男の希求し憧憬する所皆形を具へて女と発す

学生時代、夫が「俺はダイヤの原石を見つけた」と言っていた。

男性達は皆、自分の理想のダイヤの原石を好きな女性のなかに見出だすのだろう。

熊本のS子ちゃんも、「私もダイヤの原石を見つけたって言われて、すごいアタックされて結婚したのよ~」と言っていたわ。

男性には理想の姫が必要なのね。

8月のバレエの発表会の演目は「ドン・キ・ホーテ」@まりりん~毎日は可愛らしい可笑しみに満ちている~2024/04/25


なんかめちゃくちゃ鋭い。まりりんさんはコワイくらゐ、ずばりと書く。


わたしが、ずっと疑問なのは、ヒトに思春期があること。
青春、青年期といってもいい。
かういふものは他の動物には無い。繁殖できる身体になれば、ただちに繁殖を始める。ためらふ期間はまったく無い。

男性は、その時期、思春期で、人生で一番性欲が強い。ふつうに考へて男性がもっとも頻繁に性交してゐる時期でなければならない。けれども、実際のところは、洋の東西を問はず、この時期に、男性はもっとも強く、性交をためらひ続ける。
強烈な性欲と女性への憧れの間で引き裂かれて身動きができなくなる。

おそらく、動物として、さういふふうに造られてゐるのだらうと思ふ。
ヒトは男女のペアになって家族を作り、その家族を最小の構成要素として複雑高度な社会を作り上げる動物。
出来るだけ多くの女と性交したい男が、その性対象の女の中の誰か一人とペアボンド、生涯の絆を作るには、女といふ存在の結晶化、対他幻想が欠かせない。
つまり、男が誰か女と、その人だけとの絆を作るには、女は男にとって原石であり将来の姫でなければならないのだ。

少し前、或る母親が、自分の高校生の息子がクラスの人気者の女の子とセックスフレンドであることを告げられたといふ話をブログに書いてゐた。その女の子とは「行為だけの関係」なのだそうだ。さういふ息子がゐて、息子とさういふ話ができることが自慢そうだった。
いつの時代にも、十代で多くの異性とセックスを楽しんでゐるといふことを自慢する人たちはゐたが、男女ともに後々人間として信用できるやうな人物にはなってゐない。
下半身だけがゆるい、といふことは、人間の人格上、無理なのだ。女に無責任だったアインシュタインは原爆の製造も深く考へもせずユダヤ人のためになるといふだけで推奨してしまってゐる。頭もゆるかったのだ。

男性の場合は、性欲が一番強い時期にその性欲を
①単純に満たせない、
②ためらふ、
➂迷ふ
といった精神を持つことは、自我の形成のために欠かせない。
思考することの基本は、あらゆる現象に対して、この3つの態度を持することから生まれるからだ。

若い男性にとって、性欲との戦ひは、精神の筋トレである。思考力の育成である。
そのためには、性欲はできるだけ強いものでなければならない。
おそらく、十代に性欲がさほど強くなかった男性は、精神においては脆弱な人物になるだらう。植物的な優し気な気の弱そうな雰囲気の人がそれだ。
五木寛之氏の父親は、満州においてソ連兵たちが自分の家に入って来たとき、家族が蹂躙されるのを見ながら震えてゐたさうだが、さういふ、死ねない殺せない、温厚な人物になると思ふ。男性の性欲は死の本能の現れだからだ。
たいていの思春期の男性たちは、自分は世間の性道徳を気にしてゐるのだと感じて、見栄を張りたい時期の若いプライドを傷つけられながら、それでも、ためらひと憧れの中でもがきつづける。

今は、もしかしたら、これはすっかり昔話なのかもしれない。
性欲にはなんら苦しめられなかったといふ男性も増えてきてゐるのかもしれない。多くの十代の男性が性欲を感じたときには、もう、性交をしてゐるとしたら、女性に対する、集合意識的な憧れは生まれないだらう。

集合意識的な憧れ。今、AIが描くのは、とんでない巨乳の、頭はわるいが計算高そうな、恥じらいや淑やかさの欠片も無い感じの女の子だ。あれが可愛いのか?まあ、わたしは、はるか以前、小林よしのり氏がはまり込んだAKBのときに呆れた(身をくねらせて可愛ぶれる女ほど、とことん男を知っててスレてるのはゐないのに、って)から、すっかり世間の美意識からは外れてしまってるのかも( ´艸`)

男性が集合意識の中で観てゐる女性像は、ポルノビデオから作られたものであれ、昔ながらのお城の中で暮らすお姫さまであれ、どちらも観念である。
観念を見てゐるといふ意味は、人間の首が落ちてゐるのを見たらわかると思ふ。
首だけになった人間は、どうしても物質化してしまひ観念を受けつけない部分を持つ。さうすると、わたしたちはそこに生命が無いと感じる。
そのとき、誰でも普通の人なら、底知れない不気味さを感じるはずだ。モノ自体はわたしたちを世界から疎外する。だから、逆に言へば、ふだんのわたしたちは、世界のあらゆるものに生命を感じてゐる。人間が生きてゐる世界はアニミズムによって創造されてゐる。物理世界そのものに触れるのは、たとへば、死が迫るときだ。世界にある意味がすべて抜け落ちて、モノだけのなってゆく。そして、自分もモノになったときに、その人は死んでゐる。

アニミズムは生きるためには必須なのだ。あらゆるものに生命を投影することによって、人間は、さうすることで、この不気味な意味不明の(もしかしたらなんの意味も無い)物理世界の中に自分の生活の場所を見つけることができてゐる。

男性が女性に憧れを持つのは、世界を生きる価値のある場所にしたいからだ。世界と親密になれる観念として女が選ばれる。さうしたとき、女は憧れの対象である。何かを生み出し、何かに成長する生命である。

女をモノ、何も生み出さず、変化もないモノ、としか感じられなくなった男性は、自分の生きる世界から疎外されていく。女がモノになった世界は、男性には砂漠と同じだ。
生きる意味など別にない、と感じてゐるはずだ。
そんな男性かもしれないと思ふ顔が、増えて来てゐるやうな気もする。


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