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宗教くささについて

頭の整理をするための日記なので色々多めにみてください。



「宗教くささ」ってどこから生まれるのだろう。

おそらく、その核にある人物や教え、思想そのものが原因でない。

その核に群がる人々が自分を見ていない、盲目的に感じられる場合に湧き出る違和感、それが宗教くささなのかもしれない。

その人たちは自分のなかの不足を、核からもらえる言葉や教えで埋めようとする。一瞬だけ「自分はもう大丈夫だ。」という幻覚をみる。
しかし自分を見ず、自分の考えを生み出すことができないため、すぐに忘れ、また教えを乞う。

このループはその人たちが自分に矛先を向けない限りは終わることがない。

核が「自分を見ろ」と言うと「自分を見ろ!それは素晴らしい!自分を見ます!自分を見ることの大事さに気づけて良かった!」といったような反応する。
しかし、その言葉でさえ矛先は自分に向けられていない。
また振り出しへ戻る。

次第に核は疲弊し、足場の基礎は人々に食い荒らされ、お神輿のように担がれその人たちなしではその場で立つことができなくなる。
そんな、共依存の関係。

それが「宗教くささ」なのかもしれない。
(※一応言っておくが、宗教そのものを否定しているわけではない)


私は過去にこの「宗教くさい」状況に何度か遭遇したことがある。
最も記憶に残っているのは、前職の元上司だ。

彼は仕事ができ、部下や同僚の面倒みも良かった。
そして、何より頭の回転が早く、弁の立つ人間だった。

そんな彼は出会った当初は公私ともにリーダーシップを取ることが常で周囲からも慕われていた。私もその中の一人だった。

彼が言っている言葉はどこまでも彼のもので、魂が込められており、私は彼の話を聞くのが大好きだった。

彼の言葉が自分の考えと異なる場合は表面上で肯定するのではなく「私はこうだ。」と自分の考えを伝えた。
そして、彼も同じようにした。
互いが、互いの考えを押し通すこともなく、自分を認め、互いを認め、尊重しながらする議論はとても楽しく、お互いが満たされていて、その余剰で与え合っているような余裕や爽やかさがあった。
そこには確かに信頼関係があったと思う。


しかし、ある時期から彼に対し違和感を感じ、最終的に私は彼と決別することになった。
異動により彼は私の直属の上司ではなくなり、半年以上会うことがなかったが、ある日その彼の部署の飲み会に参加する機会があった。

久しぶりにあった彼は仕事で部下の育成に力を入れており、その頃、彼の周りには五名ほどの直属の部下がいた。


違和感を感じ始めたのはその飲みの席でのこと。
部下が全員、自分のことを話していないのだ。

「〇〇さんがこういうと思って。」
「〇〇さんがこう言ってくれたから大丈夫だ。」
「〇〇さんも認めてたよ。」
「だから〇〇さんに詰められるんだよ。」
「〇〇さんなら何て言うと思うか考えてみて。」
「〇〇さんの言ってることわかってきたんじゃないか?」

全ての話の軸が彼、〇〇のことで、そこには「自分はどうか。」がない。

私以外そのことに気づいていないようだった。
私以外。そう、その彼本人もそれに気がついていないようだった。

彼の考えと沿ったことを話す人が「正解」、そうじゃない人が「不正解」
答えは部下たちはなく、自分だけが持っている。自分だけがジャッジをできる。そんな姿勢で部下たちの話を聞いているように見えた。

私は彼らに「あなたはどう思うか?」を何回か質問した記憶がある。
その質問をした途端、部下たちは言葉に詰まった。
もしくは「自分はこう思う。」と伝えた後「〇〇さんもこう言ってたから。」とまた、彼の名を出し、彼の顔を伺った。

私は以前のように、彼の話に対して自分の考えを述べたが彼は以前と打って変わって私の反対意見に過敏に反応し「お前はわかっていない」「お前はおろかだ」と大衆の面で私に説教をし始めた。
自分が一番正しいのだ、ということを周りに示すように。

唖然としながら彼の話を聞いている私を、周りは、仕方ないね。大丈夫だよ。あなたなら〇〇さんに認めてもらえる、と傍観するのみだった。


その飲みの席はまさに「宗教くささ」が立ち込めていた。
一緒に参加していたもう一人の同僚も、彼の部署メンバーの異様な空間に圧倒されていた。

彼との縁はその後も少しの間続いたが、彼と彼の周りのメンバーから感じ取れる違和感は払拭されるどころか、より色濃くなっていった。

数ヶ月後その部署でインシデントが発生したという情報が入ってきた。
彼が部下にパワーハラスメントに該当する言動をしたらしい。
その部署は解体されメンバーは各部署に異動、散り散りになった。

それを機に私は彼と決別している。
最後に、彼と二人でお酒を飲んだ。
その時の彼の言葉が印象に残っている。

「どうしたらよかったんだろうな。」
「俺はあいつらに自立して欲しいだけだった。」
「どうしてもあいつらは俺ありきで考え、行動してしまうんだ。」
「そうならないように、俺は必死だった。いつの間にか言葉を選べずにいた。」
「俺は間違っていたのか?」

私はこのようなことを伝えた。
「あなたと部下はまるで共依存関係のように見えました。依存しているのは、あの子達だけではなく、あなたもです。
あの子たちに支えられる、認められることに縋っているようにも見えました。」

彼は、ハッとしたような、悔しさ、情けなさ、不甲斐なさを感じているような、なんともいえない表情をしていた。

「俺は間違っていたのか?」の問いにいつも、彼の部下たちが「そんなことない。大丈夫ですよ!」と答えてくれていたのだろう。

それがなくなった今、彼は自分自身でその答えを見つけないといけない。彼の表情を見ながらそんなことを考えていた。


彼の考え方、言葉は今でも私の記憶に残っている。
そのくらい私の奥底に染み込むような、深い言葉で、彼の魂がこもってた。
彼の言葉はどこまでも正しくて、芯があった。
今でも彼の言葉は好きだ。きっと、今でもこの言葉が残っているのは、この言葉を発した当時の彼が私に対し真っ直ぐに愛情(友愛)を向けてくれた証拠だとも思う。

私は彼に感謝をしている。
今も幸せでいて欲しいと心より願う。


「宗教くささ」はその核にある人物や教え、思想そのものが原因でない。

原因は、その核や周りにいる人たちが、あるタイミングから自分を見ること、自分で自分を支えることを疎かにしたことだ。

きっかけは「助けてあげたい」「成長させてあげたい」「希望を与えたい」「なんて素敵な考えなんだろう」「私はこういう人になりたい」「夢を叶えたい」という純粋な想いからなのかもしれない。

しかし、一度その矢印の向け方を誤ると、双方の矢印が絡まり解けなくなることもある。
その矢印の中の一本が我に返って急に真っ直ぐになると、大きな衝撃とともにその関係性が崩れることもある。

関係性を維持することに重きを置き、絡まり状態を保持するようと努めるのか。
自分の誇りに重きを置き、矢印を引きちぎってでも自分の芯を取り戻すことを決意し、周りを立て直すことに踏み切るのか。

どちらかを選ぶかでその後の日常がガラリと変わる。


(今思えば、彼の部署で発生したインシデントも、部下の一人が真っ直ぐになろうと決意したことから起こったことなのかもしれない。)


こういう「宗教くささ」が、私が今活動している界隈でも感じられるようになった。今気づき始めただけかもしれないが。

宗教くささを感じるたび、私は過去の上司であった彼を思い出す。
思い出して「あの時、私は彼に何かしてあげられたのかな。」「何が正解だったのかな。」と考えたりする。


考えた挙句、いつも同じ答えに辿り着く。

どんなことがあっても、私は私でいることにエネルギーを注ぐこと。

これが一番である。















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