自由とフォルムについて


昔々ですが、敬虔なキリスト者の信仰告白の時間に参加したとき、その合間合間に
おお、神よ
といふ言葉が誰の口からもくりかへされ、その度に、それを口にした人は、一瞬、目を閉じてエクスタシーに浸る表情になってゐました。
神といふ観念、それは本気で信じて音声にすれば、口にした人を、日常のあらゆる憂ひや煩はしさから一挙に解放して、その閉じた目にだけ見える天上界へと誘ふやうに見えました。

自由なフォルムといふ表現は、
柔らかな硬さ、多彩な透明、真っ赤な純白、…みたいな詩的な効果を期待する形容矛盾だと思ひますが、自由といふ言葉が、今の日本人には、キリスト者の「神」といふ言葉に匹敵する、宗教的な心理作用をもたらすチカラを持ってゐることに、あらためて、驚きを覚えます。

自由といふ言葉を口にすると、戦後日本の日本人は、誰でも、キリスト者が神といふ言葉を口にした時のやうに、希望に満ちた明るい気持ちになるのだらうと思ひます。誰も神を見たことが無いのに神の存在を確信するのが一神教の信者であるやうに、社会のどこにも自由である人はゐないのに、人は自由であるべきだと信じてゐるのが民主主義の信者です。

実際のところ、自由はフォルムとしてしかわたしたちには感得できません。自由自体は存在として認識出来ない。時間を時計でしか確かめられないやうに、わたしたちは自由をフォルムでしか可視化できない。

フォルムには自由の要素は一つも無い。固まって静止してゐる。
フォルムは目まぐるしく変化してゆくやうにわたしたちの目に見えても、それは錯覚で、その流動的な変化と見えるものに近づいてゆけば、そこには、無限小数のやうに並んで連なる一つ一つのフォルムが見えてくる。

自由であらうとする何かを、フォルムが捉へてそのフォルムに閉じ込めたとき、それは機能であったり、因果関係であったり、チカラであったり、美であったり、ともかく、わたしたちの脳にも認識可能な、なにかの存在や状態となります。

さまざまなフォルムのうち、チカラと美のダイナミズムが芸術となるのではないかとわたしは思ってゐます。
だから、わたしは、芸術とはフォルムであると言はねばならないと信じてゐます。

自由なフォルム
このフレーズはいかにも詩的な響きがあるけど、文法的にはまったくの間違ひだと思ひます。自由な刑務所とか自由な学校みたいな🤭

さういふ意味で、
自由な芸術
とか
芸術は爆発だ

といふ表現は、やはり、言葉の誤用であり、しかも、詩的な響きも無くて、ただただ、民主主義の持て囃される時代に媚びたプロパガンダの言葉に過ぎないとわたしは思ってゐます。

ちらっと金鎖、見えてるね。
岡本太郎氏は、時代の男娼って感じ。
まあ、戦後のゲイ術家は、みんな、さうですけどね。
ちなみに、この動画のコメントに以下のやうなものがありました。岡本太郎氏が好きな人は。こんなふうに受け取るのでせうね。
芸術=人生、って、最初の等式から、わたしは、もう呆れてついていけない。

@tsa3735

芸術は爆発だ ⇒芸術=人生 ⇒人生は爆発だ ⇒瞬間瞬間を力いっぱい生きろ ⇒過去(挫折・失敗)や未来(心配事)に囚われるな ⇒人の評価や自分の目(自己評価)すら無視しろ ⇒失敗したっていい、へたくそでもいい ⇒そうすれば、人間らしく生きられる ⇒それが貴方の芸術(人生)なんだ

このパワーワードに、こんな深い意味が込められてるとは思わなかった。


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