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血の力

[へブル人への手紙 9:8,9,10]

聖霊は、次のことを示しておられます。すなわち、第一の幕屋が存続しているかぎり、聖所への道がまだ明らかにされていないということです。この幕屋は今の時を示す比喩です。それにしたがって、ささげ物といけにえが献げられますが、それらは礼拝する人の良心を完全にすることができません。それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序が立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎません。

今日の聖書箇所
ヘブル9:1〜10

今日もヘブル書から恵みをいただいていきたいと思います。

ヘブル書の著者は古い契約と新しい契約を対比させて,新しい契約の優越性と完全性を教えていきます。そのために古い契約のもとでの聖所とそこでの祭司たちの礼拝についてまず語ります。

聖書というのはどこをとってもイエス・キリストについて教え,イエス・キリストについて語っているのです。旧約聖書も全てイエス・キリストについて証ししているのです。

それゆえ旧約の幕屋の構造やそこでの礼拝の規定の中にもイエス・キリストが隠されているのです。

イスラエルの民はモーセによってエジプトでの奴隷生活から解放されてシナイ山で律法を与えられ神との契約,古い契約を結びました。その中には荒野の旅の中でも幕屋という聖所を作り,そこで祭司たちが毎日礼拝を捧げるようにという戒めがありました。

その幕屋は聖所と言われるところと,その奥に至聖所と言われるところがある2段階構造になっていたのです。

至聖所には大祭司だけが年に一度だけ大贖罪日と言われる日に入ることができ,そこにある契約の箱の上に動物の血を注いで,自分の罪と民の罪の贖い,償いをしたのです。

祭司であっても至聖所には入ることはできなかったのです。またそのように罪の償いは毎年繰り返さなければならず,どんなに動物の血を捧げても,罪が赦された確信もなく,自分たちの心,良心がきよめられたという確信も与えられることはありませんでした。

なぜならそれらの幕屋での儀式,祭儀はやがて来る永遠の大祭司,イエス・キリストによる贖い,救いが必要であることを教えることに目的があったからです。

幕屋が聖所と至聖所という2段階構造になっていることは動物の血では誰も主の聖なる臨在の中に入ることはできないこと,ただ永遠の大祭司,イエス・キリストが捧げられる完全な血潮によってのみそれが可能となることを示しているのです。

また動物の血をどれだけ捧げても良心が完全にされないこと,赦されたという確信,救われたという確信を持つことができないことも,それはただ永遠の大祭司,イエス・キリストが捧げられる完全な血潮が私たちの良心に注がれる時に与えられることを示しているのです。

イスラエルの民に与えられた幕屋という聖所もそこでの礼拝もさまざまな限界があったのですが,それら全ては永遠の大祭司,イエス・キリストによる贖いの完全性,またその流された血潮の完全性へと私たちの目を向けさせ,それを信頼するように,それにより頼むようにと私たちに語っているということです。

永遠の大祭司,イエス・キリストは私たちが誰でも罪赦され,誰でも汚れがきよめられ,どんな時でも主の聖なる臨在の中に入ることができるように至聖所への道を開いてくださったのです。

その証拠,そのしるしがイエス様が十字架で死なれた時に聖所,神殿の聖所と至聖所の幕が上から下まで真っ二つに切り裂かれたことなのです。

[マルコの福音書 15:37,38]

しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

どれほど感謝なことでしょう😭旧約時代,不用意に至聖所に近づくならばその人は神の聖さに打たれて死んでしまったのです。罪ある者が聖なる神に近づく道はなく,仮に近づいたなら死という裁きを受けたのです。それゆえ永遠の大祭司,イエス・キリストがその罪による死という裁きを十字架の上で引き受けて死んでくださったのです。それゆえに今や罪ある私たちがその血によって罪赦されて神の子とされて神の御前にいつでも近づくことができるようになったのです。

かつて幕屋の至聖所は罪ある者に死をもたらし裁きの座だったのですが,永遠の大祭司,イエス・キリストによってそこが恵みの御座となったのです。どれほど感謝なことでしょう😭ただ主の流された御血に感謝しかありません😭

その主の血潮による救い,贖いに溢れる感謝を捧げ,そのような救い,贖いを成し遂げてくださった主に限りない賛美を捧げることが新約時代の礼拝なのです。主の血潮による恵みの豊かさ,大きさを悟るならどうして礼拝をしなくなることがあるでしょう?どうして嫌々,義務的に礼拝することなどあるでしょう?

そうなっているなら私たちは主の血潮による救い,永遠の大祭司であるイエス様の血潮の尊さがまだ何も分かっていないということであり,まずその血潮の価値を霊的に知ることができるように祈り求めなければならないのです。

今日の祈り
主よ,罪ある私たちが聖なる神の御前に近づくことができるように流されたその血の価値を深く悟ることができるように聖霊の恵みを注いでください。

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