人は一神教無しでは生きられない(日本人は例外だった)


キリスト教下の西洋人は、誰でも神を信じてゐる。
大学教育を受けると、西洋人も無神論者になったりするが、ドーキンスの『神は妄想である』なんかを読むと、西洋人の無神論は裏側からの信仰告白なんだなと思ってしまふ。わたしのやうな日本人はそもそもGodに関心が無いから、ゐるならゐるで別にいいし、ゐないならゐないで、やはり、別にいい、と思ってしまふ。青スジ立てて、妄想だとか実在するとか言ひ争ふ情熱が理解できない。よほど好きなんだ、Godが。

けれども、理屈は単純だ。
まだ物心もつかない幼い頃から、宗教教義に触れることは、とりもなほさず、洗脳教育となる。
脳に、不可逆的なドグマの刻印が次々と刻まれて、その刻印の或る部分の脳の思考力を奪ってゆく。
ガリレオやらドップラーやらニュートンやら、あれほどの知性の科学者がGodを信じて疑はなかったのは、ちょうど、言葉を学ぶやうに、一神教の教義を親や大人たちから教へられたからだ。
わたしたちは日本語を学んだ覚えなど無いが、日本語を話してゐる。子供の時から接した宗教は、そんな日本語のやうに脳に染み込んでゐるのだ。

宗教2世や3世が、自分の不幸について語ると、宗教に洗脳されて育つのは不幸の元だと思ってしまふ。
けれども、それは、間違ひだ。 

宗教2世や3世が、自分の不幸について語るのは、自分たちが社会の中で少数派だと思ふからだ。
西洋から興味深い現象が報告されてゐる。
イスラム教移民が多い都市では、初等教育の学校では、教室の大半がイスラム教徒の子供となる。さうなると、西洋人の子供たちはキリスト教からイスラム教に改宗したいと親に願ひ出るさうだ。

同調するのは日本人だけだと思ってると、世界的に見て、キリスト教徒がどんどん減少する一方、イスラム教徒が着実に増えてきてゐる現実から取り残される。
人間である限り、わたしたちは犬なのだ。
ボスがゐて群れを成す。それ以外に生き方は無い。
Godが死んでしまったので、自由や民主主義といった観念を神格化して、それを礼拝することでかろうじて群れを保つのが、わたしたち、西洋的先進国の国民であるが、群れを束ねるのに一神教ほど効率のいいものは無い。

一神教と何なのか?
一神教の実体は、集団を形成し維持するための相互監視システムだ。
キリストやら日蓮やらマホメットといった、教祖を絶対のボスとして犬の集団になると、そこで互ひを監視するのは、人である。
神の怒りに触れることをしたからといって、神が、直接、小言を言ひには来ない。「それは神の教へに反する」と言って聖書やコーランを根拠にして、わたしたちを非難し、罰し、殺すのは人である。

Godは決して姿を見せない。存在しないからだ。そのことを心の底から感じてゐるから、一神教の信者は聖書やコーランを片手にお互ひの監視を一瞬も怠らない。
お互ひ、信徒からの監視が無ければ、何でも出来て、何でも考へられてしまふからである。

わたしたち日本人は、世間といふ相互監視のシステムを持ってゐる。
これは、キリスト教世界にもイスラム教世界にも無い。
どうも、日本にしか無いやうだ。
日本に世間があるのは、個人が確立してゐないからださうだ。
人間は、世界で唯一無二のGodと向き合った時に、他の誰でもない個人となる。
日本は八百万神の神道の国なので、そんな個人はゐなかった。だからこそ、世間といふシステムも生まれることが出来た。

世間は、一神教といふ相互監視システムより、劣ってゐるのだらうか?
どっちにしても、日本も世間を失ってゆく。
さうして、Godを求める人が増えてゆく。
移民受け入れで、イスラム教徒が入って来る。日本人は、小学校の給食をイスラム教徒でも食べられるものにしてゆき、土葬の出来る墓地を作ってゆく。
そんな日本人だから、近い未来には、たぶん、イスラム教徒になる子供たちが増えるだらう。

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