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ボードゲーマーに贈る「マッチ・オブ・ザ・センチュリー」の歴史的背景


ボードゲーム「マッチ・オブ・ザ・センチュリー」とは

 数寄ゲームズ/独Deep Print Gamesより発売されているボードゲーム「マッチ・オブ・ザ・センチュリー スパスキーvsフィッシャー(原題:Match of the Century)」は、実際に行われたチェスの名勝負を体験するカードゲームです。

 モチーフになっているチェスの試合は、1972年7月にアイスランドの首都レイキャヴィクで行われた世界チェス選手権のチャンピオン決定戦です。
 当時の第13代世界チェス選手権チャンピオン、ボリス・ヴァシーリエヴィッチ・スパスキー(ソ連)と挑戦者のボビーことロバート・ジェームズ・フィッシャー(アメリカ)による対戦は、当時の冷戦構造からもソ連とアメリカの代理戦争的な注目を集め、また後世に残る歴史的名勝負ともなったことから、今日こんにちでも「世紀の試合(マッチ・オブ・ザ・センチュリー)」と呼ばれています。

 世界チェス選手権は、(将棋や囲碁などと同様に)複数の参加者による予選が行われ、最終的な勝者が現チャンピオンへの挑戦権を得ます。チャンピオンvs挑戦者の勝者が(新たな)チャンピオンになる奴ですね。
 私はチェスについて詳しくないので知りませんでしたが、世界チェス選手権では対局者同士が勝ち点方式で複数回の試合を行い、所定の勝ち点を得た方が勝者となるそうです。勝ち点方式とは勝ったら何点、引き分けなら何点と設定してあり、成績によってポイント加算して強さを決める方法で、日本だとJリーグの順位決定方式としても知られています。世界チェス選手権の場合は開催期間中、同じ対局者と最低でも8試合、実力が拮抗していれば10数試合も行うことがあるそうです。
 囲碁や将棋のタイトル戦は多くても7戦(引き分けで追加あり)程度なので、勝ち点方式のチェスってなんか大変そう。

 と言っても、「マッチ・オブ・ザ・センチュリー」は「チェスの棋譜をそのまま再現する」ゲームではありません。なので、チェスのルールが分からなくても問題なく遊べます。
 冒頭で「カードゲーム」と書いた通り、チャンピオンと挑戦者がそれぞれデッキを持ち、カードの特殊効果を使って「試合の優劣」を示すゲージを操作します。なのでチェスの試合を模したボードゲームではなく、世紀の対決と呼ばれるほど緊迫した試合の駆け引きや雰囲気を味わうボードゲームと言った方が良いでしょう。
 ちなみにチェスの駒を模した駒もいくつか同梱されていますが、一式は揃っていないので、このゲームで「実際のチェス」はプレイできません。

 実はこのボードゲーム、モチーフとなった試合の歴史的背景を解説した小冊子が同梱されていて、その小冊子を読めば歴史的背景を詳しく知ることができます。つまり本記事を書く意味はない
 この歴史小冊子、ページ数がルールブックの2倍あり、日本語訳の際も原語版の版元から「別に翻訳しなくてもいいよ?」と言われた曰くつきの代物ですが、こう言う冊子を作ろうとした原語版の版元も、それを即座に「翻訳します!」と答えて同梱してくださった日本語版の版元も、非常に良い仕事をしてくださったとありがたく思うばかりです。

 なので、この記事ではゲーム同梱の歴史小冊子とは違った切り口から、このチェスの試合の歴史的背景を見ていこうと思います。

チェスと冷戦

 チェスの歴史は古く、紀元前の古代インドで遊ばれていた「チャトランガ」が起源と言われており、ペルシア経由で8世紀頃にロシア、9世紀頃になってヨーロッパに広まっていきました。
 ルールが現在の形になったのは16世紀頃のようで、その頃からヨーロッパで世界で一番強いチェスプレイヤー決定戦的な大会が開催されるようになったみたいです。ただし当時は現代チェスのような「持ち時間制」ではなく、アジア圏などヨーロッパ以外の地域ではチェスが広まっていない時代でもあるので、現代において当時のチェスチャンピオンは「非公認」になっています。

 チェスの世界大会で持ち時間制が最初に導入されたのは1886年のことで、それ以降のチェスチャンピオンが「公式」となったのは1924年に設立された国際チェス連盟(FIDE)が追認したためのようです。ちなみに最初の公式世界チャンピオンは、当時オーストリア領だったチェコ出身のヴィルヘルム・シュタイニッツで、後にアメリカに移住したそうです。
 国際チェス連盟設立後、ロシア出身のアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・アレヒンが1927年に第4代公式チャンピオンとなり、その後失冠したものの、1937年にチャンピオンの座を奪還し(第6代)、以降はロシア→ソ連のチェスプレイヤーが世界チャンプの座を保持し続けます。ゲームのモチーフとなった第13代チャンピオンのボリス・スパスキーは「世紀の試合」の3年前、1969年に10人目の世界チャンプとなりました。

 「世紀の試合」が開催された1972年当時は、第二次世界大戦の終盤から続く米ソ対立の時代、いわゆる冷戦期の真っ只中です。
 第二次世界大戦終盤から始まった、アメリカを筆頭とする資本主義国(西側諸国)と、ソ連を筆頭とする社会主義国(東側諸国)の対立は、二度の世界大戦の記憶から大規模で直接的な戦闘行為を伴うことはありませんでした(直接の戦闘行為がなかったことが「冷たい」戦争と呼ばれる所以です)。
 米ソは世界各国の対立紛争に間接的に介入しつつ、激しい核開発競争を行い、アメリカは1952年に、ソ連は翌1953年に初の水素爆弾実験を成功させます。しかし水爆の威力に人類滅亡の危機を覚えた両国の対立は、その後は宇宙開発競争にシフトしていきました。
 初の人工衛星打ち上げをソ連は1957年10月に、アメリカは1958年1月に行い、初の有人宇宙飛行はソ連が1961年4月に、アメリカは1962年2月に行っています。その「次」たる月面の無人探査機到達は、ソ連が1966年2月、アメリカが1966年6月です。そして有人宇宙船の月面到着はアメリカが1969年7月に達成し、ソ連→ロシアは2024年3月現在、有人宇宙船を一度も月面に送り込めてはいません。
 宇宙開発競争でずっとソ連に後れを取っていたアメリカは、1969年に遂に宇宙開発競争でソ連を一歩リードするのです。
 対するソ連は有人月飛行計画を密かに中止し別の方面に注力したようで、1971年4月、世界初の宇宙ステーションを打ち上げます。しかし、この宇宙ステーションにドッキングした有人宇宙船ソユーズ11号が帰還中に死亡事故を起こした1971年6月頃から、ソ連の宇宙開発は滞るようになります。
 アメリカの宇宙開発“熱”もアポロ11号の月面到着がピークだったようで、1970年4月のアポロ13号が月面着陸に失敗した(こちらの搭乗員は生還しています)のを除いて、その後も何度か有人宇宙船を月面到着させ帰還していますが、アメリカの宇宙開発も下火になっていきます。実際1972年12月のアポロ17号を最後に、アメリカも有人宇宙船を月面に送り込んでいません。
 なんか話が凄い逸れた感がしますが、1972年、冷戦は激しい対立と競争から、まだ東西対立しているとは言え国際的な協力や交流が重視される時代へと変わりつつありました。日本では終戦直後からアメリカに占領されていた沖縄が5月に返還され、断絶していた中国との国交が9月に回復した年だと言えば、国際的に「戦後」が終わりつつあったことはご理解いただけるのではないかと思います。

 そんな時代の最中、1972年の世界チェス選手権でチャンピオンへの挑戦権を得たのは、アメリカのボビー・フィッシャーでした。ソ連のチャンピオンにアメリカ人が挑む。宇宙開発競争が下火になり、きっと「次」の米ソ対決の場を求めていた世界は、この対戦に注目せずにはいられなかったはずです。

チェスとソ連

 今日こんにちではマインドスポーツとされるチェスですが、中世ヨーロッパではサイコロ賭博と同等の「下賤の遊び」と見なされていたようで、11世紀にイタリアのベネディクト会修道士ペトルス・ダミアニが当時のローマ教皇アレクサンデル2世に、チェスを非難する書簡を送っているそうです。
 その思想を受け継いだのかロシア正教会もチェスには否定的でしたが、庶民の間では普通に遊ばれていたらしく、ロシア北西に位置する大ノヴゴロド市では12世紀から15世紀頃のものと見られるチェス駒が発見されているそうです。その後、16世紀頃にチェスのルールが現在の形になったことは前述しましたが、ヨーロッパでは同じ頃から著名なチェスプレイヤーによるチェスに関した著作が数多く出版されています。

 ロシアでは、18世紀の皇帝エカチェリーナ2世の時代から、チェスが盛んに行われていたと言います。しかし書籍に関しては、ロシア国外の書物を入手する僅かなプレイヤーがいた程度で、19世紀に入るまでチェスに関する著作は出版されていなかったそうで、ルールも統一されていなかったようです。
 ロシア語による最初のチェスの書籍は、イワン・アレクサンドロヴィチ・ブトリモフ(Иван Александрович Бутримов)が1821年に出版したものだそうで、続いて1824年にアレクサンダー・ドミトリエヴィチ・ペトロフ(Александр Дмитриевич Петро́в)が出版した書籍と共に、ロシアのチェスプレイヤーにとって最初のチェスの統一マニュアルになりました。

 20世紀に入ると、各国で別々に設立されていたチェス連盟から国際組織の設立の動きが出始め、ロシアも1914年4月に設立に向けて音頭を取ろうとしたようですが、このときは国際組織の設立には至りませんでした。直後の同年7月には第一次世界大戦が勃発しているので、時期が悪かったのかも知れませんね。
 第一次大戦の最中、1917年に戦争の負担に耐え兼ねたことが発端で起きた2月革命と10月革命を経て、1922年ソビエト連邦が成立すると、政府によりチェスのプレイが推奨されるようになります。
 一方で、チェスの国際組織設立はフランスのチェス連盟が中心となっていましたが、ここに当時ロシアチャンプだったアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・アレヒンが助力し、1924年7月、パリに国際チェス連盟(FIDE)が発足しました。同年、アレヒンは国外遠征の利便性のためフランス国籍を申請していますが、ソ連のスパイと疑われてなかなか認可が下りず、フランスの法律改正後の1927年10月まで待たねばなりませんでした。認可が下りた当時のアヒレンは世界チェス選手権でチャンピオンのホセ・ラウル・カパブランカ(キューバ)に挑戦中で、フランス国籍を取得した24日後に新チャンピオンの座を獲得しています。
 このときソ連は国際チェス連盟には加盟しませんでしたが、連盟設立と同日にレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)のウリツキー広場(現在の宮殿広場)に巨大なチェス盤を描き、当時のソ連の陸軍兵士と海軍兵士が駒を務める「人間チェス」のパフォーマンスを行なったそうです。
 しかし1946年、当時世界チャンプに座にいたアヒレンが急死し空位となったのを機に、ソ連も国際チェス連盟に加盟。5人のトッププレイヤーが競った結果、ソ連のミハイル・ボトヴィニクが王座を射止め、以来、ソ連のチェスプレイヤーが世界チャンプの座を独占し続けて「世紀の試合」が行われる1972年を迎えました。

チェスとアメリカ合衆国

 アメリカ大陸にチェスが伝わったのは、15世紀のスペイン植民時代で、当時スペイン人入植者が先住民族に教えたと言う記録が残っているそうです。しかしその後のチェスに関する記録はほとんどなく、今日まで残る記録としては1733年のものが最初で、その中にはベンジャミン・フランクリンと彼の「知人」について書かれているそうですが、彼らがチェスの遊び方をどうやって学んだのかは分かっていません。フランクリンは幼少期からチェスに親しんでおり、チェスに関する著書の中で「スペイン人がチェスを広めた」と記述しているそうですが、その根拠も不明です。

 そんなアメリカでチェスの流行を招いたのは、19世紀前半にアメリカ各地を巡業した「The Turk(トルコ人)」と呼ばれた自動人形でした。
 「The Turk」はハンガリーの発明家ヴォルフガング・フォン・ケンペレンがオーストリアの「女帝」マリア・テレジアのため1770年に制作した機械で、人間相手のチェスに勝利したり、「ナイト・ツアー」と呼ばれるチェスを使った数学パズルを解いたりできたそうです。
 「The Turk」を見た人々の多くは「中に人間が入ってるんじゃないか?」と疑いましたが、誰もそれを証明することが出来ませんでした。見える限りの中身から構造を推測した者も少なからずいましたが、それらの推測は全く正しくなかったことが後世、明らかになります。
 「The Turk」はヨーロッパ各地を巡業し、ケンペレンが1804年に死去した後、1808年にバイエルンの音楽家ヨハン・ネポムク・メルツェルが買い取りヨーロッパを巡業しますが、諸事情で借金を負ったメルツェルは返済のためアメリカ巡業を思い立ち、1826年にニューヨークでエキシビジョンを開催しました。メルツェルのアメリカ巡業は大成功を治め、以降、カナダやキューバにまで足を延ばしたそうですが、1838年にベネズエラに停泊中の船上で亡くなったそうです。残された「The Turk」は1840年、フィラデルフィアのピール博物館に寄贈され、時々動かされることもあったそうですが、1854年にフィラデルフィア国立劇場の火事が博物館に及び焼失したそうです。
 ちなみに「The Turk」の正体は、多くの人々が想像した通り、優れたチェスプレイヤーが中に入って操作するものでしたが、その正確な構造は、かつての持ち主の息子や中に入った操作者が明らかにするまで知られることはありませんでした。

 それでも「The Turk」がアメリカにおけるチェスの普及に貢献したことは間違いないでしょう。この頃からアメリカ各地でチェスの愛好会が設立され、1840年代にはチェスに関する出版物が爆発的に増加し、1845年には最初の全米選手権が開催されたとか。
 しかし当時はロシアと同じく各地で異なるルールでプレイされていたらしく、全米規模のチェス大会を開催するのは困難だったみたいで、全米チャンピオンを認定する組織も複数あったようです。ボクシングかよ!
 1857年にはアメリカ・チェス協会(American Chess Association)が設立され、同年10月に第1回アメリカ・チェス大会が開催されたそうです(前述の全米選手権との違いは不明です)。更に1871年と1874年には同名の別組織が設立されているそうで。
 西部チェス協会(Western Chess Association)の後継となったアメリカ・チェス連盟(American Chess Federation、前述の協会とは別組織)が1939年、全米チェス連盟(National Chess Federation)と合併して現在のアメリカ合衆国チェス連盟(United States Chess Federation、US Chess)が誕生し、ようやく全米を統括する大会組織ができました。なお前身となった2つのチェス連盟の詳細については、遡ることができませんでした。あるいはそれだけチェスが盛んになり、各地でチェスの大会組織が乱立していたんでしょうね。
 しかし国際チェス連盟の設立は1924年、全米を統括するチェス連盟の設立はそこから15年も遅れています。そもそもヨーロッパでは16世紀頃にはチャンピオン決定戦をやろうと言うほど盛んだったのに、アメリカでの流行は19世紀に入ってから。世界のトッププレイヤーがトップを陥落してからアメリカに移住した例があるように、アメリカでは世界レベルのチェスプレイヤーがあまり育っていなかった(ので世界チャンプから陥落してもトッププレイヤーの座を維持できた)、と言うのが実情でしょう。

 そんなアメリカでしたが、全米規模のチェス連盟が設立されたおかげか、やがて天才チェスプレイヤーが現れます。1958年、チェスの世界トッププレイヤーに与えられる「グランド・マスター」の称号を僅か15歳で獲得したボビー・フィッシャーです。
 フィッシャーは他人とは大きく異なる思考の持ち主でした。チェスの試合においては概ね良い方面に発揮され、チェスでは強力な駒であるクイーンやナイトを捨てて勝利すると言う難易度の高いプレイングを見せ、「天才」と謳われました。一方でその他の面においては、自身がユダヤ人でありながら反ユダヤ主義者であったり、「世紀の試合」が行われる1972年以前に2度、チェスから引退して復帰したり、自身の提示した条件が受け入れられないとタイトルを賭けた試合でも平然と放棄したり、周囲から出場を止められた試合にも出場したりするため「奇人」「変わり者」とも呼ばれました。
 そもそも彼がチェスを始めたキッカケが「12歳の姉が6歳の彼をおとなしくさせるために1ドルのチェスセットを買い与えて基本を教えた」からだそうで。12歳と言えば小学6年生から中学1年生相当、6歳は幼稚園の年長組から小学1年生相当なので、中1姉が手を焼く小1弟と考えれば、チェスをプレイしていないフィッシャーが相当な厄介者だっただろうことは想像に難くありません。母親は、チェス以外に興味を示さない非社交的な息子を案じて、精神科へ連れて行ったこともあったそうです。あるいは実際に何某かの精神障害を持っていたのかも知れませんが、現在それを知る術はありません。
 フィッシャーは1971年、世界選手権予選を勝ち抜きチャンピオンへの挑戦権を獲得しますが、対チャンピオン戦においてもあれこれ条件を付け、紆余曲折を経て1972年7月にようやく試合が始まったそうです。

チャンピオンたちのその後

 こうして行われた第13代世界チャンピオンのボリス・スパスキーと挑戦者ボビー・フィッシャーの「世紀の試合」は、結果から言えば挑戦者フィッシャーが勝利し、アメリカから初の世界チャンピオンが誕生しました。チェスの世界ではずっとソ連に、東側諸国に独占され続けていた王座を、西側諸国のアメリカが奪ったのです。東西対立していた当時、西側諸国にとっては悲願とも言える王座だっただろうだけに、東側諸国の落胆と西側諸国の歓喜は大きかったでしょう。

 1975年、フィッシャーはソ連の挑戦者との試合にもあれこれと条件付けしますが、その条件が受け入れられなかったため試合会場に現れず王座を放棄し、以降は事実上の引退状態となります。
 1992年、いろいろあってフィッシャーとスパスキーとの再戦が実現しますが、試合会場となったユーゴスラビア(当時、現在のセルビア共和国)は国連による経済制裁中で、フィッシャーはアメリカ政府の警告を無視し試合したことで、アメリカ国籍を剥奪され帰国できなくなり、再び表舞台から姿を消します。
 その後のフィッシャーは世界各地を転々としたようですが、2000年頃にはフィリピンと日本を主な拠点としていたようで、2004年、日本からフィリピンに出国しようとし成田空港で身柄を拘束されます。パスポートの有効期限が切れ、アメリカ国籍を剥奪されパスポートの再申請ができなかったフィッシャーは、不法滞在者となっていた訳です。しかし彼の才能を惜しんだ多くのチェスプレイヤー達の尽力により、2005年、アイスランドの市民権を得て移住し、2008年に肝臓病で亡くなったそうです。

 一方のスパスキーは、1975年にフランスへ亡命し、1992年にフィッシャーと再戦しますが、2006年と2010年に脳卒中となり、運動能力に支障をきたすようになったそうです。2012年にはロシアへ戻り、2024年3月現在も存命だそうですが、高齢かつ脳卒中の影響もあってか、表舞台へ出る機会は少ないようです。
 なお、毎年モスクワで開催されているチェス大会の、2016年開会式ではスピーチしており、そのチェス大会に冠されている亡きチェスプレイヤーとの思い出を「元気に」語ったそうです。

 つまり、元気の秘訣はマインドスポーツ!(そう言うことじゃない)


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