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花園まほろば紀行:上野東照宮ぼたん苑 その①

 冬ぼたんを観に行った上野東照宮 ぼたん苑に、ゴールデンウィークの滑り込みで行ってまいりましたわ!GWの上野公園はおそろしい混雑でした!


外国人観光客ばかり。上野東照宮は金ぴかなので、見栄えがするのでしょうね


一月以来ですわ。春ぼたんの咲き具合はどうでしょうか


この日は春というよりも初夏のような陽気でした


入り口はここ。まあ、昔と比べると、料金もお高くなりましたわね...…(ヽ´ω`)

 ここで、苑内ルートを逆走してきたアジア系外国人観光客数人と遭遇。どうやら出口から入ってきたようで、そのまま出ようとしたところ、受付のお姉さんに捕まってキッチリ料金を支払わされていました。しきりに『ワカラナイ』『Free?』『can't understand』とか言ってましたけど、出口にはEXIT ONLYと書いてありますし、「ワカラナイ」のではなく「ミテナイ」か「キマリマモラナイ」のどちらかでしょう。お姉さんグッジョブですわ!(´∀`)b


冬とはまた違った空気感


こういった装飾も、上野東照宮ぼたん苑の魅力のひとつ


おおお~やっぱり光の強さが違いますわね!


早くもあじさいが顔見せに


屋根にあるのは、すだれ?よしず?

 すだれは、吊るして使うもの。よしずは、立て掛けてつかうもの。では、屋根としてかぶせるのは???(;@Д@)?


これはめずらしい...…

 色が真ん中からまっぷたつになっています。しかも花びらの真ん中から。こういう趣向のヴェネチアンマスクとかありそうですわ。


長楽おさらく

 長楽ちょうらくではなく長楽おさらく。古典品種ですわね。名前は花付きがよく、花もちもよいので「長」く「楽」しめることから。なぜ、「ちょう」ではなく「おさ」の読みをあてたのでしょうね...…


これは石楠花しゃくなげ

 石楠花しゃくなげは木、芍薬しゃくやくは草。花の形も違いますし、しかしわかっていても、ついどちらか違う方を言ってしまいそうになるこの感覚...…おわかりいただけるでしょうか


むしろ花だけで見たら、牡丹と芍薬の方が似ているでしょう


まあ、さすがにぼたんと並べて芍薬を植えるような、そんないじわるな真似はしませんよね


強い日差しを適度にさえぎってくれる屋根がいい感じですわ~


これは...…「ミヤコワスレ」と名札に書いてありましたけど、こんなでしたっけ?


紫というより、藤色ですわね……


これぞザ・ぼたん、「鎌田錦」

 ばらが「花の女王」なら、ぼたんは「百花の王」。
 いずれも甲乙つけがたい存在ですわ。


希少品種、「紫晃錦」

 もちろん、花の種類に上下をつけることなど無粋の極み。価値があるとすれば、それは育手の力量と情熱でございましょう。どんな銘花でも、ひとりで勝手に美しく成長するわけではありません。手間ひまと愛情を込めて育てれば、たとえ路傍の草木であっても美しい花を咲かせるものです。


黒ぼたん、「深夜の星」

 そういえば、「世界にひとつだけの花」という歌がありましたわね。わたくしは、あの歌はどうにも好きになれませんの。人はみなオンリーワンなのは間違いないでしょうけれども、特別なオンリーワンになるには、やはりそれなりの努力が必要です。なにもせずに「あなたはもともと特別なオンリーワン」と言ってくれるのは、おそらく親だけです。そもそもお花屋さんの店先に並ぶような花は、選び抜かれたエリートでしょうに。同種同族との競争を勝ち抜いてきた花に対して、『この中で誰が一番だなんて 争うこともしないで』と言い放つのは空々しい思いがいたします。比喩にしてもあまり上手い出来だとは思いませんわ。


これもアジサイ?

 曲の後半では『一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい』と出てきますので、決して努力を放棄せよと言っているのでないことはわかります。しかし「だけ」を推奨するのもわたくしは危ういと思っておりますの。


すごーい!星形の八重!

 なぜなら、人間は花ではないから。植物ではないからです。心があり、欲求があり、満足を求める生き物だからです。
 おのおのが持つ才能という名の種を大事に育てて花開かせたとしましょう。それが誰も通らない路地裏の角にひっそりと咲いていたら?手に取るどころか、一瞥だにされないとしたら?
 そういった残酷な事実による屈辱、不満、虚無感、徒労感、やるせなさ、そういったものに平気な顔で耐えられるのは、おそらくひとにぎり──いえ、ひとつまみの限られた、それこそ特別な魂の持ち主だけでしょう。


木漏れ日とのコントラストが美しいですわ~

 このようなこと、わたくしがわざわざ申し上げずとも、noteのクリエイターさんたちならばわかりきっていることではないでしょうか。渾身の記事が、作品が、スキもつかず、コメントもされず、閲覧数も伸びず、いつのまにかタイムラインから流れていってしまう。その一方で、わずかな文字数しかなく、大して深いことを書いているわけでもない(と思える)他人の記事が人気を博している──そういった気分の時に『この中で誰が一番だなんて 争うこともしないで』『一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい』と言われたとしたら。


まるでばらのような咲き方ですわね!

 それで納得するのか。それで自分を納得させるのか。

 わたくしは、納得いたしませんでしたわ。

 自分が特別なオンリーワンなのは、わかりきっている。しかし、それを知っているのは自分しかいない。このまま、自分のために、自分の物語を細々と書き続けることもできる。

 でも!

 こうして人目に触れる場所で書いているからには、何らかの反応がほしい。称賛や批評といったものだけでなく、このnoteという世界のあちこちから光る輝きを見、また同じように見てもらいたい。そこかしこから放たれる光条を自分の中でプリズムのように屈折させ、反射し、自分だけの新たな色としたい、それを見てもらいたい。

 そう思いました。


輝く緑に夏の足音を感じます

 咲かせた花を、自分ひとりで愛でるのもよいでしょう。しかし、わたくしは、咲いた花が誰にも知られずに朽ちていくのを惜しいと思いました。ゆえに、鉢植えを持って、品評会に行くことを選んだのです。そこでも見向きもされないとしても、可能性はゼロではなくなりますから。
 だからわたくしは「世界にひとつだけの花」の歌詞に不快なものを感じるのでしょうね。お好きな方には申し訳ありませんけれども、これがあの歌に対するわたくしの率直な気持ちですわ。


 ただし、あの歌のあの歌詞に救われた方が多いだろうということは、わたくしにもわかります。そういう方々の気持ちをまで否定はいたしませんわ。人はみな、おのおのに合った救いの形があるのでしょうから。


今から45年前というと……1979年?

 あら、つい熱が入ってぼたんと関係ないお話を長々と...…あまり「嫌いなもので自分を語る」ことはしたくないのですけれど、まあ、たまには毒気も、ということで流してくださいまし。わたくしがどういうスタンスでどこを向いているのかをご理解いただく一助にはなりましょうか。


 こうして飽くこともなくお花を眺めていると、その姿かたちにも千変万化の違いがあることがわかってきます。


 どれに何を感じ、どんな印象を受けるのか──


 それこそが、文字通りの「感受性」なのでしょうね。

 後半に続きますわ~



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