるという考察を述べた。

 この二種類の概念を今回も使っていこう。子音末動詞とは五段活用のことであり、母音末動詞とは上一段・下一段活用のことである。学校文法はひらがな単位で考えるので面倒なことになっているが、それぞれの真の活用語尾は「aiuuee」と「○○るるれろ」だ。語中で変化するのはここだけである。母音末など面倒な用語を考えついたが、本当は「あいうえ活用」と「るるれろ活用」と言った方が外国人には理解しやすいかもしれない。

 さて、日本語の助動詞で「れる・られる」と「せる・させる」の2つは似たような性質を持つ。どちらも子音末動詞か母音末動詞かで形が変わるのである。「ない」とか「た」にはこのような性質はなく、普通に未然形接続や連用形接続をすれば良い。

「せる・させる」もまた、未然形接続である。子音末動詞はそのまま未然形に「せる」をつければ良い。「切る」であれば「切らせる」である。母音末動詞の場合は未然形は無活用なのだが、ここに「させる」をくっつける。「着る」であれば「着させる」である。

 ただ、日本人がこの違いを意識しているとは思えない。日本語の使役には二種類の助動詞があると聞いても、ほとんどの日本人は初耳だろう。おそらく、日本人の感覚からすると、使役の助動詞の本丸はたぶん「aせる」である。子音末動詞であればそのまま「書かせる」とすれば良い。ところが母音末動詞の場合は「食べあせる」となってしまい、子音と母音がセットの日本語では不自然だしたがって「〇〇させる」からの類推で「さ」が入ってきて「食べさせる」となったのではないか。なお、「する」の使役形の「させる」は不規則動詞なので考察から一切外すものとする。

 しかし、人によっては使役の助動詞を「させる」と混同する人間があらわれた。これが「さ入れ言葉」である。子音末動詞に「させる」は使えないのだが、間違って使ってしまう人間が出てきたのだ。「書かせる」ではなく、「書かさせる」といった具合だ。

 この原因は何か。おそらく使役表現の大半が「させる」であることが原因だろう。不規則動詞「する」の使役表現は「させる」である。これは「さ+せる」なのだが、日本人の目には「させる」のように映る。そして、日本語の動詞で一番多いのは「漢語+する」だ。こうなると実際の日本語で見る使役表現の大半は「させる」という字面になる。「撤回させる」とか「異動させる」とかである。これらは全て「せる」なのだが、「させる」のように見えてしまうのだ。

 こうして使役表現として「未然形+させる」という誤用が生まれた。「食べ・させる」と同様に「書か・させる」という表現になる。外国人からみるとこちらのほうが簡便かもしれない。そもそも子音末動詞と母音末動詞で助動詞が異なるというのは面倒すぎる。統一してくれというのが本望だろう。

 使役助動詞の統一という観点では「さ抜き言葉」でも問題はないはずだ。ただ、「食べせる」とか「降りせる」といった日本語は見たことがない。「着せる」とか「見せる」といった動詞はあるが、「着させる」「見させる」とはニュアンスがわずかに異なるので、別動詞である。とはいっても両者の場合はかなりの範囲で交換可能だが、「浴びさせる」と「浴びせる」だと結構異なる気がする。「スペシウム光線」と言えば「浴びせる」ものだろう。

 とはいえ、「さ入れ言葉」あるいは「さ抜き言葉」は「ら抜き言葉」のような流行はしにくいだろう。なぜなら「ら抜き言葉」ほどのニーズが存在しないからである。

 「ら抜き言葉」の背景には日本語の助動詞の「れる・られる」の意味が多すぎて可能の意味として使いにくいという問題があった。だから子音末動詞は可能動詞という新たな活用を作り出し、あたかも「仮定形+る」という新たな助動詞のように使われている。子音末動詞と母音末動詞で可能表現の助動詞が異なるのは不自然であり、ねじれ状態になっている。「歩ける」を尊敬や受動と勘違いすることはないが、「食べられる」は尊敬や受動と見分けがつかない。子音末動詞は「仮定形+る」を使うのが普通なのに、母音末動詞は未だに「未然形+られる」が使われているのは不自然だ。母音末動詞にも「仮定形+る」を使えるようにしてほしい」というニーズが高まるのは当然だろう。

 ところが、「せる・させる」には同様のニーズが存在しない。「歩かせる」とか「食べさせる」の意味は一通りである。したがって、可能動詞に相当する隣接表現も存在しない。「見せる」や「着せる」といった表現はあるが、可能動詞とはやや性質が異なる。尊敬や受動の「れる・られる」、例えば「書かられる」とか「叩かられる」といった表現が一切存在しないのと同様に、「さ抜き言葉」も誤用として捉えられるだろう。これは裏を返せば「ら抜き言葉」の根源が「れる・られる」の1本化ではなく、可能動詞の拡張であるという説も裏付ける。

 他に似たような活用をする助動詞として「う・よう」が挙げられる。子音末動詞は「歩こう」、母音末動詞は「食べよう」となる。この場合も一本化の兆しは見られない。「歩こよう」とか「食べう」なんて活用は見たことがない。日本人にとって、「れる・られる」「せる・させる」「う・よう」の1本化は全くニーズが無いのである。「ジャイアンに殴れる」「天皇が話さられる」「パソコンを閉じう」「ピクニックに行こよう」といった語法を気持ち悪いと感じるのと同様に「さ入れ言葉」も不自然な誤用として拒否されるに違いない。

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