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鉄コンの橋とツタの橋

「友人全員失った 元“反ワクチン”派の女性が語る陰謀論の代償と後悔」

コロナ禍でよくわかった。人間がいかにトンチキ科学や陰謀論、デマをかんたんに信じてしまうのかが。ではなぜ、こんなことが起こるのか。少し考えてみよう。今回のニュースつぶやきは拡大版です。


 少し調べれば解ることを調べず、受け入れないのはなぜなのだろう。

 思うに、彼ら彼女らも調べてはいるんだろう。ただそれが自分が信用するソースか、信用しないソースかの違いがあり、そこには「自分の信じたいもの」を選んでしまうバイアスがかかっていると考えられる。陰謀論者にしてみれば国や製薬会社のデータは信用できないものであり、自然療法やスピリチュアルな意識こそが、病魔を退散させうる、彼らにとっては信頼できるものということだ。

 問題は、なぜそこに至ったのかということ。
 どういう人が、陰謀論にはまるのか。

 すぐに思いつくのは、「何を言ったか」より「誰が言ったか」を優先する人だ。ワクチンとは何なのか、ワクチンの歴史は、ワクチンの効果は、ワクチンの副反応は、といった情報を自分で調べずに、『友達が言ってたから』『テレビで言ってたから』『ネットでそう言われてたから』『あるお医者さんが言ってたから』という理由で、他人の言うことを盲目的に信じてしまう人。

 疑り深く、執念深い私などは、気になったことがあれば周りが引くほどさまざまな情報源ソースを引っぱってきて調べまくる。その中で、データを示して客観的な結論を導いているか、ソースすら出さずに感情的な口調で不安を煽っているだけなのかを見極め、選別していき、最終的に信頼できると判断したソースのみを統合して結論を出すようにしている。例えばワクチンのことを調べて記事にするにあたっては約2ヶ月を費した。



 では、他人を信じやすい人ほど、陰謀論にハマりやすいのだろうか。おおむねそうなのかもしれない。しかし、もうひとつかふたつ、そこに加わっている気がする。

 ひとつは、信じていたものに裏切られた時だ。例えば、医療過誤で身内を亡くしていたりなんかしたら、現代医学に対する不信感は根強いものになるだろう。その反動で、医療行為そのものを否定する論調のものに──自分の考えと同調してくれるものに飛びついてしまうのは、容易に想像できる。
 もうひとつは、もともとの性格が優しくて押しに弱く、ひとりでの主張が得意でない場合だと考えられる。例えば、たくさんあふれている情報の中で何を選択していいかわからない場合、淡々としたデータ中心のソースより、データとか皆無でも感情的に不安を煽る「わかりやすい」論調のソースに引っぱられてしまうことがこのタイプには多いかもしれないということだ。

 このふたつに共通するのは、「安心を自分以外の何かに委ねている割合が大きい」ということではないだろうか。今まで安心を担保してくれていた橋が崩落したとき。自分で橋をかける力が無いとき。その両方のとき。そんなときに、向こうからかけられてくる橋を疑いもなく受け入れてしまうのではないだろうか。自分で安全な橋をかけることが難しい人が、安全安心だと思っていた橋が落ちたとき、怒りとともに新たな橋を要求する。少し冷静になれば、鉄筋コンクリートの橋が落ちたら、特に設計もせずにツタと板切れで出来た橋なんか誰も渡りたくないと思うはずなのに、それに乗ってしまう。これは失恋直後の人が普段なら箸にも棒にもかからないような異性にひっかかってしまうことに似ている。

 鉄筋コンクリートの橋を疑うあまり、ツタの橋を安全だと思うことがあってはならない。
 ツタの橋が安全だと巧妙に吹き込む者に対して警戒しなければならない。

 そのためには知識の更新が必要になる。そしてそれは誰かがいつの間にか勝手に頭に詰め込んでくれるものではない。自分で動いて、取りに行かなければならないものだ。

 とはいえ……

 世の中、そんな時間と気力がある人ばかりでもない。代わりに調べてくれる、信頼できる情報源を確保するのがいちばん手っ取り早いんだろうね……それこそ「何を言ったか」じゃなくて「誰が言ったか」になっちゃうんだけどね。それが現実だ(ヽ´ω`)

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