エピクテトス/アンソニー・ロング編/天瀬いちか訳『自由を手に入れる方法』(文響社、2021年)を読んで。

 哲学は小難しい。そう思う人は多いのかもしれない。例えばプラトンやアリストテレスやカントの倫理思想を紐解く人々は、書いてあることはそれなりに理解できたとしても、よくわからないという実感をもつこともあるかもしれない。そういった人々に薦めたい哲学者がいる。それはエピクテトスである。いっときマルクス・アウレリウスが注目され、その著である『自省録』を読んだことがある人もいるかもしれない。そのマルクス・アウレリウスの思想の基盤にあるストア派の考えの基礎を築いたのがエピクテトスなのである。
 ストア派という名前は時々耳にする人もいるのではないだろうか。ある種の処世術を勧める哲学者の集団という認識を持っている人もいるかもしれない。しかしエピクテトス自身は自らをソクラテスに連なる者と見做し、さらにその思想の影響はカントにまで及ぶ。教科書的な叙述を通してはストア派の考えはすっきりとはしていても私たちの生活とどのようなかかわりがあるのかと思わせるようなところがある。ストア派の体系性はアリストテレスのそれにも比べられるほどのものであり、具体的にその哲学思想の奥行きというのを窺うために何を読んだらいいのだろうかと思ったことのある読者も中にはいるのではないだろうか。そんな感覚を抱いた人にぜひ本書を勧めたい。
 エピクテトスの『要録』はその弟子アリアノスがエピクテトスの思想のエッセンスを書き残したものである。エピクテトスの『語録』との関係は本書を紐解いていただきたいのだが、『語録』はエピクテトスが打ち明けられる様々な悩みに答えていくものであり、『要録』は格言風の簡潔な叙述の中にストア哲学の思想のエッセンスが凝縮されたものである。とはいえ『要録』は、簡潔な叙述の中に生き生きとした対話の様子を彷彿とさせるやり取りでもってストア哲学を実践するための様々なヒントがちりばめられている。『要録』はまさにストア思想を知るための最重要テキストであり、本書にはそれの全訳がアンソニー・ロングの英訳に基づいた邦訳で納められているのである。アンソニー・ロングは哲学史において、古代から中世への移行期が過渡期として等閑視されていた哲学史観を大きく変えるきっかけとなる研究を世に出した研究者である。その時代を画するような研究者が一般向けにストア思想を紹介した一冊なのである。
 英訳からの日本語訳となれば、普通に原典の邦訳を読めばいいと思う読者もいるかもしれない。しかし本書の特徴は長年の研究に基づく翻訳もさることながら、私たちとエピクテトスとの時代の隔たりを埋めようとする脚注と解説にある。本文に組み込まれている解説は私たちがエピクテトスを読むことの意味を明らかにし、平易な叙述の奥に控えるストア哲学の体系を覗わせる何とも贅沢なものなのである。『要録』の全訳を収録した本書はエンケイリディオン(手の中に携えるもの)にふさわしく、繰り返し立ち返るべき言葉を録している。
 本書は私たちに身近な出来事を手掛かりに平易な言葉で哲学することを教えてくれる一冊である。エピクテトスの理想とするものは、ソクラテスやアリストテレスやカントのそれと響きあうものであり、迂遠に思われる哲学者たちと私たちの間に立つ人としてぜひエピクテトスの言葉に触れてほしい。そう思わせてくれる一冊である。本書を通して、影響云々ということではなく、如何にカントの倫理思想が、あるいはロヨラの霊操がストア思想と響きあうものであるかを読者は確かめられるであろう。

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