のぶたか

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ジョルジュ・パスカル/橋田和道訳『アランの哲学』(吉夏社、2012年)を読んで。

 アランは要約を受けつけない哲学者である。それはアランの文章の一つひとつが読者の心を揺さぶり、行動を促すことを企図していることの表れでもあるのだろう。『幸福論』の読者は含蓄に富んだ奥行きのある叙述をさらに理解したいと思ったことがあるのではないだろうか。そういったアランの人間理解の深さを覗わせてくれる論考、それが本書ジョルジュ・パスカルの『アランの哲学』なのである。  アランのプラトン、デカルト、カントに対する敬意はよく知られているところである。しかしその思想の奥行きを確かめる

    • エピクテトス/アンソニー・ロング編/天瀬いちか訳『自由を手に入れる方法』(文響社、2021年)を読んで。

       哲学は小難しい。そう思う人は多いのかもしれない。例えばプラトンやアリストテレスやカントの倫理思想を紐解く人々は、書いてあることはそれなりに理解できたとしても、よくわからないという実感をもつこともあるかもしれない。そういった人々に薦めたい哲学者がいる。それはエピクテトスである。いっときマルクス・アウレリウスが注目され、その著である『自省録』を読んだことがある人もいるかもしれない。そのマルクス・アウレリウスの思想の基盤にあるストア派の考えの基礎を築いたのがエピクテトスなのである

      • イマヌエル・カント/大橋容一郎訳『道徳形而上学の基礎づけ』(岩波文庫、2024年)を読んで。

         本書は熟読を勧めたい最初に読むべきカントの著作である。カントといえば三批判、特に翻訳も多い『純粋理性批判』に手を伸ばす人も多いであろう。しかしどの翻訳が良いのかは読者の置かれた状況に応じて変わってくる。その良し悪しを見極めるにはカントその人の文章に慣れる必要がある。三批判に取り組む前に読むものとしてぜひとも勧めたいのが本書なのである。  カントは感性界(現象界)と叡智界(知性界)とを峻別した。わたしたちがどのような世界(感性界)に生きていて、どのようにその世界を捉えるべきか

        • シモーヌ・ヴェイユ/冨原眞弓訳『根をもつこと(下)』(岩波文庫、2010年)を読んで。

           ヴェイユの文章は、ニーチェの言葉を借りれば、血で書かれている。そのことを『根をもつこと』を読み進めていると強く実感する。  『根をもつこと』は十全な仕方で発表されたものではないため、ヴェイユ自身による細かな学術的注が付けられていない。とはいえ、それを発表するために彼女に準備する時間が残されていたとしても、彼女がそれをしたかどうかはわからないであろう。というのも残された原稿がすでに自らの命を削るようにして書かれていることを感じさせるものだからである。  ヴェイユの文章には多数

        ジョルジュ・パスカル/橋田和道訳『アランの哲学』(吉夏社、2012年)を読んで。

        • エピクテトス/アンソニー・ロング編/天瀬いちか訳『自由を手に入れる方法』(文響社、2021年)を読んで。

        • イマヌエル・カント/大橋容一郎訳『道徳形而上学の基礎づけ』(岩波文庫、2024年)を読んで。

        • シモーヌ・ヴェイユ/冨原眞弓訳『根をもつこと(下)』(岩波文庫、2010年)を読んで。

          シモーヌ・ヴェイユ/冨原眞弓訳『根をもつこと(上)』(岩波文庫、2010年)を読んで。

           「根をもつこと」、それは根を張ることであり、根を張るべく自らを掘り下げていくことでもあるだろう。ヴェイユの言葉に解釈は不要かもしれないが、『根をもつこと』を読むことで感じたことをいくつか記してみたい。  ヴェイユの著作は『自由と社会的抑圧』を除いてすべての著作が死後刊行である。死後刊行ともなればそこにヴェイユが意図したことではない配列やニュアンスが含まれるのではないかとよく指摘されるところである。しかしヴェイユのテクストそのものが解釈を拒否し、むしろ読者に省察を求める言葉で

          シモーヌ・ヴェイユ/冨原眞弓訳『根をもつこと(上)』(岩波文庫、2010年)を読んで。

          河原理子『フランクル『夜と霧』への旅』(朝日文庫、2017年)を読んで。

           フランクルの『夜と霧』はみすず書房を代表するベストセラーである。時にベストセラーともなれば「ちょっといい話」の類の受け取られ方をしてしまうことも見受けられる。しかしベストセラーとして多くの人が手に取る以前にまずこの本は「深く」受け留められていたのである。日本におけるフランクルにまつわる出来事を丹念に追っていった本書はそのことを明らかにしている。  奇しくも東日本大震災と時を同じくして書き継がれていった本書は、改めてどうして今フランクルの『夜と霧』が読まれるのかを明らかにして

          河原理子『フランクル『夜と霧』への旅』(朝日文庫、2017年)を読んで。

          若松英輔『常世の花 石牟礼道子』(亜紀書房、2018年)を読んで。

           桜の花が咲き始めると必ず思い出す言葉がある。 これは石牟礼道子さんに語られた言葉である。この言葉に初めて出会ったのはおそらく若松英輔氏の『涙のしずくに洗われて咲きいづるもの』においてであった。そしてこの書名はもとはと言えば石牟礼さんの「花や何 ひとそれぞれの 涙のしずくに洗われて 咲きいずるなり」の一節を含む「花を奉る」という歌に拠る。  若松氏の著作を通して出会った石牟礼道子さんの言葉は重層的に私の中で響き渡る。それは花というコトバとの出会いとも呼ぶべきもので、『涙のし

          若松英輔『常世の花 石牟礼道子』(亜紀書房、2018年)を読んで。

          クラウス・リーゼンフーバー/山本芳久編『存在と思惟』(講談社学術文庫、2024年)を読んで。

           この論文を読むためにだけこの本を買わなければならないというものがある。リーゼンフーバー氏の『中世における知と超越』所収のトマス・アクィナスの存在論をめぐる論文、『命題コレクション哲学』所収の神認識論はそのようなものに数えられるであろう。それらはのちに著者の大著『中世哲学の源流』に収録されることとなり、日本における中世哲学研究の結晶として今なお輝きを放つものである。相次いで刊行された『中世哲学の射程』と本書『存在と思惟』はその主著『中世哲学の源流』のハイライトともいうべきもの

          クラウス・リーゼンフーバー/山本芳久編『存在と思惟』(講談社学術文庫、2024年)を読んで。

          大貫隆『ヨハネ福音書解釈の根本問題』(YOBEL, Inc.、2022年)を読んで。

           研究者の多くは自らのことを語ろうとはしない。しかし、大きな仕事をした人は多かれ少なかれ自伝的なものを何か残している。本書の著者、大貫隆氏は新約聖書学を牽引し続けている碩学である。氏の業績は『福音書研究と文学社会学』に一つの頂点を見出すことができ、引き続くマルコ研究とヨハネ研究は今もなお新約聖書学において特異な位置を占めていることと思う。広くグノーシス研究者として知られているかもしれないが、本書の書名からもうかがえるように、著者の根本問題はやはり新約聖書研究にあることがうかが

          大貫隆『ヨハネ福音書解釈の根本問題』(YOBEL, Inc.、2022年)を読んで。

          藤沢令夫『哲学の課題』(岩波書店、1989年)を読んで。

           哲学とはなにか。それは絶えざる自己探求にほかならない。哲学を学ぼうと思う人の多くは哲学書を紐解くと思う。もちろんそれが重要な道であることは否定しない。しかし哲学書で語られていることが必ずしもそのまま事の実相を伝えるものとは限らないのである。そのことを知らせてくれるのが本書なのである。すなわち、哲学を学ぶとは絶えざる自己点検の営為を含むのである。  どのようにして哲学の道に入るかはその人のその後の歩みを決することがある。哲学を通して世界観を手に入れることはともすれば限定的な世

          藤沢令夫『哲学の課題』(岩波書店、1989年)を読んで。

          おすすめのブックカバーフィルムについて

           本を読む人にとって、ブックカバーは千差万別で人それぞれに自分なりの定番を探すのも楽しみの一つかと思います。筆者は手に汗をかきやすいので、蒸れて本のカバーの内側に水分が行ってしまうことに抵抗があるので大抵は布製や防水紙のカバーを使用しています。ですが、本の表紙を隠したくない、見える状態が良いという気持ちになるような本もあるのではないのだろうか。例えば、岩波新書とか。あるいは変形サイズで文庫や新書のカバーが付けられない平凡社ライブラリーなどもある。そんな時には透明フィルムが活躍

          おすすめのブックカバーフィルムについて

          田中美知太郎『人間であること』(文春学藝ライブラリー、2018年)を読んで。

           『人間であること』。この書名は「人間ということ」でも「人間とは何か」でもなく、やはり「人間であること」でなければならないのだと改めて思う。本質探求を旨とする科学万能の観を呈する現代世界において、本書が問いかける問題は全く古びていない。それは本書が「人間であること」の問いに貫かれているからである。本書は人間であることの探求の書であることは当然である。しかし、人間をある一つの枠組みの中に同定することを排するがゆえに「人間ということ」でも「人間とは何か」でもなく、「人間であること

          田中美知太郎『人間であること』(文春学藝ライブラリー、2018年)を読んで。

          ケネス・バーディング「歌って学べる新約聖書ギリシア語」について

           ギリシア語学習者にとってまず超えるべきハードルは文字に慣れることであろう。そして格変化を覚えていくこと。その最も難しい部分を軽快なリズムに乗せて歌ってくれる新約聖書ギリシア語文法入門がある。  著者ケネス・バーディングが新約聖書ギリシア語の文法を大学生に教える時に工夫して作られたのが本作である。アルファベットの歌、定冠詞の歌、主要動詞の歌、分詞の歌、エイミ動詞の歌などなど、古典ギリシア語学習者にとって至れり尽くせりな内容である。  以下のサイトでテクストデータが公開され

          ケネス・バーディング「歌って学べる新約聖書ギリシア語」について

          内山勝利『プラトン『国家』 逆説のユートピア』(岩波書店、2013年)を読んで。

           後に続く人の見通しを良くしてくれる研究というのがある。そういった研究の一つが本書、内山勝利著『プラトン『国家』 逆説のユートピア』である。2013年に刊行された当時、プラトン研究の入門書としては藤沢令夫の『プラトンの哲学』とR.S.ブラックの『プラトン入門』くらいしかなかった。その後、総合的な研究案内であるミヒャエル・エルラーの『知の教科書 プラトン』や中畑正志の『はじめてのプラトン』が刊行され、活況を呈している。納富信留氏のプラトンをめぐる研究もまた、目を見張るものがある

          内山勝利『プラトン『国家』 逆説のユートピア』(岩波書店、2013年)を読んで。

          納富信留『プラトンが語る正義と国家』(ビジネス社、2024年)を読んで。

           プラトンの主著は『国家』である。そう繰り返し語られてきた。しかしその著作に向き合う読者を案内する本というのは、内山勝利氏の『プラトン『国家』 逆説のユートピア』(書物誕生)を除いて今までなかったように思う。さまざまな概説書を通して、プラトンの『国家』にどれだけ重要な思想が蔵されているかということが分かったとしても、そこからプラトンその人の著作に向き合おうとする読者はそこに見えざる壁を感じたこともあるのではないだろうか。すでにプラトンの著作に親しんだ読者にとって、プラトンの『

          納富信留『プラトンが語る正義と国家』(ビジネス社、2024年)を読んで。

          山本芳久『愛の思想史』(NHK出版、2022年)を読んで。

           本書は類書のないキリスト教思想入門である。多くの入門書や概説書はある決まった枠組みを読者に提示することが多いのだが、本書はむしろどうしてそういう発想に至るのかという、その一歩手前の部分から説き起こす。その理由は本書が同名のラジオ番組をもとに書き下ろされたものだからであろう。噛んで含めるような語り口によってその惟一回の好機を掬い取ろうとする本書は、ともすれば難しく感じてしまうテクスト群を、実際に読み解くことを通して生き生きと読者に提示してくれる。  本書は著者の『キリスト教の

          山本芳久『愛の思想史』(NHK出版、2022年)を読んで。