老齢をどう生きるか。どう死ぬか。多くの人が人生の最後に、この問題に直面するやうになりました。こんなことは、ホモ・サピエンス史上、空前絶後の事態です。

ビー・バップ・ア・ルーラ/人生を楽しむ方法(2018年韓国映画)

あらすじ(公式サイトより)
人間にとって老いは避けられない未来...。しかし70代の4人の老人達は、時間や若い世代に屈することなく、自分自身で決断し、どんな障害も乗り越える覚悟を持っている。残りの人生を精一杯生き、人生の目標を達成しようとする彼らの生き様とは。

この映画をアマゾンプライムで観ました。
登場人物の老人の一人が奥さんのことを回想するシーンが心に残りました。

この人物は意識不明になって緊急入院する。朝は元気だったとしても、昼間、そんなふうに前触れもなく倒れてそのまま死んでもおかしくない年齢。それが老齢です。

病院にかけつけた息子に、この老人はベッドに横たわったまま、話しだします。

胃もたれのやうだ。
息が詰まってフラッとした

騒いでもどうにもならない
分かってるだろ?

母さんが亡くなる前に
全部 やった

きれいだった母さんが
放射線治療で髪の毛が抜けて
骨と皮だけになった

それで俺の手を握ったんだ
そして言った
"あなた"
"ターミナルの隣にある店の
のり巻きがたべたい"って

だけど
食べさせる前に逝ってしまった

母さんを治してもやれず
治療すると言って・・・

さて、ここまで父親である老人が息子に語ると、その息子が涙声で言ひます。

父さん
俺はどうすればいい?
父さんまでいなくなったら・・・

それに対して老人は、次のやうに応へます。

お前はドウォンの父親だぞ←ドウォンは老人の孫、息子さんの子供です
一生懸命 生きろ

わたしは、この映画の内容にはこれ以上触れません。
この場面だけで感じたことを書きます。

先づは、一生懸命 生きろ

人は、誰か、自分の命すら奉げられる他者無しでは、一生懸命生きる理由が見つからないのではないかとわたしは思ってゐます。
三島由紀夫氏の言葉、
人は自分のためだけに生きて、
自分のためだけに死ねるほど、そんなに強くない生き物

といふのは真実だと思ってゐます。
ペットが他者の代はりになることもあります。代はりと言っては失礼ですが。
それから、何かの社会的な活動を通して他者に貢献することで
一生懸命 生きろ
の言葉に応へてゐる人も少なくないと思ひます。

「私は今後もこのボランティアの活動を続けていきたいと思っています。お金を稼ぐことより誰かに必要とされていることの方が私にとっては重要なことなんです。 

自分のためではなく、周りの人のために生きたい――在日外国人の想い東京都日野市

その次
きれいだった母さんが
放射線治療で髪の毛が抜けて
骨と皮だけになった

これも三島由紀夫氏の言葉ですが、
わたしは美しく死にたい。
では美しくない死とは何かといふと、歳をとってだんだん名誉のかすがたまっていき、最後は床の中で大小垂れ流しになって死ぬこと。
だから、わたしはがんになるのなどは恐ろしくて恐ろしくてたまらない。

今、たいていの人が老人になり、その老人の少なからぬ人が健康寿命を突破して生き残り、最後は床の中で大小垂れ流しになって死ぬことになってきました。
最近は、医療ビジネス業界が、ホスピスビジネスから、自宅での看取りへと、老人の終末医療を方向づけてゐますが、それでも、最後は床の中で大小垂れ流しになって死ぬことには変はりはありません。

これは、避けられない事実です。
長生きできるので、最後は床の中で大小垂れ流しになって死ぬこともできると言ふこともできます。
それを選ぶのもいいと思ひます。

わたしは、プラン75といふうやうなものも真剣に考へて欲しいです。

でも、それも、結局は、この制度のために公務員を増やした上に医師看護婦や専門職員が稼ぐためのものでしかなくなるだらうなと思ひます。
行政に生きる上での問題を解決してもらはうとすると、みんな、さうなります。介護などは、その典型だと思ひます。


ドラッグストアで、昭和の半ばくらゐまでさうだったやうに、バルビツール系の睡眠薬が瓶入りで売られるやうになれば、わたしたちは、好きな時に、好きな理由で、その日のうちに、誰に迷惑をかけることもなく自殺できるやうになります。
まさに眠るやうに死ぬのです。

さうなると、いろんな人や団体が金づるを失ふので、そんなことは起きないでせう。さらに、自殺はいけないといふやうな、根拠の無い洗脳が学校でも盛んに行はれると思ひます。
ちなみに、キリスト教が自殺を禁じたのも、天国にはやく行きたいので殉教しようとする信者がたくさん出て来たので、自殺を禁止したさうです。信者が減ると、その分、教会の収入が減るからです。

老人がかつて大事にされたのは、明治になって近代化されるまで、六十歳を過ぎてまだ生きてゐる人などほんとんどゐなかったからです。
江戸時代の平均寿命は、地域によって違ってゐて、30歳~40歳前後だと推定されてゐるそうです。
明治・大正は45歳前後だったさうです。

かつて明治生まれの老人が生きてゐたころは、明治生まれの人は心身ともに強靭な人が多いといふ印象を持たれましたが、成人するまでに心身の弱い人は、感染症で死に、いぢめパワハラなどで自殺したり衰弱死したりしたのだらうと思ひます。免疫力があって、どっちかといふならいぢめパワハラをするはうの人が生き残ってゐたから、明治生まれの人たちは、戦後の日本が経済的に発展するにつれて、とんでもなく強い人たちに見えていったのだらうと思ひます。


今は、多くの人が二十歳までに死ぬこともなく、その後も、心身ともに虚弱でも、豊富な食料と消毒殺菌された環境によって老人になってしまひます。
おかげで、老人は役に立たないどころか、ノロノロ運転をしたり暴走して人を殺したりする邪魔な存在となってきました。
若い人の中には、はやく死ねと思ってゐる人が多いと思ひます。

老齢をどう生きるか。
どう死ぬか。
多くの人が人生の最後に、この問題に直面するやうになりました。
こんなことは、ホモ・サピエンス史上、空前絶後の事態です。

noteでも老齢期に入った人がポルノをいっしょうけんめい書いたりしてゐますが、老いてセックスに目を向けるのは、死や衰退から目をそむけることだとわたしは思ってゐます。

死や肉体の衰亡は、若さを求めたり、老いに抵抗したり(アンチエイジング)しても、どうにもなりません。

死や肉体の衰亡に直面する人たちのそばにゐるのが看護婦でした。
ナイチンゲールの書簡には、次のやうなことが書かれてあるそうです。
(『看護学生と考える教育学―「生きる意味」の援助のために』古川雄嗣 ナカニシヤ出版 2016   より)

看護婦でありつづけるかぎり、私たちは常に患者と共にいるのです。そして、生きつづけようとしている人々や、死にゆこうとしている人々、あるいは、私たちのほかに彼らのために永遠の神と救世主への祈りを捧げる人もいない臨終の患者や、「看護婦さん、どうしてこんなに暗いの?」と叫びながら死んでいくいたいけな子供たち、これらの人を前にして私たちが、自分には宗教からくる慰めや贈りものはおろか、時にかなった一言の言葉も持ち合わせがないことに気づいたとしたらどうでしょう。そのとき私たちは、いま自分でも感じていない自分の足りなさを、患者に感じて申し訳なく思うでしょう。患者のためにも見習い生のためにも、あなた方が誘惑に負けることなく、聖なる神への「畏敬」の念(かしこまり敬うこと)を持ちつづけてほしい、と私は願うのです。

ナイチンゲールは、看護婦であるには、スピリチュアルな世界を信じてゐなければ無理だと言ってゐるのです。統計学を駆使して近代看護を確立し、看護人を飲んだくれの無学者の仕事から、医師にできないスピリチュアル・ケアを専門医療の知識と技能を使って行ふ看護婦といふプロフェッショナルにしたのがナイチンゲールでしたが、彼女は、とんでもなく敬虔なキリスト教徒だったのです。

わたしは、一神教はきらひだし、有害だと思ひますが、取柄と言へば、人間をニヒリズムといふブラックホールから遠ざけたことだと思ひます。
西洋的な個を確立した人間は、力を抜けば、このブラックホールに吸い込まれていきます。
日本人も、西洋的な個が羨ましくて、何かといふと、日本は同調圧力の強い、人を気にする、自分軸のある人を排斥する社会だと言って嘆いてゐますが、それはたしかにさうであるとしても、わたしたちが、西洋人に比べると、ニヒリズムのブラックホールにあまり吸いよせられてゐないのは確かだと思ひます。

どれくらい生の無意味に吸い寄せられてゐるかは、たとへば、家族の崩壊、また、向精神薬物を使用する人の数でわかると思ひます。
最近は、日本人も心療内科を看板にした精神科医たちのおかげで抗鬱剤や精神安定剤を使用する人が激増してゐますが、それでも、麻薬などとなると、西洋人の使用者数50~60%といふ数にくらべて2%あたりを低迷してゐるやうです。

一神教ではなくて、何が、日本人にスピリチュアル・メッセージを伝へてきたのか?
わたしは、万物に生命をみるアニミズムだと思ってゐます。

日本人は、たぶん、今でも、万物生命教の信者です。
イスラム教やキリスト教といった異教徒を殺す宗教は、アニミズムを撲滅することで勢力を拡大してきました。
キリスト教は科学に変貌しましたが、どちらも西洋合理主義であることには違ひはありません。

合理主義がもっとも嫌ふのは、理で捉へられない生命です。
アインシュタインが量子論を嫌ったやうに、合理主義者はアニミズムを、何かの間違ひ、隠された変数を見逃してゐるだけだとみなします。

日本教とも言へる、「万物に生命がある」といふ万物生命教。
日本人は、動物や植物はもちろん、岩や滝、風すらも、すべてに命を感じます。

だから、「千の風になって」といふ詩は、あまりにあたりまへすぎて、まさに、風の音のやうに自然に聞こえるのだと思ひます。

秋には光りになって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのやうに きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る
私のお墓の前で 泣かないでください
そこには私はいません       
(『千の風になって』新井満訳)






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