縄文土器と弥生土器、鎌倉時代の仏像と飛鳥~奈良時代の仏像

 奈良に来て半年以上経ち、いくつかの古代の遺跡や博物館に行って思ったことについて書こうと思います。以下に述べることは学術的に調べられたものではなく、単なる私の感想ということを念頭に置いてほしいです。

 夏も終え、風も涼しく、遠くに見える春日野が緑から茶色に変わりゆく11月上旬、東大寺の北にある般若寺を訪れた。ちょうどコスモスが満開で紫色と白色の花が境内を埋め尽くし、その中に浮かぶ本堂と石塔が一層くっきりとしていた時期であった。般若寺には限られた時期しか公開されない仏像があり、拝観料を払いそれを見てきた。その仏像は白鳳時代(645年から710年)に作られた阿弥陀如来立像で、表情はふっくらしているが、全体的にすっきりとした流線形でシンプルイズベストというのを表現したような感じがした。たとえるなら、スティーブジョブズのアイフォンのような感じがした。思うにシンプルなデザインは抽象的な概念が究極に行き着くところだと思う。先進的な文化を持ち、抽象的な概念を得意とする人たちが考えつくデザインだと思う。そこには、ジョブズのアメリカのような多民族国家が持つ普遍的な誰にでも通用する概念が発展しやすい土壌があるのではと思う。般若寺の白鳳仏に見られるスタイリッシュなデザインにも突き詰めたシンプルさが現れているのではないかと思う。これは当時の中国から朝鮮半島にかけて北方の遊牧民族を含めた民族的な大移動によって人々の間で異なる文化に接する中で普遍的な誰でも美しいと思えるデザインが仏像に反映された結果ではないかと思う。つまり、般若寺の白鳳仏は日本固有の美的感覚ではなく大陸由来の美的感覚の表象じゃないかと思う。これと似たようなことは弥生土器にも当てはまるのではないかと思う。というのも、弥生土器より前の時代の縄文土器では火炎式土器のように複雑で具体的な装飾が施されているが、弥生土器では装飾性が薄れ、コンパクトな形で文様も複雑さよりも単純な線や図形の配置になっている。これは弥生時代に大陸や半島からの渡来人が流入した結果だと思う。従って、日本固有のものでは装飾性に富んでいるが、輸入したものはシンプルなデザインとなっている。
 仏像の話に戻ると、白鳳時代の仏像はシンプルなデザインである。一方で東大寺の金剛力士像に代表されるような鎌倉時代の仏像は筋骨隆々とし、体の細部まで表し、服の皺、表情の皺まではっきりと掘っているのは縄文土器の文様と共通した何かを表しているような気がする。
 このようにみると、日本固有の美的感覚というのは縄文土器や鎌倉式仏像に現れている複雑性、装飾性ではないかと思う。