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『葬送のリヴァイアサン』






「あなたが決意することは、成就する。」



 ーー『旧約聖書』より引用



「私が愛するのは、人々の頭上に立ち込める黒い雲からポツリポツリと落ちてくる重い雨滴のような人たちである。この人たちは、雷の到来を告げているし、幻視者として落ちてくるからだ。見るがいい。私は雷の幻視者だ。雷から落ちる重たい雨滴だ。

    この雷こそ「超人」と呼ばれる。」

ーーフリードリヒ・ニーチェ 『ツァラトゥストラかく語りき』「プロローグ」4より引用



「私は、このように聞いた。或る時、尊師は、ウルヴェーラで、ネーランジャラー河の岸辺で、アジャパーラという名のバニヤンの樹の根もとにとどまっておられた。初めて悟りを開かれたばかりの時であった。
その時尊師は、1人隠れて、静かに瞑想に耽っておられたが、心のうちにこのような考えが起こった。……

『わたしの悟ったこの真理は敬遠で、見がたく、難解であり、静まり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。ところが、この世の人々は、執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている。だから私が理法を説いたとしても、もしも他の人々が私のいうことを理解してくれなければ、私には疲労が残るだけだ。私には憂慮があるだけだ』と。
実に次の、未だかつて聞かれた事のない、素晴らしい詩区が尊師の心に思い浮かんだ。

『苦労して私が悟り得たことを、
今説く必要があろうか。
貪りと憎しみにとりつかれた人々が、この真理を悟ることは容易ではない。
これは世の流れに逆らい、微妙であり、深淵で見がたく、微細であるから、
欲を貪り闇黒に覆われた人々は見る事ができないのだ』と。

尊師が、このように省察しておられる時に、何もしたくないという気持ちに心が傾いて、説法しようとは思わなかった。」

ーー『サガータ・ヴァッガ』より引用





「昭和46年(1971年)7月15日。
アメリカ合衆国大統領・リチャード・ニクソンは、中華人民共和国への訪問を宣言した。いわゆる「ニクソン・ショック」である。
続く8月15日。
今度は、金ドル交換停止を行った。
いずれも日本政府は、事前に全く把握していなかった。
なぜ、こんな事態に日本は陥ったのか。
小室は、その原因を報道で知った。
佐藤栄作首相が、日米繊維交渉において絡んだニクソンとの約束を守らなかった為、首脳同士の信頼関係が崩壊した事が原因だったのだ。
蒸し暑い夏の夜。
娯楽室で、酒を飲んでいるうちに、アメリカを、ひいては日本を愚弄する佐藤の行為に対して、小室の怒りはどんどん増すばかり。
いても立ってもいられなくなった。
衝動を抑えきれず、小室は田無寮を飛び出したのだった。
しばらく立ったころ、田無寮の娯楽室設置の赤電話が、けたたましく鳴り響いた。
ジリリリリリーン、ジリリリリーン……。
「はい、田無寮ですが」
小山年勇(当時、東京大学医学部生。現在、医療法人社団こやま会理事・院長。開業医。)が受話器を取った。
小山は、娯楽室で2、3人の寮生と世間話をしていたところであった。

「もしもし田無寮警察署ですが、そちらに小室さんって方、いますかね?」
「いますよ。大変、偉い学者です。」
田無寮には、小室派とアンチ小室派がいたが、小山は小室派で、尊敬していた。
「偉いかどうか知らないけどもね……。実は、今ね、ちんこぶらぶらさせて、フルヌード。さっきフルチンで、本書に怒鳴り込んで来たんですよ。」
「え……」言葉を失った。
まさか、そんなはずはない。さっきまで小室さんは、娯楽室にいて、酒を呑みながら「佐藤のやったことは実にけしからん。日本人として非常に恥ずかしい……」と語っていたのだ。

小山は、受話器に耳を当てたまま、周りを見渡す。
そこにいるはずの小室の姿が見えないのであった。
脇と背中から妙な汗が染み出してくる。
受話器の向こうで、声が続ける。
「それでね、『佐藤首相がどうのこうの』っていってるけどね、我々にはそんなことはわからないからね。どなたか迎えに来てくれませんか。」
「……はい、わかりました。これから行きます。」
小山は、もう1人の寮生と共に、慌てて田無警察署に向かったのだった。
田寮警察署は、寮から田無駅方向に歩いて五分ばかりのところにある。
小山らは、受付で用件を告げ、当時の警察官に連れられて奥に進む。
保護室、いわゆるトラ箱の前に来た。
薄暗い檻の中に、全裸の男性が立っていた。小室だった。
絶句した。
小山の姿を認めて、甲高い声がコンクリートに響いた。
「小山、俺の姿みて、恥ずかしいと思うか?」
「う、うーん……」
言葉に詰った。
「ホントの事を言ってくれ!」
「それならいうけど、小室さん、実にみっともない。恥ずかしいよ。」
「そうだろう、小山!でもな、佐藤のやったことはもっと恥ずかしいんだ、だから、俺は身をもって、こうやってぶらぶらさせて、全裸で抗議しに来てるんだ!」
小山の隣にいた若い警察官は、困り果てている。
「ね、あそこ。服は檻の中に入ってるでしょ?」
指差した先に、たたまれた衣類があった。
「えぇ、ありますね」
「私がね、どんなに『着ろ』って言っても着ないんだから。あのね、こっちが裸にさせたわけじゃないんですよ。最初から、あの人が裸で玄関から駆け込んで来たんです」
聞いてみると、小室の服と下駄は、警察署の門前に揃えておいてあったという。小山は、再び檻の中に向かって、優しく呼びかけた。
「ねぇ、小室さん。そんな格好じゃあ、風邪ひくし、病気になったら損だよ。お巡りさんも心配してるんだから、帰ろうよ。」
「いいや、俺は絶対に帰らない!佐藤のやっていることは、こんなことよりも、もっと恥ずかしいってことを、1人でも多くの人にわかってもらいたくって、こうやってるんだから、絶対、帰らない」
小室はますますヒートアップしてきた。
「小室さん、本当に帰らないの」
「帰らないよ!」
匙を投げた。小山は、生まれたままの姿の小室を残して、帰るしかなかった。
結局、小室はその晩、帰ってこなかった。」

ーー村上篤直(東大卒弁護士、20世紀日本における最高峰の超有名社会科学者 小室直樹博士に心酔する小室の弟子) 『評伝 小室直樹 <上>』より引用





◯暴力を裏返すと、愛になり、愛を裏返すと暴力になる。



人生とは、表が愛で、裏が暴力のコインを投げている内に終わるものだ。



リヴァイアサンとは、それらのコインが集まってできた怪物である。



リヴァイアサンは、有力者だけでなく、大衆をも葬り去り、数多もの虐殺や戦争、喧嘩、いじめ、ヘイトスピーチ、差別、パワハラ・モラハラ・セクハラ、シャーデンフロイデ、ポピュリズム、虐待を起こし続けた。



そして、それに挑むソクラテスや中国、キリスト教、儒教、アメリカ、アリストテレス、ヘーゲルなどの偉人・偉大な組織をも負かし続けた。



それは英雄によって倒されたが、生々しい暴力や拷問という形をとって顔を出すのをやめ、人々の内面で密かに「」として生き続けている。



リヴァイアサンを殺す方法はたった一つである。



自分を殺し続けろ。






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 人間は、いつだって自分の意見を信じてやまない。
自分の意見を信じる事は、無論、メンタルを維持し人生を楽しくする為に必要な事ではあるが、その信仰がいきすぎるとそれを相手に強制的に押し付ける人間が生成される。その中で、登場するのが人間の最も愛する暴力である。『葬送のリヴァイアサン』において、私は、文字通り、人間の暴力性について論じたい。初めに、暴力とは何であるかを論じ、次に暴力が何故に必要とされるかを論じ、最後に暴力の起源についてを記述し、まとめとして暴力=愛という化け物を倒そうとたった1人で進み続けた英雄の研究をし暴力=愛との戦い方を解説しようと考えている。論述の際に、私個人の体験や学術的な知識、グラフやデータにより証明されている端的な事実などを紹介しながら、論の実証性を保障したいと思う。
では、初めに、暴力とは何であるかを記述しよう。
暴力とは一言で言えば、最もコスパのいい正当性獲得方法である。

詳しく説明すると、例えば、現代において何故に人が人を殺さないかといえば、トマス・ホッブズも言うように個々人々が「自然権」を国家に譲渡した事で暴力装置を握った国家が憲法や法律に「人を殺せば云々」とし、ペナルティを与えるからである。一昔前に、酒鬼薔薇聖斗事件が起こった際に、1人の子供がかなり視聴率の高いテレビ番組で「なんで人を殺しちゃダメなんですか?」と複数の大人に尋ねた時に、大人が戸惑い結局のところ、何も答えられず人を殺してはいけない理由などないという事を露呈してしまった事故があった。アリストテレスは『二コマコス倫理学』において、ヘーゲル的な人倫学に基づき、人を殺してはいけないのは内発的な動機に基づかなければならないとするが、人間は先も言ったように自分自身の意見を信じてやまず、それを相手に押し付けたい習性を遺伝子レベルで持ってしまっているので、実は、人を殺してはいけない倫理的な想念などないというのが真実である。しかし、かといって暴力を認めて仕舞えば、人間はまるで蠱毒のように最後の一匹になるまで暴力を振い合うので、ペナルティという巨大な共同幻想を設定する事で、何とか秩序を維持してきたのである。ただ、暴力ほどコスパのいい正当性獲得方法は他にはあり得ない。意見をぶつけ合っても、どちらが正しいかは決められない。そこで、我々は、何らかの設定に則ったスポーツをしなければならないが、そのようなスポーツをしてしまえば、詰まるところ、遺伝子に恵まれていて両親に金のある人間が勝つようになってしまい、ゆくゆくは現在のような資本主義社会、文明社会がマルクス張りに言えば、必然的に構築され、多くの人民が路頭に迷い不幸を味わう事になってしまう。例えば、受験勉強がわかりやすい。受験勉強というスポーツは、確かに人は死なないし、非常に倫理的で文明的な営為であるが、このスポーツにおける勝利者は必ずと言っていいほど、高学歴高収入の勝ち組の子供である。当たり前だが、受験勉強は甘くない。毎日、多くの時間をそこに注ぎ込まなければならず、大学の学費・生活費も高額なので、例えば、勉強をしながら学費・生活費=教育費も稼ぐ事のできる人間などはせいぜい数%しかいない(大卒以前でも部分的に教育費を負担する人は金持ちでもいるが、全額負担はしないし、金持ちじゃなくとも教育費を親に負担してもらうが一般的とされる。大卒後は、大学院に行くとしても、金持ちでも自分で負担する人が割と増えて、親に教育費を負担してもらうのが普通じゃなくなる。)。そもそも、高校時代から勉強するなどはスタートダッシュが遅すぎる。幼稚園・小学校、遅くとも中学校時代から勉強を塾などに通い勉強しなければならない事を考えると、結局のところ、両親に金があって、尚且つ、両親が学歴の価値がわかる高学歴でなければならない。このように、受験勉強一つとってみても、結局のところ、「どこに生まれたか」で大抵の勝ち負けが決定してしまっている。「オギャー。」と泣いた時から、実は、20代で獲得できる年収は決まっており、また、獲得できるコネクションは決まっており、毎日、競馬をしてパチンコに行き、キャメルを吸っている碌でもない高卒・中卒の低所得者から、高学歴高収入の社会的強者が生成される事など殆どあり得ない。両親からは、ブルデューが言った階級ハビトゥスたる文化資本も継承する事になるので、例えば、暗記教育は役に立たないから自分の頭で考えろなどといいただただ自分が天才だと勘違いしている両親に育てられれば余計に思考できなくなり、無論、高学歴にもなれず高収入にもなれない。受験勉強というゲームにおいて必要な戦略を、宮台真司と宮崎哲弥(慶應法学部中退・慶應文学部卒、有名タレント、中央大学大学教員)は、『ニッポン問題ーーM2:2宮台真司×宮崎哲弥』においてこのように述べている。

「宮台真司:「知識伝達でなく、動機づけを重視する」と言うと、暗記教育の否定だと誤解される。全く違う!動機づけを持った子には暗記させろ。僕の数学時代の恩師はこういった。
「幾何学の証明問題は思考力だと思ってるだろ。馬鹿野郎、10年早い!紀元前にアリストテレスが2000数百通りのパターンに整理した。それを暗記すりゃいい。思考はそれからだ」って。それ以降、僕は数学を暗記しまくり、大学入試(東大)では数学は満点。社会科学の理論枠組みも暗記しまくり、それが今の僕です(笑)


宮崎哲弥:ふっふっふっ。それは貴方らしい峻別だね。でもこうしてみると、人間って本当に非効率な知的マシーンだなあ。暗記でいいんだったら、コピーできて欲しいんだよねー。一応、容量はあるんだから。前世代が蓄積した知識を暗記なんていう形でしか継承できないなんて、不便極まりない。密教の瞬間的記憶術「虚空蔵求聞持法」でも教えるかな。」
ーー宮台真司、宮崎哲弥著 『ニッポン問題ーーM2:2宮台真司×宮崎哲弥』





しっかりと文化資本を有する彼らのいうように、3000年もの学術の歴史の中で宮殿のように屹立している「型」の学習を経て、漸く、人間は文字通り、「型」を破り、新しい「型」を創造する存在になれるのである。しかし、現実には、彼らのように学業に励み、受験戦争を勝ち抜き、就職試験を勝ち抜き「勝ち組」になった裕福で高学歴な人間というのは少なく、殆どの人間は負けているとも言えず勝っているとも言えない宙吊り状態の中で、子供の教育よりも前に潜在的にしても顕在的しても「自分探し」をしている事が、『文化亡国論』を紐解くとよくわかる。



「笠井潔:即物性とか肉体性を錦の御旗に、小理屈をこねるインテリを叩くという構図自体が通俗的ですね。1970年代には吉本隆明ファンの学生に、同じような図式を振り回して自己正当化するタイプが目立ちました。日中戦争で、「事変の新しさ」に目覚めた小林は、見事にそこにハマってしまいます。『Xへの手紙』で、女に責め立てられるインテリの立場をうだうだ書いていた時は、まだ良かった。しかし、即物性や肉体性の側に立つ事を書き手が自分に許したら、もう終わりです。

藤田直哉:肉体性や、大衆性を、正当性の根拠として振り回す態度ですね。現代ですと、「当事者」みたいな言葉に置き換えられればわかりやすいのかもしれません。
ーー笠井潔(有名作家、インフルエンサー、『化け物語り』の作者が「神」だと崇拝する優れた知性の持ち主)、藤田直哉(東工大卒、東工大博士号取得、小説家)著 『文化亡国論』より引用

藤田直哉は、『私小説論』や『様々なる意匠』、『無常といふこと』までは、時代のモードを切れ味鋭い批評家として「マルクス主義も国粋主義も民主主義も縄文主義もすべて流行に過ぎない。」=コスチューム替えと喝破していた小林秀雄が、吉本隆明的な大衆の原像に囚われ過ぎるようになった事を『文化亡国論』で見抜いた。ある時期までは、全ての価値を相対化し、それでもなお、時代を進めるためには任意の価値判断システムを仮設し、その機構から発行される価値に動機づけられ社会的な人間にならなければならないとしていた小林秀雄が、老人化すると「大衆性」や「肉体性」などの多数性に固執し始め、それを振り翳し筒井康隆や坂口安吾のような「ヤンキー」的に、強者への攻撃を加え始めた頃からダメになったと笠井潔は見事な洞察力で指摘する。最終的に、様々な構築物を度外視し、ただ唯物化=女性化してしまえば、「自分探し」状態を温存し肯定する事になってしまう。

そのようなことになれば、教育者としても生産者としても基本的に劣悪品になってしまい、そのような劣悪品が不十分な知的リソースや金銭的リソースを用い、更なる劣悪品を再生産してしまっているのが現代社会である。

ーーこれは、あまりに近代的な原則の一つである機会均等の原則から逸脱してはいないだろうか。

そこで、我々人類は思い出す。もっとずっと女や飯、金、居場所を獲得する事のできる簡単な方法があるのではないのかと。
それこそが、「暴力」であるという事を。
暴力は、非常にコスパが良く、単純に、相手をファシスト・ポピュリストの体現者であるトランプ、ヒトラー、ボルソナロ、山本太郎などのようにぶち殺せば、相手が持っているものを全て獲得する事ができる。現代は、特に、科学文明と思想性が高度に発達したように見えて、人間の本質は数百万年前から何も変わっておらず、尚且つ、言論と思想の力が女性的なインターネット文化の発達、ラザースフェルドのように2階の需要仮説の崩壊、デュルケムのいうアノミー社会化などにより殆どなくなっているので、暴力性は非常に高まっていると言える。宮台真司博士と東浩紀博士(東大卒、東大博士号取得、元早稲田大学教授、株式会社「シラス」CEO)は、このような言論が後退した状況を、『リトルモア7号 考えなくって、大丈夫!?得体の知れないものへ、のアクセスを』において、次のように話している。


「東浩紀:『批評空間』で浅田さんと柄谷さんが褒めたと言っても、残念ながら、今や「浅田と柄谷って誰?」で終わるでしょう。僕は大学院にいてそれをわかっているんだもの。
宮台真司:宮崎哲弥がこの前ある大学の授業で、5、60十人相手に、「宮台真司を知ってるやつ」と手を挙げさせたら2人だった、そういう時代なんですよ、今。浅田さんなら、僕も手を挙げさせましたが、百人に1人。
東浩紀:僕もそう思います。今や、読者は確率的にしか見つからない。だから、部数が全てです。」

〜略〜

東浩紀:「つまり、僕がやりたいのは、非常に僭越ですが、考えるってのは、こういう事なんだ、それを、そのまま体現したいんだ、って事なんです。実は、この前高松に行って、非常に落ち込んだ。美術館で講演したんだけど、質問者3人にそれぞれ違う形で、「東さんは、そんなことをやって何をやりたいんですか」と言われたんです。僕は、もうこれ非常にまずいなと思った。そうじゃないんだよ、俺はこんなことをやって何をやりたいんじゃなく、「こんなこと」をやりたいんだ。つまりこれが自己目的というか、考えるというのは、考えること自体が快楽なわけですよ。例えば『存在論的、郵便論的』を読んで、いろいろイマジネーションが湧いてくるのは一向に構わないんだけど、でも、あれはあれ自体で僕としては快楽なんだから。書くこと自体、読むこと自体が、濃密な時間だということを提示したいわけなんだから。今、そういう種類のことが非常にわからなくなってきてる。だからつい、そのことで何をやりたいのかと質問しちゃう。考えること自体の快楽、ということが徹底的に忘れ去られてる。」

宮台真司:「僕も最近サブカルチャーの講義をするのがキツくなってきた。それは学生に歴史的知識が欠落してることが圧倒的に大きいんです。」

東浩紀:「僕の大学院(東京大学大学院)でも、修士に入ってきてる学生がアルチュセールやラカンの名前さえも知らない。」

ーー宮台真司、東浩紀著 『リトルモア7号 考えなくって、大丈夫!?得体の知れないものへ、のアクセスを』より引用


宮台と東の対談からも分かるように、三島由紀夫と芥正彦、木村修、小阪修平が東大全共闘で熱量のある議論をしたのを境に、言論空間は退化し続け、出版社や雑誌はジリ貧になり、言葉の力は殆ど失われ、後には暴力が残った。
言葉がなければ、暴力により動物は対話するのみである。


私の体



無論、私は上の写真が示す通り、そちらでも全く持って構わないし、そちらの方が遥かに楽ではあるが、質を考慮せず、数の暴力により全てを判断する無思考的な社会のどこに近代性や人間としての精神的な卓越性があるのか私には甚だ疑問である。
国間で行われる暴力が、戦争であり、社会で行われる暴力とは受験・就活である。現代では、このように暴力があまりに複雑化し、その暴力性がよく偽装されるようになってしまったが、実は、社会にはいまだに暴力性があり、先ほども言及したようにそれはより酷くなっているという事を東大教員の小泉悠などが、ロシア・ウクライナ戦争から実証しており、以下にそれに関する記事を転載する。



「ロシア研究者は多かれ少なかれ、ロシアという国に対して好意的な部分がある方が多いんですよ。私もロシアという国が嫌いではなく、愛着のようなものもなくはない。ですが、軍事を見てきた者としては、やはり取扱注意的な存在としてロシアを見てきたので、他のロシア研究者に比べるとショックは少ないです。 特に1990年代から2000年代にかけて2度勃発したチェチェン紛争や、2010年代半ば以降のシリアへの軍事介入でも、ロシアは相当残虐なことをやってきています。なので、今回の戦争で今さら、私が「びっくりしました、ロシアを見損なった」って言ったら、「お前、今まで何を見てきたんだ」という話になると思います。 ただ、別の観点から私がショックを受けたのは、ロシアの行動原理がよくわからないということですね。この戦争はロシアにとって利益がない。「それでもロシアの戦略的な利益がある」という議論を成り立たせることもできなくはないんですが、そうは言ってもロシアという国を我々はどこまで理解できていただろうかと。ある程度、理解するための議論をしてきたつもりではあるけれど、やっぱり理解しきれていなかった。 また、侵攻後1カ月ほどで、ブチャという街で起きたすさまじい虐殺にもショックを受けました。ブチャは2022年4月頭にウクライナ軍が解放していますから、まだ比較的フレッシュな状態の兵士たちが戦争に投入されてすぐああいった行為をやっている。「21世紀の軍隊がまだこれをやるのか。人間って本当に進歩しないんだ」と、とても残念でした。 感覚としては、長年付き合ってきた友人の悪いところをまざまざとまた見せつけられているようなところです。「お前、もういい加減にしろよ」と多くの人は言うのだけれど全く聞いてもらえない、むなしさを感じています。」
『「愛着」もあったロシアに向き合い続け…軍事研究家・小泉悠が抱くむなしさ #ウクライナ侵攻1年』 Yahoo!ニュースより引用

小泉は様々なメディアで指摘する。ロシアは、ブチャにおいて、虐殺をし、レイプをし、略奪をしていると。19世紀にヨーロッパがご都合主義的に作成したGDPという指標では測る事のできないロシアの軍事能力により、NATOという西側諸国に加盟し、ロシアを裏切ろうとしていたウクライナ、ひいてはそれを支援したアメリカ・日本を含む西側諸国は敗北しかけている。確かに、ロシアは、韓国にさえGDPで負けている。しかし、かの大国は、京大卒、東大博士号取得でハーバード大学やMITで多くのノーベル賞受賞者から一級の学術を直接に叩き込んでももらった小室直樹博士も指摘するようにKGBを筆頭とする圧倒的な政治能力と軍事能力により、実質的に、西側諸国に勝利しようとしているのである。ここまでわかって貰えば、暴力とは何故に必要とされるのか?という事などは考えなくともわかるであろう。単純な話、自分自身の要求を国際秩序から始める社会システムの権威を無視し、相手に飲ませる為である。私自身、あまり言いたくない話であるが、高校在学中に世界最強格闘技であるクラブマガをし、実際に海外の軍隊で人を盛大にぶち殺し世界各地で様々な師匠に格闘技や殺人術を叩き込まれた師匠に、「常に、相手をすぐに殺せるか考えろ。そうすれば、絶対に落ち着ける。」と言われ、それが自然と染み付いてしまったがゆえに、常に、メンタルがガッチリと岩のように落ち着いているというのがある(これが行き過ぎると、「何を考えているかわからない。」=凪となる。)。
勿論、人間を殺す事は端的に良くない。

しかし、常に、相手の「波」を読み取り、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・阿頼耶識・末那識・意識・詩実眼(私は、ランニングなどでランナーズハイ状態に入った時に、自然と開眼される全てを見透かす目を、「詩実眼」と読んでいる。これに関しては、南方や井筒、『金枝篇』などを読み、瞑想・断食・格闘技・有酸素運動などの身体トレーニングを経てようやく理解できるレンマ的な知識であり、しっかりした科学的根拠はないので無視して良い。)をフル稼働させる事で、電車においても教室においても公共施設においても数十人くらいは殺せるようにスタンバイしている。下に、「戦闘に使える。」ような身体システムを調律し、精神障害に決してならない健全な楽器として多くの音楽を奏で、人生を安定したメンタルで過ごす為に必要なナンパ、筋トレ、語学学習、デッサン、ギター、歌、作曲、自炊、家事、洗濯、瞑想、断食、セックスなどの訓練を示す。私が絶対に精神障害にならない健常者として強すぎるメンタルを有しているのは、浪人中誰とも話さず、たった1人で数十時間勉強し高学歴を獲得しパワハラやモラハラ、悪口、客からの非難などの暴力にあい3度の転職や1度の起業を経験しながらメンタルを絶対に崩さず上流レベルの高収入を獲得し、「絶対に自分は正しく、社会的強者である。」と生まれた時から約50数年間何があっても信じて疑わない最強メンタルエリートであり、ダイヤモンドのように打たれ強く戦国時代や春秋戦国時代、三国志などが大好きでそういう漫画ばっかり読んでる戦闘狂でガッツリ体育会系で高校でバスケをやっている時に「水を飲んではならない。」中でただ1人倒れなかった父の遺伝のおかげでもある。我が尊敬する父は天下無双也、そして、人生はメンタルゲーだ。


人間をはじめとして生物とは振動であると師は言った。その激しさ、大きさ、形、強さによって相手の強者性と弱点は全て1秒もたたぬ間に直観され、理性を働かせ何かしらの構築物を構築している余裕は、戦闘という流動性の極限にある中では全くないと私に教える。このような構築物を見るも無惨に破壊する地震や津波、ハリケーンのような有無を言わせぬ暴力を使用し、自分自身の意見を相手に押し付けるのは非常に心地がいい事は避けようがない。しかし、このような暴力性は正直言って限界があり、私の師と言えども、100人を殺す事は体力的、或いは、人体の構造的に不可能である。ゆえに、人間は暴力性の極致として「核兵器」を創造した。20世紀においては、第一次SALTや核兵器禁止条約などが次々と結ばれながらも、人類は悟っていた。
核兵器の開発をし続けなければならないと。
隣の国が圧倒的な暴力性を獲得したときに、自分がそれに対して対抗する手段がなければ属国にされてしまうからである。ロシアとアメリカを始めとして西側諸国も東側諸国も第三世界も、ロケット開発や核兵器開発競争などを永遠とし続けた。建前では、「平和」「平和」と鳩のように鳴きながらも、人間は暴力性から逃れる事はできない。
そもそも、第二次世界大戦で、もっとも人間を殺したのはアメリカである。
彼の国は、日本に2発もの核兵器を落とし、容赦無く他の国の人民を殺し続け数百万人を超える死体が積み上がった。その世界最大の「大量殺人鬼」の犯罪者でしかないアメリカは、不思議な事に、戦後、全てを忘れたかのように「平和」「平和」と鳴き始め、サンフランシスコ平和条約や国際連合などを作成し続け、日本の東京
帝大卒 吉田茂首相は、アメリカに保障された安全のもとに傾斜生産方式を用い、日本の経済を朝鮮特需と合わせて回復させていった。自分たちの要求や思想を徹底的に、日本を始めとした「植民地」に押し付け、意味不明な「民主主義」や「資本主義」という臓器を強制的に移植しながら、自分たちが行った最大限に卑劣で非道徳的な「レイプ」行為については忘れようとしている。岸田秀が『ものぐさ精神分析』で言うように、日本は、ペリーに一度レイプされ、今度は、マッカーサーにレイプされた。それにより、レイプされてしまった日本は精神分裂を起こし障害者になり、三島由紀夫のような天皇主義者や大久保利通のような近代主義者などをかたや生成し、一方では太宰治や西村賢太などのどうしようもないアウトサイダーのメンヘラを生成してしまった。しかし、レイプ犯である当のアメリカは、全くの笑顔で、元気に日本に自分たちの考え方を押し付け、精神分裂を起こす予兆は全くない。暴力とは、このようにあまりに浅い理由により必要とされる。つまり、メスと飯、居場所を獲得し自分の正しさを証明する為。
よって、暴力の起源とは京都大学総長で日本学術会議会長の山極寿一の『暴力はなぜ生まれてきたのか~人間性の起源~』と言う慶應義塾大学における講義において次のようにシンプルに示される。


「人類は野生動物に狩られることによって、独特な社会性を進化させたのではないかと山極氏は考えています。100万年前にアフリカの熱帯雨林からサバンナに出て、出アフリカをはたしたのは、子どもを多く産む夫婦が協力して子育てを行うことで父性が拡大したこと、そして、複数の家族が協力し合う仕組みを作り上げていたから乗り越えられたのだということです。
多産による増加から危険な地域に足を踏み入れた人類は、狩られることから身を守るため、安全な泊まり場などの情報やコミュニケーションを求めるようになり、そこから家族を超える集団としての共同体が作り上げられていったということです。
やがて、人類は狩猟生活から農耕という定住生活に移行します。すると、土地の境界線という存在が新たに出現しました。それまでは獲物をめぐってのトラブルはあっても、土地をめぐってのトラブルはありませんでした。
山極氏は集団暴力の増加と農耕のはじまりの時期的一致を指摘しています。他の霊長類にはない共同体への帰属心と、血脈という意味での祖先を同じくする奇妙なアイデンティティが生まれ、争いに負けたときに報復心を持つような共同体に変わっていったのではないか、暴力の激化に発展していったのではないか、ということでした。」

有名なキラーエイプ仮説ではないが、山極寿一(京大卒、京大博士号取得。)も述べるように、人類は遊動段階から農耕段階へと移行する事で、土地と血への帰属性を獲得し、贈与関係としての家族を超える交換関係としての社会を生成し、その結果、暴力性がクレッシェンドされるのである。ポトラッチに代表される贈与原理から人類が、交換原理へと移行し、貨幣や国家、文字などの文明の利器に依存し始める契機を山極寿一博士は、東大卒業後、官僚としても働いた事のある鎌田浩毅博士(東大博士号取得、元京都大学教授)に『山極寿一×鎌田浩毅 ゴリラに学ぶ家族の起源と人類の未来』においてこう語り、鎌田はそれに深く納得している。



「19世紀の終わりに、家族進化論を提唱した文化人類学者のルイス・モルガンが、人間の社会は、インセスト・ダブーができるに従って規則化されていった、とみなしたんです。レヴィ=ストロースは、言い方は異なるけど、人間の社会は、好感という現象に帰せられ、その交換というのは、インセスト・タブーという規則を作り上げることによって人間の社会を構造化したのだとした。それは性交渉の相手、結婚の相手というものを不足化させることによって交換を作り出すということだったんですね。ある集団内が、その集団内で、性交渉を禁じられれば、性交渉の相手を集団の外に求めなければならず、そこで交換が行われるんですね。」

ーー山極寿一、鎌田浩毅著『山極寿一×鎌田浩毅 ゴリラに学ぶ家族の起源と人類の未来』より引用

京都大学の伊谷博士は、1972年に京都大学霊長類学研究所創設者の今西錦司の研究を受け継ぎ、霊長類の社会構造を動かす大きな仕組みは、ジョージ・マードックの『社会構造』で明かされた家族という社会組織の普遍的な存在などから、インセスト・タブーだと突き止めた。インセスト・タブーが高度に発達するにつれ、贈与的なミクロの暴力性は、交換的なマクロの暴力性へと拡張され、宗教と交易の中心である都市が構築され、都市の王侯や武士、神官、政治家などに権力が集中するような大規模定住社会の必要十分条件である集権型社会が樹立された。
進化論的に言えば、チンパンジーやゴリラなどが別のオスがメスに生まれた子供を殺す事で、メスを発情させ、自分自身の子供を産ませるという利己的な遺伝子論が暴力の霊長類的な起源である。それが、700万年前、アフリカ大陸で、人類へと分化し、認知革命や道具の使用、宗教性の獲得を経て、農耕革命が行われ、境界性が作成され、ナチスの御用学者であるカール・シュミットが言うような「友/敵」図式が遺伝子レベルで刻み付けられたと説明できる。即ち、「暴力」とは、男/女、理系/文系、白人/黒人、ヘレネス=身内/バルバロイ=よそ者、富豪/貧乏人、多数派/少数派、勝ち組/負け組、文官/武官、文明/非文明、資本主義者/社会主義者という二項図式を使用し、その図式における劣位者、或いは、優位者をルサンチマンやポリコレ棒、法律などで徹底的に叩き続け、ひどい場合には死にまでおいやる究極の発明品である。内田樹(東大卒、東京都立大学博士課程中退、神戸女学院名誉教授)と石川康宏(京大博士課程修了、神戸女学院教授)の『若マル』を読めば分かるようにアメリカなどでも、20世紀においては、マッカーシーやフーヴァー、ミッチェル・パーマーなどがCIAやFBI、国防総省と手を組み、赤狩りを徹底して行い、多くの共産主義者や社会主義者などを投獄し、中には死にまで追いやった。特に、J・エドガー・フーヴァーはとりわけ優秀で、東大卒で東京倒立大学博士課程中退、神戸女学院名誉教授である内田樹は『若マル』の中で、石川康宏(京大博士課程修了、神戸女学院教授)に対して、こう語っている。



「フーヴァーは、FBI長官として8代の大統領に仕えましたが、誰も彼を首にすることができませんでした。大統領を含む全ての政治家について徹底的にプライヴァシーを調べ上げ、そういう秘密情報によって歴代大統領を脅し続けたからです。フーヴァーが死んだのは、ニクソン大統領の時でしたが、ホワイトハウスからフーヴァー家に職員が派遣され、「どこかに秘密の金庫がある」とまず家探しをしました。フーヴァーは人を信じず、集めた政治家たちの秘密ファイルを個人秘書の女性に管理させていたのですが、遺言に従って全て燃やされたそうです。」

ーー内田樹、石川康宏著 『若者よ、マルクスを読もうⅢーーアメリカとマルクス生誕200年に』より引用

彼らアメリカの秩序をも守り、「反アメリカ」なるものを徹底的に追放する者たちは、「サッコとヴァンゼッティ」のような冤罪事件を捏造し、アリバイもあり、目撃情報もいい加減な事件を、パーマー司法長官に認められて出世したい判事が強引な審理を行い、死刑執行された無罪の人間たちが多くいる。まるで、「疑わしきは罰せず」の幼稚園児でも知っているような近代法の原則を知らず、証拠や事件をでっち上げる日本の中世ヨーロッパにおける異端審問官としての東京地検特捜部のように、「反アメリカ」的な対象をパージし続けたのであるが、「サッコとヴァンゼッティ」は死刑執行からかなりの年月が過ぎ、1977年に彼らが無罪である事が合衆国政府により公式に発表された。
また、中世ヨーロッパでは、正統/異端という二項図式を使用し、教会の教えに反するものを「魔女」とし、大シスマのフスを始めとして数十万人もの人間を悪魔的な拷問をした後に処刑した。魔女狩りとは、『詳説世界史』に基けば、以下のように定義され、説明される。



「宗教改革は、カトリック教会の普遍的権威を動揺させたが、宗教改革と対抗宗教改革によってキリスト教が権威を高めた君主と結びついて、ヨーロッパの人々一人ひとりの生活をより強く律するようになるという側面もあった。他方、旧教徒と新教徒の対立の激化から、ヨーロッパ各地で宗教戦争が起こった。さらに、このような社会的緊張の高まりの中で、「魔女狩り」が盛んに行われた地域もあった。」





「魔女狩りとは、悪魔の手先として魔術を行うとの疑いをかけられたものに対する激しい迫害で、異端迫害の形をとった。ヨーロッパでは16世紀から17世紀が最盛期で、これにより10万人以上と言われる人々が殺された。犠牲者の大半は女性であったが、男性も含まれた。」




ーー木村 靖二(東大名誉教授)、小松久男(東大名誉教授)、油井大三郎(東大名誉教授)、水島司(東大名誉教授)、橋場弦(東大教授)、佐藤次高(元東大教授)、他著 『詳説世界史』より引用




『詳説世界史』にも明確に記述され、無辜なる民を「魔女」として記録に残っているだけで10万人以上も筆舌に尽くし難い壮絶な拷問の末に殺害したこのような悪魔的な行為はあまりにも野蛮であり、見るに堪えないが、「臭いものに蓋」をしても結局のところ、今でもこのようなエートスは人間に残っているので下にその一部を記述する。


「処刑人は、通常、副業を行い、さらなる収入を得ていた。たとえば、斬首の際に、傷口から大量の血が流出するが、見物している者は、先を争ってその血を求めた。処刑人は、容器で血を掬い、さらには布切れにそれを浸し、お金をとって販売した。その際、処女の血は、最も高価で、ユダヤ人の血は最も安かった。市民は処刑人を差別していたにも関わらず、なぜ血を求めるという行為に走ったのか。この矛盾点についてK・B・レーダーの『死刑』によれば、処刑された者は犯罪人であったとしても神への供儀にあたり、その血は病気に対する治療力を持つと信じられていたという。さらに、その行為は、古代のカニバリズムや聖体拝領における赤ワインがキリストの血であるという解釈につながっている。レーダーによると、1861年のハーナウにおける強盗殺人犯の処刑、1864年のベルリンの殺人犯の死刑の際にも、処刑人たちは多数の布切れに血を浸し、一つ二ターラーで販売したという記録がある。19世紀ですら、民衆の間では処刑された人間の血が病気に効くという迷信が信じられていた。また、処刑人は日頃拷問を行う経験から、人体の構造に通じており、骨折や捻挫の治療など、闇ではあったが外科医としての仕事に携わった。」


「1679年の秋、パリ警察は、女祈禱師、ラ・ヴォワザン夫人を逮捕した。かの女は金持ちの宝石商の未亡人であったが、夫は不自然な死に方をしたので、世間では毒殺されたのではないかという噂をした。しかしどこにもその証拠はなかった。だが、かの女は黒ミサを主宰していた中心人物であって、堕胎薬や媚薬、毒薬を藻調合していた。供述によると、「黒ミサのためにナイフで子供の喉を切り裂き、血を杯に注いだ。」という。その結果、2500人もの子供が殺された。」


「シュペーは怒りを込めて、刑史がひどい拷問を加えながら、裁判調書では、「拷問もなく自白した」と臆面もなく記載されている事実を告発する。魔女裁判、処刑の現場に立ち会ったシュペーの言葉には、極めてリアリティがある。また彼は実際に拷問の現場を見た人物から、その実情を聞き取ってこう書いている。
被告が拷問にかけられ、すでに自分の罪を自白した後、他の仲間についての問いに対しては何も知らないと言ったが、裁判官は、「お前はその女のことを知らないのか。魔女のサバトでかの女のことを見なかったのか。」と尋ねた。被告が、「その人について悪いことを全く知りません。」と答えると、裁判官は刑史に向かって、「引っ張れ、紐をピンと張れ!」といった。そうされると、拷問を受けている女性は痛みに襲われ、「わかりました、わかりました、お役人様、待ってください。私はその人を知っています。かの女を見かけました。否定しません」と言った。そこでこの告発が調書に書き込まれるのである。」

ーー関西大学名誉教授 浜本隆志(文学博士)著 『拷問と処刑の西洋史』より引用


サンバルテルミの虐殺で旧教徒が大勢の新教徒を虐殺し、農民から十分の一税を取り立て、ウィクリフやフスなどの有能な神学者たちを正統=普通/異端=変図式を乱用し大シスマで追放し、シャルル9世とカトリーヌ=ド=メディシスが起こしたユグノー戦争で多くの人間の命が奪われ、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義』でウェーバーが告発するように多くの人民を疎外してしまう資本主義をイデオロギーにより生み、三十年戦争で数百万もの人間を殺したキリスト教は、「異端審問官」や処刑執行人などの警察機構を使用する事ができ、尚且つ、それをカール大帝やテオドシウス帝、ビザンツ帝国の皇帝の名の下に、正当化する事ができたので、ここまでの凶悪さを発揮し、自分自身の信仰を人間に「暴力」を持ってして押し付け続けた。

それから、ラス=カサスの『インディアスの破壊についての簡潔な報告』からも分かる通りに、スペインは、エンコミエンダ制を用い、アメリカを統治していた時に、島全体の先住民を「非文明人」だとし、全員皆殺しにしたり、レイプしたり、壮絶な拷問にかけたりした。
かてて加えて、『東大生が教える戦争超全史』によると、ベルギーがルワンダを統治する上で、ツチ人/フツ人という二項図式を用い、「ツチ人はアフリカに文明をもたらした「ハム人種」、フツ人は下等な「アフリカ土着人種」として、ツチ人を優遇し、フツ人を差別するようになった。」といい、ツチ人が多くの官職を占有し、支配者階級となったが、ベルギーがツチ人と関係が悪くなった為、方向転換し、フツ人に権限を移行させると、以下のようになった。


「わずか100日で、約100万人もの犠牲者が出た。
 1993年には、ルワンダ政府とルワンダ愛国戦線との和平協定が結ばれます。しかし翌年の1994年4月、ルワンダのハビャリマナ大統領の乗った飛行機が、何者かのミサイル攻撃で撃墜される事件が起こりました。
 ルワンダ愛国戦線とフツ人の過激派は、お互いに相手側をこの事件の犯人とし、一時は和平に向かった両者の対立は再び激化することになりました。
 そしてフツ人の過激派は、とうとうツチ人を撲滅するための虐殺を開始します。彼らの中には政権に近いエリートがおり、1990年頃から新聞やラジオを使ってツチ人に対するヘイトスピーチを続けていました。このときも、ラジオなどを使って、「年齢、性別にかかわらずツチ人を皆殺しにしろ」と民間人を扇動し、これに賛同しないものはフツ人でも殺しの対象とする、としました。その結果、100日間でなんと約100万人もの犠牲者が出てしまったのです。
 このルワンダで起きた大虐殺に対して、国際社会は適切に対処しきれませんでした。国連は事態への介入に消極的で、ルワンダから再三の支援要請があったにもかかわらず、これを黙殺していたのです。国連が重い腰を上げたのは、50万人もの人々が虐殺されてからのことでした。
 私たちが理解しなければならないのは、この人種差別はヨーロッパ人が持ち込んだものであるということです。2022年現在もなお、虐殺の加害者は生存し、生き残った被害者の多くはPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しんでいます。」。
ーー『東大生が教える戦争超全史』より引用

ーーまるで小説界の頂点である伊藤計劃の『虐殺器官』が内向的なアメリカ人の主人公を使用し暗に批判するように「ゴキブリを殺せ!」などのトランプイズムが感じられる感情のフックをうまく利用する事で、対立を激化させ、結果的に、ルワンダでは、多くの被害者が精神障害者になり、『COURRIER』によると、「1994年、ルワンダは約100日間のジェノサイド(集団殺戮)で国全体が崩壊した。約80万人が殺され、約25万人の女性がレイプされたと推定されている。ある慈善団体の試算によると、この大量レイプから約2万人の赤ん坊が産まれたという。」という事になったのである。


権威のある博士らしき男の強い進言によって一切責任を負わないということを確認した上で実験を継続しており、300ボルトに達する前に実験を中止した者は一人もいなかった。」というミルグラム実験からも分かるように、人間とは通常時においては「戦争はいけない。」「道徳的に振る舞え。」「自分の頭で考えて選択して行動しろ。」などと言いながらも、本当のところは、何も考えておらず権力者・有力者の命令に従うだけであるという事などとっくの昔にアメリカの権威ある大学で多くの実験を通して証明されている。南京大虐殺においてもルワンダ大虐殺と同様の残虐性が露呈した。南京大虐殺に関わった96歳の絵嶋の回顧を森達也は次のように総括する。



「武勲を立てた軍人が日本臣民の理想像として褒め称えられた戦前の小学校国定教科書や、「忠君愛国」「質実剛健」を綱領として軍事訓練が必須科目となっていた中学校の教育などを例に挙げながら、間違っていたのはどちらですかと問いかける。朝鮮人をチョンと呼び、中国人にチャンコロ、ソ連人はロスケで外国人はケトー。そんな呼称に凝縮される他民族蔑視の思想が、この時期は教育の場で当たり前のように醸成されていた。日本人は世界一優秀な民族なのだと思い込んでいた。だからこそ中国人をいくら殺しても、日本の兵士達は何も感じなかったのではないのかと。こうして国の為に死ぬことを男子の本分として教育された少年たちは、さらに軍隊で、兵士としての改造を受ける。」


ーー森達也(明治大学教員、映画監督)著 『「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい 正義という共同幻想がもたらす本当の危機』より引用




大虐殺において、日本人は、中国人を「チャンコロ」とバカにし、人間地雷探知機として使用し、銃殺を練習するための道具として使用し、慰安婦として使用し、極めつけは、その肉便器として遊び尽くした高校生くらいの誰かが愛していたであろう少女をぶっ殺してその大腿部をスライスして油で炒めて美味しそうに食べたのである。


ここで、身内/よそ者図式に言及してもいいだろう。シカゴ大学生物学部教授のダリオ・マエストリピエリ博士の『ゲームをする猿』によれば、イタリアの学界をはじめとして政界、経済界、法曹界、軍部、官界などでは以下のようなネポチズム=身内贔屓が起こっているという。



「イタリア学界のマフィアの内部構造は、一部の大学の電話に警察の手で盗聴器が仕掛けられ、バロニ同士の会話が録音されてから暴き出された。2005年、バリ大学教授のリオン博士は、イタリア中のコンコルシを操る戦略を謀議しているのを録音された。そうした会話の一例に、自分の息子に都合のいいように調査委員会を構成しようと協議しているものがあった。その息子は学位の職位に応募しており、そのあとで試験の一部として息子が書かねばならなくなる小論文の題目を相談していたのだ。別の録音されていた会話では、バロニたちの被保護者に対抗して応募したある有資格立候補者が、マフィアの2人の殺し屋からコンコルソ絡みを引かないと身体的暴力を振るう事を脅されていた事が明らかになった。その2人の名前もわかった。2人とも、前科があった。もう一つの録音では、リゾン博士はある同僚に、自分の息子と別のバロニたちの縁者が、教授職を得られるように手助けするには、自分はアウトサイダーの候補者を欺けるほどかなり巧妙に事を運ぶ事ができると自慢していたという。なお、その有資格者の成績は、彼が小細工した連中より遥かに優秀であったそうだ。」
ーーダリオ・マエストリピエリ著 『ゲームをする猿』より引用




ある学部長が、教員職を公募し、他の複数の候補者の面接もせずに、自分の娘を採用するように大学に圧力をかけたり、またある大学の教授 モッタ博士は自分の息子の試験結果の報告書を捏造し、自分の息子が他の教授候補よりも遥かに高い適性がある事をでっち上げたり、カメリーの大学の法学部教授で66歳のエチオ・カピッツァーノは、自分のオフィスの長椅子で複数もの女生徒と性的関係を持ち、自分の同僚などに性的関係にある女生徒に試験を好成績で突破するように依頼し、高齢者のファルスをきれいに掃除した見返りとして女生徒らはいつも大成功のうちに試験に通り就職試験においても無双したという。根本的な世界観と洞察力が私と酷似しており、カフェなどで議論すればきっと友になることができるであろうコネが全てのイタリア社会でコネなしの状態で社会に排斥されながらも実力のみでたった1人、いつも全優の成績で博士号をもぎ取ったダリオ・マエストリピエリ博士は、シカゴ大学という日本の最高学府であり日本人の生活を最高レベルに支えてくれる機関である東京大学よりも世界ランキングが高く歴史もある大学に勤める大学教授である。彼は、一流の教授に指導される学生の多くは、図らずも一流の教授の息子か娘であり、実際に、『ゲームをする猿』を書いている途中に次のようなメールが彼の元に届いたのは注目に値する。


「ダリオ、先週、ちょっと会ったね。いま、私はこの学部の准教授で、あなたが現在、行なっている研究に非常に感銘を受けた。こうしてメールを書いている理由は、この夏の実習生に関心を持っているかどうか尋ねたいからなんだ。私の息子がこの大学に在籍していて、私たちはあなたの研究について話し合っているところなんだよ。そこで、お願いなんだけど、息子の履歴書を見てもらえないかな?その上で、夏の実務研究の採用の可能性を検討してもらえるとありがたい。息子がこの経験の場を得る支援をあなたがしていただけたら、本当にありがたいと思うんだけど。」
ーーダリオ・マエストリピエリ著 『ゲームをする猿』より引用

アカゲザルを科学的に研究し、彼らの社会と人間の社会のあまりもの類似性に驚き、それらをグルーミング、ネポチズム、ハンディキャップ戦略として分析するマエストリピエリ博士は、このメールをもらい「イタリアのラコマンダチオーネのように思えないだろうか?おそらくこれは、ラムの背肉やイタリアの何かのソーセージを私が獲得するチャンスなのではないのか?」と皮肉まじりに記述している。リコメンデーションとラコマンダチオーネは異なる。前者は、単純に仕事の応募者の資格や履歴書、前の職場などでの態度などを公平に記述し、次の職場へと提出するものであるが、後者は、推薦というよりは命令であり、履歴書や候補者の評価などに一切関係なく誰がその推薦を行なったかで候補者に優劣が決定される。要するに、彼は、日本における『週刊文春』に匹敵するニュース週刊誌『レスプレッソ』でも暴露された多くの事例を通して、例えば、キムタク(SMAPの主要メンバー、アイドルとして国民的人気を誇る。)の娘が彼女よりも演技派で可愛い人間など山ほどいるにも関わらずやたらテレビに出演しているのは、実力主義的で近代的なリコメンデーションではなく家柄差別的で前近代的なラコマンダチオーネであると指摘するのである。

ーーーーお分かりいただけたであろうか?これらは、すべて中卒レベルの知識であり、高校範囲であるので、当然知っていると思うが、あえて言及した。「人間から、暴力を取り上げる事はできない。」という『進撃の巨人』における名言の正しさを徹底的に証明する為である。



興味深いのは、暴力を振るった側は、共通して、ヒムラーやミュラー、或いは、ハイドリヒ、幣原喜重郎的な国粋主義者のように「私には権限がない。」「命令は推敲しなければならない。」「義務だった」などという事である。そして、何よりも皮肉なのは、この場合、例えば、南京大虐殺の被害者である中国が、1949年にウイグルに侵攻し、チベットに侵攻した事である。
欧州連合(EU)、アメリカ、イギリス、カナダが中国に対して制裁を加え、国際司法裁判所(ICJ)、国際刑事裁判所(ICC)、イギリスのサー・ジェフリー・ナイスなどが中国のジェノサイドの悲惨さを訴えているが、彼らも歴史的に相手に対して暴力を振るってきた加害者である事を考えると、途轍もなく傲慢である。『Zur Theorie der Gesellschftsspiele』というノイマンとモルデンシュテインによる論文で記述されたミニマックス定理的に、ゼロサム2人が行うゲームにおいて、確率により構築される混合戦略を許し、双方のプレーヤーが戦略配分を合理的に行う事など数多もの輻輳性によりコンストラクトされた現実においては不可能である。

現実においては、ナッシュ均衡の完全合理性は、基本的に具現化されず、チキンゲームのようにあるプレイヤーが優位-劣位関係という有名な生物学用語的に言えば、劣位者にならねばならない状況が起こったり、コーディネーションゲームで説明されるようにいじめなどでも傍観者も含めてそのいじめの正当性を追認していれば、そのゲームは続行する事になる。


人間は、誰でも加害者であるとともに、被害者でもある事を決して忘れてはならない。

それから忘れてはならないのは、暴力には必ず、「愛」があるという事である。即ち、日本軍が、南京大虐殺をしてまで中国を攻撃するのは、故国の守るべき父や母、妻、子供などがいるからである。人は誰かを守るために、剣をとる。


それが国であっても、恋人であっても、友達であっても、家族であっても、故郷であっても、信念であってもすべて同じ事だ。
ゆえに、暴力を軽蔑する事は、愛を軽蔑する事であり、愛さえなくせば、人は暴力をやめ、全人類がヒッピー化し、自由気ままに殆ど人と関わらず過ごす事になるであろう。

マックス・プランク分子細胞生物学・遺伝学研究所で生物学研究所の所長を務めるドーラ・タンは、DNAやRNAなどの遺伝情報伝達物質が液滴の分裂速度を高めるタンパク質を合成するようになれば、原子細胞は自然状態にある物質が無秩序に広がってゆく「エントロピー増大の法則」と太陽光によって、徐々に複雑化していくという。その過程で、ルーマンも社会システム理論に組み入れた有名な「膜」が登場し、生命は内側と外側を明確に持つようになった。D・ロングがいうような社会化過剰的人間観に基づいていうと、人間は、内面化された社会のディシプリンに本質的に疎外される定めにあり、初期マルクス=初期廣松渉(東大卒、東大博士号取得、東大教授。)の受苦的疎外論では人間の疎外性を解き明かす事はできない。ヘーゲルは、波頭亮(東大卒経営コンサルタント、有名タレント)もそう解釈したように「労働とは自己実現であり、心の外化だ。」と定義したが、マルクスの時代においては労働とは自己という「内側」からの疎外を意味し、詰まるところ、社会という「外側」を「内側」化する事を意味し、「内側」をリゾームと反対のツリー的に脱領土化(ドゥルーズ)され侵略される事を意味する。要するに、パーソンズの構造機能分析論的に記述すれば、アプリオリには「内側」であったコードが、家族を持ち恋人を持ち友達を持ち職業を持つそれらを「愛」=「内側」への偏執病により守らなければならない社会化された人間にとっては疎外する対象になり、まさに、暴力により徹底的に消滅させる対象になる。もっと具体的な事に言及すると、20世紀最高の生物学者で、ノーベル生理学・医学賞受賞者でハーバード大学生物学教授として長く教授職を務めたジェームズ・ワトソン博士の黒人差別という現在では、「外側」だとされてしまう発言を、「内側」にいる人間は、忌避する。英紙サンデー・タイムズによると、ワトソンは「アフリカの将来については全く悲観的だ」「(我々白人が行っている)アフリカに対する社会政策のすべては“アフリカ人の知性は我々と同等である”という前提で行われているが、それは間違いである」「黒人従業員の雇用者であれば、容易にそれを納得できるだろう」「黒人は、人種的・遺伝的に劣等である」などと発言した。彼は、このような聞くに耐えないと「内側」的にされる発言により、コールド・スプリング・ハーバー研究所を辞職に追い込まれ、名声は地に堕ち、学会からも距離を置かれ、ノーベル賞メダルをオークションにかけなければならないほどに経済的に困窮した。
このような過剰とも言える制裁を、どこかで見覚えがないであろうか?

東大卒、東大博士号取得者で京都芸術大学客員教授で森美術館理事の中野信子は、『人はいじめをやめられない』において、サンクションとは社会におけるフリーライダーを徹底的にパージする為に創造されたものであるとした。裏切り者検出モジュールというニューロンシステムに設置された装置により、人間は社会において役に立たない人間を処分する為に、サンクションを行い、それが時には、オーバーサンクションとしてのいじめやシャーデンフロイデ、スケープゴートとして表出される。セロトニンを再吸収するタンパク質であるセロトニントランスポーターのs型遺伝子を特に作成しやすい気質である日本人などは、特に、セロトニンにより安定した精神を維持できない為にいじめなどのオーバーサンクションを行いやすいとする。しかし、このようなサンクションとは集団への帰属意識であり、集団を守る意志であり、仲間への愛である事を我々は心に留めなければならない。「内側」の不文律を含めた掟を守れない人間を、「空気読めない=ky」などとして排斥し、徹底的に暴行した後に「外側」へ追いやるというのは以下のような合同会社Break Room」を設立をした古川諭香の記事から証明される事であるが、生命と根本原理である膜システム的に仕方のない事である。


「ヒトはどうしていじめをやめられないのか――。その理由を脳科学的に探ると、とても奥深い。中野氏によれば、いじめはヒトが生存率を高めるため、進化の過程で身につけたひとつの「機能」なのだという。
 ヒトは他の野生動物よりも脆弱な肉体をしている。それを補い、生存し続けるため、集団を作り、グループで協力し合ってきた。しかし、集団の中に内部からの破壊を試みる「フリーライダー」がいると、集団として機能しなくなる恐れがある。そこで、ヒトの脳には、自分自身や集団を守るため、このフリーライダーになりそうな人物に制裁行動を起こし、排除しようとする機能が備え付けられたというのだ。
 制裁行動は社会性を保持するために必要だが、集団を維持しようとする「向社会性」が高まりすぎると、「排外感情」も高くなり、自分たちとは違う人を排除しようという思想が芽生える。すると、ルールを破ろうとしている人だけではなく、多くの人が認識しているスタンダードとは“少し”異なる人に対しても制裁感情が発動してしまう…。
「過剰な制裁(オーバーサンクション)」と呼ばれるこの感情こそが、いじめの根源。私たち人間の脳は、いじめをやめられないつくりになっているのだ。」

中野信子は、以上のような論理の基づき、人間の武器とは肉体でもなく頭脳でもなく金銭でもなく集団である事を説明し、そのような人間は正義という快楽によりドーパミンを分泌させ、SNSや学校・職場などで他者をひどい場合には、死に追いやるまで疎外すると指摘している。
暴力とは、膜システムに基づき、他者を虐げている自分を強者という「内側」にし、虐げられている弱者を「外側」にする。戦争やいじめ、シャーデンフロイデ、スケープゴート、悪口、レッテル貼り、レイプ、虐殺、強奪などの全ての暴力行為は「内側」の強者として「外側」の弱者を虐げる事で、現実的に貨幣や名誉などとして大きな利得を上げ、精神的にも自分は強いという事を確証させてくれ、多大な快楽をドーパミンやオキシトシンという形で生成させるのである(実際、前に記述した虐殺行為や処刑行為、戦争行為などの縮小形であるまだ残酷性に大いなる可愛げのある『ドールズ』では、女を使用し、金を稼ぎ、セックスにより快楽を貪り尽くし、自分自身が他者を疎外する事のできる「内側」の強者だと証明できた。)。一方で、このように残虐で唾棄すべきにも思える暴力行為とは、自己の生命を存続する為だけではなく、自分自身の恋人や家族、友達、故郷、属する組織の強者性を保障する為にも機能するものである。だからこそ、ここまでの論を統合すると、次のように暴力の本質を簡単に言い当てる事ができる。

      

暴力の起源とは、愛だ。


人類は、その端的な事実を唾棄せずに、自分自身の限界性と身体性と向き合いながら、身体から離れた理想としての理性とも関わっていかなければならない。しかし、基本的にどのようなスペックの持ち主であっても、例えば、娘を殺されれば有力な法学者が死刑廃止論をやめペナル・ポピュリズムの最大の支持者になるように、人間の愛=プラトン的なミメーシスとは決して何者にも揺るがす事はできない最も強固な生きる意味であるので、理性などはその信仰の前ではまるでセックスをしている時にセックスの科学的悪癖を説明する科学者ほど無用な存在であろう。『キングダム』において、六大将軍 桓齮の右腕である雷土が捕虜になり、その時に敵兵に桓齮の作戦を伝えていたら、負けていたところを雷土が敵兵に情報を漏らさず、敵の将軍に「まだ片腕もあるのだから、帰ったら好き放題、女を抱けるぞ。」といわれ情報を提供すれば釈放されたにも関わらず、最後の最後まで痛みに耐え主人を裏切らなかった事で敵兵による無惨な拷問により失った時に、部下への愛ゆえの報復行為として10万人もの戦争捕虜を惨殺したように。





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