近代の呪ひと近代の超克
ウルトラマンをデザインした彫刻家の成田亨氏。
どんな方だったのかは、まったく知りません。
知らないまま、成田市の「最後の詩」をあやのんさんの記事で読みました。
わたしは、戦後日本を生きた人は、多かれ少なかれ、
経済と技術に溺れて了った
西洋近代を受け入れて
自ら経済と技術に溺れていったと思ってゐます。
そして、時々、
金だ名誉だ、学歴だ成功だ、などと言ってゐていいのか?
今の日本人は物欲によって心を失ってる
などと嘆いて、また、
いつもの3S生活に戻ります。
死の恐怖を徹底的に排除した安心安全で、1人の人間の生命が地球より重い社会では、わたしたちは、
どう足掻いても、現実感の無い、
どこに身体をぶつけてもフニャリと曲がるだけの、
仮想現実の中に生きるしかない
のです。
これが近代です。
成田氏は、ウルトラマンのデザインの仕事をどうして引き受けたのでせうか?
一度は、経済と技術に溺れて了った社会に、自分もそこで仕事を見出して報酬と居場所を手に入れたのではなかったのでせうか?
さうしてみたら、その社会で成功し名声を得てしまひ、そこから、自分自身と経済と技術に溺れて了った社会との齟齬がますます明確になって、歳を重なるにつれて、経済と技術に溺れて了った社会への違和感と批判が強まっていったのではないでせうか?
戦後日本は、近代そのもの。
近代は、人類が数万年ずっと求め続けて来た、
物質的な豊かさと、個人の権利の確保を達成した。
その代はり、洋の東西を問はず、
精神的な豊かさ、全体の調和を失ったといふことは、この近代社会に暮らす人、誰もが、どこかになんとなく、感じてゐます。
だから、餓死も凍死もできない社会にゐながら、社会に関しては文句しか出てこないし、これほど物質的に豊かで便利な、魔法使ひに造り出してもらったやうな生活(家来がゐるから、朝から水を汲んで薪をかまどにくべて朝ごはんの用意をしなくてもいい王様だって、世の中には電車もバスも無いし、王様専用のガス水道電気、エアコンや自動車は持ってなかった)をしてゐても、自分が幸福だと感じてゐる人も少ないのです。
こんな近代に、縄文時代がはるか過去から希望の光を投げて来るのは、わたしたちは、近代がこのままではシンドイ、なにかしら進化してほしい。昔の言ひ方でなら、
近代の超克
が必要だと感じてゐるからだと思ひます。
縄文時代にはガス水道電気は無かった。
水洗トイレやトイレットペーパー、お風呂上がりのドライヤーといったものは無いし、病院も無く、外科手術室も無かった。だから、今では「たかが盲腸(虫垂炎)」と言はれるものでも、為すすべもなく、おそらく多くの人が悶え死にしていった時代です。
わたしたちは、さうした過去に戻りたいわけではなく、過去にあった精神性に希望の光を見てゐるのだと思ひます。
近代化によってどんどんと失はれてゆく精神性を、未来にはぜひとも取り戻したくて、縄文時代の素晴らしさを語るのだらうと思ひます。
成田氏の、経済と技術に溺れて了った日本への呪詛の詩は、どこか、同じやうなものをこれまでも聞いたやうな気がしてしまふ内容です。
経済と技術に溺れて了った日本への呪詛は、成田氏だけのものではない。
かういふ呪詛は、戦後、民主化し自由化し個人主義の社会となった日本をさんざん享受して過去の日本を批判して、今は老人になったインテリたちからの口からも出て来てゐます。
あの醜いインテリ老人たちが語る、
お金儲けばかり社会的成功ばかりを追ひ求める日本社会と日本人批判
と同じ呪詛を含んでゐる、とわたしには読めます。
角をつけたり
髭をつけたり
乳房を出したりしてはいけない
スーツを着たり
和服を着たり
星空に向かってラーメンをかゝげてはいけない
何につけても、さんざん、そんなパロディを面白がり、コマーシャルを楽しんで、嬉しがって商品を買ってきたわたしたちも、たまには、真面目な顔になって、同じことを語ったりします。
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