お花見弾丸ツアー:新宿御苑 その3 26 酎 愛零(ちゅう あいれい) 2022年4月30日 17:21 お花見弾丸ツアー 新宿御苑つづき。池コースと森コースで森を選んだ酎愛零は、さらに奥に分け入ってゆく…… 新宿御苑の奥の方。方向音痴の私はすでに自分がどのへんにいるのかわからなくなっています。ガチの山や森では確実に遭難するタイプ 都会の大公園ってほんと便利で助かる……ここなら行き倒れになる心配もないからね!(・∀・) 桜に導かれるようにして、時間も距離も忘れて歩きます すごい桃花源みがある風景。桃じゃないけど。 やはり都内において桜は新宿御苑が独壇場のひとつですね 新宿御苑の歴史をひもといてゆくと、もとは江戸時代、譜代大名の内藤清成(ないとうきよなり)、のちの高遠藩藩主の江戸屋敷だったということです そもそも「新宿」という地名も、もとは内藤氏が中屋敷をかまえる新しい宿場、という意味の「内藤新宿」から来ていますしね 今と同じように、新宿周辺は交通の要衝だったので、家康は信任厚い譜代の者を置いておきたかったんでしょうね 内藤家の石高は三万三千石と言われており、この石高に対して江戸屋敷の敷地はちょっとおかしいほど広いのです 尾張徳川家(619,500石)が約78,144坪、水戸徳川家(350,000石 )が約101,831坪、紀伊徳川家(555,000石)が約130,000坪だということを考えると、石高33,000にもかかわらず、明治に入ってもまだ100,000坪以上あったという内藤家の存在がいかに異例であったかわかります 明治5年、政府は内藤家から上納された土地と買収した隣接地を合わせた58.3haの敷地に、「内藤新宿試験場」と呼ばれる、研究所を設置しました ここでは欧米の技術や品種を含めた果樹・野菜の栽培、養蚕、牧畜などの研究が幅広く行われ、教育施設として農事修学所が設置されます 農事修学所は明治10年に駒場に移って駒場農学校となり、のちの東京大学農学部などのもととなります 農業振興の役割を他に譲った内藤新宿試験場は、明治12年、宮内省所管の「植物御苑」として新たなスタートをきりました 植物御苑ではクオリティの髙い栽培研究が継続され、日本で始めて温室を用いたラン等の花卉(かき)の栽培を行うなど、欧米の園芸の輸入や民間への技術の普及にも力を入れました。現在でも、その温室跡の遺構を見ることができます 皇室の庭園となってからは、大正6年より観桜会(現在の「桜を見る会」)、昭和4年からは観菊会の会場に定着したこともあり、桜と菊の充実が図られたそう 新宿御苑が桜の独壇場である理由は、ここにありました 昭和22年12月、新宿御苑は皇居外苑、京都御苑とともに国民公園として運営される旨が閣議により決定し、昭和24年5月21日に「国民公園新宿御苑」として一般に開放されました こんなにも植物の種類が多彩なのは、もとが植物研究の試験場だったからであり、桜が種類も量も豊富なのは皇室の庭園を経ているからだったのですね 皇室ゆかりの証である御苑の名を冠し、戦火で甚大なダメージを負いながらも、今なお昔を忍ばせる色とりどりの花々、たくましい木々が出迎えてくれる新宿御苑 梢の先の光に、幹の投げかける影の中に、先人たちの足跡が見える気がします そして、最後に目にしたのは、なんとソメイヨシノ。もう散ってしまったと思ったのに、この子だけ満開でした 決して計算してここにたどりついたのではありません、目の前にぐうぜん現れたんです 待っていてくれたのかい……? さあ、新宿御苑の、そして今年のお花見弾丸ツアーも終わりに近づいてきました 今年は時期とお天気に恵まれず、数か所しか巡ることはできませんでしたけれど、やっぱり来てよかった 咲き誇る花の美しさ、命が萌える若い木々、そして集う人々が発する喜びと活気 どこからか飛んできたシャボン玉のように、心をほどいてたゆたうひとときでした 生きとし生けるものすべてに、安らぎを。 #お花見 #新宿御苑 #noteエアお花見 #お花見note #お花見スポット #弾丸ツアー #noteお花見 #お花見弾丸ツアー #体験リポート 26 サポートしていただくと私の取材頻度が上がり、行動範囲が広がります!より多彩で精度の高いクリエイションができるようになります! サポート