意識はなぜあるのか?

わたしは悲観的だと言はれるが、その理由の一つは、おこがましい言ひ方だが、わたしが眠ってゐないからだ。
仏教好きな人は、あれこれとおもんぱかる意識を煩悩と観るが、確かに、何もかもうまくいってゐれば、意識は要らない。
何もかもうまくいってゐるとは、自動機械になってゐらといふことだ。自動洗濯機は、考へるのをやめて、問題は無いし、むしろ、考へても無駄だ。故障したときは、意識を持った人間にしか直せない。

通ひ慣れた道を自動車で走った後、自分がどうやって運転してゐるかを思ひ出せる人はゐない。音楽を聴いて考へごとをして運転は無意識に行ってゐた。
もし、途中で対向車がいきなり中央線を超えて迫ってきたら、そこから自分がどうやって回避したかは刻銘に記憶される。

かうした例によって意識の存在理由が見えて来る。
好きなことだけしてワクワクしながらお金と名声が得られてゐたら、自分を意識する必要は無くなる。
ゾンビになって、他のゾンビとおなじやうに、まったく自己意識を持たないまま、動き回ってゐればいいのだ。

意識は
驚き、怯え、心配して、悩む。
意識は
苦しむ、嘆く、くよくよして、愚痴をこぼす。
そして、問題を把握して、必要な行動を意志して、ものごとに対処する。その結果、
喜んだり
悲しんだり
怒ったり
悔やんだりする。その時、
私といふ意識は、この宇宙に、まさに自分が存在してをり、自分が肉体を持った何かであることを意識する。

つまり、意識とは常に意識に対する意識として動き出す何かであって、ここに今とどまることは、決してない。

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