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信仰→従順→奇跡

[列王記 第一 17:13,14,15]

エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。

今日の聖書箇所
I列王17:1〜16

今日も列王記から恵みをいただいていきたいと思います。

いよいよモーセと並ぶ旧約の偉大な預言者エリヤが登場します。

主なる神に対する信仰を捨て去り、偶像崇拝にすっかり染まっていたアハブ王と北イスラエルの民にまずエリヤは主なる神の裁きを宣言します。

[列王記 第一 17:1]

ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」

その当時アハブとイスラエルの民が盛んに拝んでいた偶像バアルは雷の神で雨を降らせてくれると信じられていたのです。

エリヤはそれは偽りであり、創造主である主なる神が天地万物を支配されていることを明らかにして、偶像崇拝の罪に対する裁きを宣言するのです。

これはアハブにとって見れば自分に対する公然たる反逆であり、エリヤの命がけの行動でした。それゆえ主はエリヤにアハブの前から立ち去り、ケリテ川のほとりに身を隠すように命じます。そしてケリテ川のほとりでカラスにエリヤを養うように命じたと言われるのです。

[列王記 第一 17:3,4]

「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。
あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」

カラスがどうやってエリヤを養うことができるでしょうか?全くあり得ないことです。しかしエリヤはその主の御言葉に従うのです、すると御言葉通りの奇跡が起こるのです。

[列王記 第一 17:5,6]

そこでエリヤは行って、主のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。

人間の常識を遥かに超えた主の奇跡が起こったのです。しかしそこも安住の場所ではありませんでした。干ばつのゆえにケリテ川も涸れてしまったのです。そうすると主はエリヤはシドンのツァレファテに住むやもめにエリヤを養うようにさせるのです。

[列王記 第一 17:8,9]

すると、彼に次のような主のことばがあった。「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」

どうして経済力の全くない、しかも異邦人のやもめがエリヤを養うことなどあるでしょうか?これもまた全くあり得ない、常識はずれのことでした。しかしエリヤがその御言葉に従うとその通りになったのです。

エリヤが出会ったツァレファテのやもめは飢饉の中で最後のパンを焼き、それを食べて子どもたちと死のうとしていたのです。そのやもめにエリヤはまず自分のためにパン菓子を作り、それを食べさせるように語ります。そうするならかめの粉は尽きず、壺の油もなくならないと神の言葉を伝えるのです。

人間的に考えるならあまりにも理不尽で不当な要求でした。しかしこのやもめはこのエリヤを通して語られた主の言葉に従うのです。すると御言葉通りの奇跡が起きるのです。

このやもめはどうして異邦人、異教徒であるのにエリヤが語る主の言葉に従ったのでしょうか?それはこのままではどうせ自分たちは飢饉で死ぬしかないところにまで追い込まれていたからでしょう。

わずかのパンを食べても死ぬ、エリヤに食べ物をあげてたとえ奇跡が起こらなくても死ぬ、それなら奇跡が起こるという主の言葉に賭けたのです。

エリヤもこのやもめも神の言葉にいのちを賭ける信仰を持っていたのです。そしてその信仰に応じて主は全能の御力をもって次々と奇跡の御業をなさっていかれるのです。

どんな難しい状況も不可能な環境をも覆す奇跡をなさっていかれるのです。その御言葉にいのちを賭ける信仰を持っていたのはイスラエルの民ではなく異邦人のやもめでした。

私たちは神とその御言葉を信じていると言うなら、その信仰がどのようなものかを点検していく必要があるのではないでしょうか?

自分の常識と経験の範囲内で神を信じている場合が多いからです。神の言葉と私たちの常識がぶつかった時にどちらを信じるでしょうか?神の言葉と私たちの経験が反する時にどちらを信じるでしょうか?

ほとんどの場合は自分の常識と経験を信じるのではないかと思います。それを乗り越えて神の言葉を信じるためには神の言葉の一つ一つに従って主の力ある御業を見ていくという訓練が必要です。そのような信仰の訓練のない信仰はただの狂信になってしまいます。

突然、大きな事で神の言葉を信じて、従うことはできないことがほとんどです。しかし小さな事で神の言葉を信じて、従うというチャレンジをして、主の御業を体験していく時に信仰は確実に成長していきます。

やがてどんな問題や困難に直面しても神の言葉を信じ、それに従うことができるようになり、あらゆる状況、環境、常識を超えた力ある主の御業と主の栄光が現れていくことを見るようになっていくことでしょう。

主はご自身の御言葉をまっすぐに信じ、従う者を必ず守り、養い、導いてくださるのです。

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