【雑感】法制審議会家族法制部会第29回会議(養育費・親子交流)の議事録を読んで

本稿のねらい


本稿は題名のとおり、法制審議会家族法制部会第29回会議本会議)の議事録議事録)を読んだ単なる雑感であり、ねらいもなにもない。

なお、基本的には、過去投稿した要綱案の取りまとめたたき台(1)に関する2つの記事に関連するものである。

本会議を経て要綱案の取りまとめに向けたたたき台(1)につながっているわけであり、是非過去の2つの記事も参照されたい。


養育費に関する議論


議題は、部会資料29「第1 養育費に関する規律の見直し」にあるとおり、次の2点であった。

  1. 父母が養育費の分担につき定めず協議離婚をした場合における「法定養育費」導入の是非等

  2. 養育費等に係る民事執行手続の「一回化」

特に熱心に議論されていたのは上記1. の「法定養育費」に関してである。

この「法定養育費」に関しては、大きく、次の4点について議論されていた。

① 「法定養育費」の制度を導入することの可否・正当性
② 「法定養育費」の金額/債務者の過大な負担
③ 「法定養育費」の請求を認める要件
④ 「法定養育費」の請求の主体

以下では、この4つの点について、議論の様子と筆者の雑感を述べていくことにする。

なお、国や自治体等の公的な機関による立替制度の必要性も多く主張されていた。その必要性は頷けるが、法定養育費が制度化、すなわち実体法上の権利であることが民法上明確化されれば、基本的には予算さえとれれば可能となるため、国や自治体が立替払いを行い、求償していくというフローが回り始めることになると思われる。(運用等はこども家庭庁等が持ち帰り議論することになる)

(1) 法定養育費制度導入の可否・正当性

この点、父母間で子の養育費の分担に関する定めがない場面に関して(※)、法定養育費の制度の必要性がある/高いことはあまり異論・反対がなかったところである。

※ 養育費を支払わなくてよいとする父母間の定めがある場合でも「養育費の分担に関する定め」があることになるのかどうかも少し議論されていたが(議事録29頁〔池田委員発言〕)、父母間において諸般の事情もあろうこと、また法定養育費の性質にもよるが、仮に父母間で、一方が他方に対して養育費を支払わなくてよいと定めたとしても、子は父母に対して扶養請求権を持っていることから(民法第877条第1項)、一律「養育費の分担に関する定め」がないこととして扱う必要はない。

他方で、その位置付け・許容性・正当性については、一定の議論が行われた。

┃ 武田委員(議事録3頁)

法定養育費といった制度が、取決めが困難なときの救済措置としての位置づけで検討されることに賛成

┃ 原田委員(議事録16頁)

理論的にも、債務者に支払わせるのに法定というのはどうなのかという議論がありましたし、私もそうかなと思います。

(法定利率についてはどう考えているのだろう…)

どのあたりが理論的によくわからないのだろうか。
この後にも触れるが、「法定養育費」の制度は、父母間において子の監護費用(養育費)の定めをしない場合のデフォルトルール(法定利率のようなもの)であると考えれば、十分、理論的にも説明可能と思われる。

なお、デフォルトルールであると考えるときに、たしかによくわからなくなるのは、父母間での協議や家庭裁判所の決定までの間の「応急的な制度」である点をどう説明するかである。通常のデフォルトルールには、そういう応急的な意味合いはなく、単に当事者間で定めがない場合に、その間隙を埋めるという意味合いしかない。法定養育費制度にそこまでの意味をどのように持たせるのかは難しいところだが、その意味を持たせるのであれば、時限を区切ることにより間接的に表現するしかないように思われる。

┃ 沖野委員(議事録21-22頁)

父母が協議をするならば、まずそれによるのだけれども、それがないときの言わばデフォルトルールとして、今回の法定養育費という考え方が出されているというふうに考えられます。そのようなデフォルトについても、協議がされるまでの間の暫定的なものだという考え方と、より一般的な合意がないときのデフォルトルール、あるいは任意規定であるという考え方と、両論がありますけれども、養育費用についての分担がこどもの養育を支えるという非常に重要な意義を持っているということを考えますと、協議ができるのにしないということに対して、空白をもたらすという状態は子の不利益となりますので、そのような不利益を子に甘受させることは正当化できない、あるいは望ましくないと考えます。ですから、暫定的で一定期間内にやらなければ、もうそこまでということになりますと、結局また空白が生じるということになりますので望ましくないと考えられます。(中略)

私自身は協議がないあるいはそれが調わないときの審判がないときのデフォルトルールとして、この法定養育費についての考え方を打ち出すべきではないかと思っております

沖野委員としては、上記のように、法定養育費について応急的な制度である点を強調し時限を区切るということをすれば、空白が生じ結果として子の不利益となることから、一般的なデフォルトルールとし(まさに法定利率のような考え方)、時限を区切らないことが適当ではないかという意見のようである。

また、このようにデフォルトルール構成とすることにより、法定養育費制度のネックとなっている債務者の手続保障の観点はクリアできるとのことである。

本来協議で決めていくべきものだ、また決められるものだということからすれば、それと異なることをやりたいということであれば協議をするとか、相手方が応じないというようなことがあるのであれば審判を申し立てるということをすればいいということですので、そうだとすると、債務者の関与がないのに法定養育費というのを認めるものだということ自体が、必ずしも妥当しないのではないかと考えております。

(2) 法定養育費の金額

中間試案段階では、A. 最低限度の額を法令で定める考え方とB. 標準的な父母の生活実態を参考とする金額を法令で定めるものとする考え方があるとされていた(部会資料29〔4頁〕)。

A. 最低限度の額とすることに賛同する意見

┃ 井上委員(議事録6頁)

最低限度額を定めることによって確実な履行確保を図る一方で、金額の上乗せに関しては当事者間の協議に委ねるのが現実的

┃ 今津幹事(議事録6頁)

本来父母の協議等で決めるものが、できない場合の補充的な、あるいは最低限の保障という理解に賛同

┃ 杉山幹事(議事録14頁)

低額で一定の額を定めておくことが、債務者の手続保障を考えると、望ましいのではと思います。ただ、一方で額が低すぎると、債務者が変更の話合いに応じない可能性もある点は、少し悩ましいところではありますが、ただ、過剰な債務負担と過剰な執行に対する懸念を考えるのであれば、低額で一定の額で設定するのでやむを得ないと思っております。

B. 標準的な父母の生活実態を参考とする金額とすることに賛同する意見

┃ 沖野委員(議事録23頁)

最低額というのが一体何かというのがよく分からないところもありますけれども、標準額の最低ラインということなのかもしれません。確かに協議や審判によって具体化していないから、支えが弱いということを考慮するならば、最低限度とすることも考えられるかもしれませんけれども、合意に対する任意規定であると考えたときには、通常一般的にはどのような額になるだろうかということを考えて規律内容を決めるという、恐らく最も一般的な契約の任意規定についての考え方からすると、標準額を基準とするということも考えられるのではないかと思われますし、また、当事者にとっての指針となるということからしましても、ある程度の類型化というのは必要かもしれませんけれども、標準額というのは十分考えられるところではないかと思います。(中略)

こどもの人数は、一律それで倍数ということにはらないように思われますけれども、最低限度ですとか標準の考え方次第ではありますけれども、子の数を考慮した基準を立てるのはむしろ当然ではないかと思っております。

沖野委員の考え方は、契約理論におけるデフォルトルールを養育費の定めに持ち込むものであり、一見座りがいいのだが、やはり金額に関しては破綻するように思われる。

つまり、法定利率のように、一定の経済状況に置かれた一般人であれば、誰が運用しても法定利率程度の運用が期待できるものであれば別だが、養育費に関しては、その論拠が子の父母に対する扶養請求権にあり、同じ状況に置かれた一般人であれば誰でもクリア(履行)できるものではない。

子の父母に対する扶養請求権の中身として、「生活保持義務」(繰り返すが筆者はこの内容について極めて懐疑的である)が問題となっている以上、単純に契約理論を援用することはできないと思われる。

もしこの点を乗り越えようと思えば、次の棚村委員の発言のように、一定のパラダイムシフトが必要である。

┃ 棚村委員(議事録32頁)

公的扶助とか、それとの関係で、現在確かに申立てをしても、監護費用とか婚姻費用ということですと、収入とか支払能力がない場合には義務者には命じられないということは起こるのですけれども、ただ、先ほど言った整理で、合意ができて家裁での通常の手続で決まるものと、そうではなくて合意がないために、早急に一律に暫定的応急的にこどもの保護のために新たな制度を作るということになると、その辺りもこれまでの従来の考え方をある程度改めなければいけないような説明をできるのではないかという感じは少し持っています。

つまり、子を養育していない父母の一方に対し、自身がどれだけ困窮を極めていたとしても、子の利益・子どもの保護のためには、協議が整うか家庭裁判所の決定があるまでは身を削ることを強いることを憲法的にも正当化できなければならない。(公的扶助などは差押禁止のはずだし)

┃ 落合委員(議事録32頁)

金額をどのぐらいにしておくかということについて、やはりここで金額が示されると、それがこれからの養育費についての交渉のときの目安になってしまうのだろうと思うのです。それで、これをあまり低く設定しておくと、合意しなければこの金額にどうせ落ち着くのだからというように使われるようになるのではないかと考えます。ですから、あまり低くするのではなくて、標準かそれより少し低いか、よく分からないですけれども、標準に近い金額にしないと、これからの交渉に大きい影響を及ぼしてしまうのではないかと危惧しております。

「この金額にどうせ落ち着く」ことをポジティブに考えるかネガティブに考えるかは立場によると思われる。

これは、結局、法定の金額をあるべき金額に修正するためのコストを父母のどちらが負うべきかの問題である。

C. その他意見

┃ 武田委員(議事録3頁)

父母のいずれかに負担能力があるか、このような観点にとどまらず、義務者が困窮している場合に関しましても配慮が必要なケースも存在するということも念頭に検討を頂きたい

(「最低限度」の金額次第だが、最低限度であれば負担可能なのでは?)

┃ 大石委員(議事録4-5頁)

法定養育費の金額についてなのですけれども、経済学者の観点としては、やはり物価スライドを行うことが必要(中略)

子育ての費用の一番大きな部分は教育費です。洋服やおもちゃは兄弟の間で融通し合ったりおさがりを使うことができるかもしれませんけれども、教育費についてはそういったことはできません。つまり、子育て費用の一番大きな部分については規模の経済が働きません。したがって、ので、法定養育費はこども1人当たりの金額として設定すべき

政省令は物価を反映させてスライド可能である。
人が1人増えても生活費は単純に倍数にならないのと同様(よく√人数倍とするのが適当といわれる)、こども1人ずつにつき生活費はその倍数にはならない以上、1人あたりの金額ではなく、こどもの人数ごとの金額となるのが正確なはずである。(経済学者とは…)

┃ 赤石委員(議事録11頁)

法定養育費の額については、最低限であっても有り難いと思ってはおりますけれども、その最低限が幾らなのかというのは、ささやかれた以外に額が分からないわけなのですけれども、とはいえ、やはりこれから未来に育つこどもたちのためにこの法制審議会ができることとして、本当にこどもの未来を明るくするためには、やはりきちんとした額が決められるということが私たちの責任なのだろうと思っております。ですので、できれば親の収入に応じた額が決まることがベストであろう

(なぜ収入のみに焦点を当てるのか不明だが、一理はあるか?)

┃ 水野委員(議事録14頁)

定額を保障した上で、その後、当事者の資力に合わせて修正する手続がとられていいと思っております。また、それが負担にならないように設計する必要がある

(法定養育費は応急的な制度であり、その金額を修正する手続を挟むことが妥当か?)

┃ 柿本委員(議事録16頁)

金額につきましては、最低限度額はもちろん必要とは思いますけれども、収入に見合った金額、標準的な父母の生活実態を参考とする金額、つまり、日々の食料や衣料を心配することのない生活が送れるような金額が望ましい

(何を言っているのかまったくわからないが本文ママ)

┃ 小粥委員(議事録18頁)

今まで、できるだけ低い額にする、あるいは標準的な額にするというような御意見が出ていたかと思いますけれども、契約法の理論的な研究によれば、罰則的任意規定という考え方がございまして、つまり、乱暴に言いますと、わざと当事者に都合が悪いような任意規定を用意しておいて、それで、当事者が合意しなければ都合が悪いことになると仕組むことを企図するのです。これによると、むしろ逆に高い額を最初にデフォルトルールにしておくというようなことになるかもと思います。

合意を促す意味では一理あるように思われるが、養育費を受領する側の父母の一方としては、合意をすれば受領できる金額が少なくなることが目に見えているため、むしろ合意を行うインセンティブがなくなるように思われる。

それでも、養育費を受領する父母の一方をあらかじめ有意な立場に置くことで交渉力を高めるという間接的な意味は残るか?

また、そもそも過度に高額な養育費はそもそも履行されないことから、履行可能な金額にまで交渉により調整されることを狙ったものだろうか。

いずれにせよ、過度に高額な養育費を請求される側の父母の他方にとっては、協議離婚に応じないことでしか対抗できず、少なくとも父母間においてフェアなルールとは思われない。

(3) 法定養育費の請求を認める要件

┃ 沖野委員(議事録22頁)

協議がないときの、あるいは合意がないときのデフォルトルールと考えるならば、これについての特段の過重要件は必要ないと考えております。
(注2)のような要件が出されていますけれども、要件をプラスアルファとして、こういうときにだけ補完が働くとする必要はないと考えております。

(法定養育費制度をデフォルトルールと捉えれば、過重要件は不要とするのが論理一貫する)

しかし、仮に、養育費を支払う側の父母の一方は、適正な金額を支払う旨を提案しているにもかかわらず、それを受け入れられず(法定の金額よりも少ない金額が適正な金額の場合であろう)、そのため家庭裁判所の決定が必要となるようなケースにも法定養育費の請求を認めてよいのか、という問題はあるように思われる。

(4) 法定養育費の請求の主体

基本的に法定養育費の請求の主体としてあり得るのは2種類であり、A. (主に)子を監護する父母の一方、又は B. (主に)子を監護する父母の一方又は子である。

A. (主に)子を監護する父母の一方を請求主体すべきという意見

┃ 今津幹事(議事録6頁)

権利の主体としては、監護費用の分担であるという趣旨からしますと、こども自身ではなくて父母の権利と構成するのが自然ではないかと思われますし、行使の際の便宜からいっても、恐らく父母に権利を認めた方がよろしいのではないか

┃ 原田委員(議事録17頁)

請求主体の問題としては、父母ということで、法定養育費は18歳までだろうと思いますので、父母でいいのだろうと思います

(法定代理+利益相反を嫌ったためか)

┃ 沖野委員(※大村部会長まとめ議事録25頁)

父母の養育費の分担についての任意規定であるということならば、当事者は父母だということになるのではないか

(沖野委員は明言していないが、趣旨としてはこのとおりのはず)

B. 子を(子も)請求主体とすべきという意見

┃ 池田委員(議事録28頁)

こどもを法定養育費請求権の行使主体から排除して、こどもは通常の扶養料請求ができるだけということにするのは、誰のための法定養育費なのかという疑問も出てきかねないところだと思います。確かにこどもを主体とする場合の手続の煩雑さということを考えますと、こどものみを行使主体とするのは適当ではないと思いますので、例えば、主として養育する者又は子というような選択的な行使主体という規律もあり得るのかなと思います。

C. いずれか不明

┃ 小粥委員(議事録19頁)

養育費といわれるものには現在、大まかにいうと二つの種類があると思います。一つは監護費用の分担というもので、それは父母の一方から他方に対する権利ですね。他方でもう一つは、扶養義務の一つとして、子の親に対する扶養の請求権というものがあると思っております。
仮に監護費用の分担という枠組みの中で養育費を考えていくとなりますと、例えば、先ほど北村幹事の御説明にありましたとおり、監護者が誰なのかということをかなり幅広に柔軟に、事実上監護している者が誰かという観点で決めていくことはできるのか、できるとして、それが子の養育という観点、あるいはひとり親家庭の貧困対策という観点から説明できるものなのかという疑問が直ちに生じてくるように思うのです。 他方の親なり監護者のポケットに入るお金ということになりますと、子の養育に直接使われるかどうか、少なくとも法的な保障はないわけです。それでは子の親に対する請求権というものを考えるとすると、それは理論上は筋が通ると私自身は思っておりますけれども、他方で、先ほど水野委員がおっしゃったような特別代理人の問題が直ちに思い浮かぶところで、実際に制度を仕組むとなると、なかなか難しいところがあると思っております。
一般先取特権ということについても肯定的な意見が多かったと思うのですけれども、しかし一般先取特権を監護費用という枠組みで作った場合には、債権者は父母の一方ということになるわけで、そうすると、父母の一方に入るお金に先取特権が付くというのは、養育費の保障という観点からすると非常に違和感が残ります。

(結局どっち…?)

親子交流に関する議論


親子交流に関しては、主に次の2点について議論されていた(部会資料29〔22頁〕)。

  1. 父母の婚姻中の親子交流の規律の見直し

  2. 親子交流に関する裁判手続の見直し

この上記1. は従前、判例や解釈により民法第766条の類推適用で対応してきた婚姻中かつ別居中の父母の一方と子の面会交流(親子交流)に関し、明文化を試みるという提案である。

また、上記2. は親子交流に関する調停・審判の手続において、それらの成立前の段階で事実調査のために試行的な親子交流を促すことなどを提案するものである。

本会議ではいずれの点についても熱心に議論されていた印象であり、以下では、この2つの点について、議論の様子と筆者の雑感を述べていくことにする。

なお、特に上記2. の試行的親子交流の要件として部会資料29・22頁で示されていた「家庭裁判所が、継続的な親子交流の実施の可否やその方法について調査するため必要があると認めるときは、親子交流の実施が当該子の心身に害悪を及ぼすおそれがない限り」という提案について、曲解?し、原則実施の考え方でありおかしいという趣旨の反対意見も多かったが、前段に、「家庭裁判所が必要と認めるとき」とあり、原則実施とは到底読めないと思われる。(筆者は、父母の婚姻関係の有無にかかわらず、父母と子が交流できる環境が必要と思っており、原則実施が望ましいと考えている)

(1) 父母の婚姻中の親子交流の規律の見直し

A. 民法第766条類推適用の実務を明文化することに賛成する意見

┃ 今津幹事(議事録35頁)

現状でも類推適用という形で実質的には認められているものを明文化するということですので、現状と特に乖離があるものではありませんし、明文化した方が、今後の運用の明確化という点では望ましいと思っております。

┃ 菅原委員(議事録37頁)

今まで別居ということについて明文化されていなかったのですが、別居も長引くこともありますので、こどもの立場からしますと、その長引く期間に乳児などの場合親のことを忘れてしまったり、親子関係が難しくなったりすることもありますので、子の利益を優先して考慮していくということが書き込まれることに賛成いたします。

┃ 池田委員(議事録40頁)

第2の1についてですが、これ自体については賛成です。もう実務でこのようなことが行われておりまして、類推適用という判例もございますので、明文化することについて賛成です。ただ、多分明示的に除外される趣旨ではないと思うのですが、別居中、もう一つ問題になるのは監護者指定というのがございまして、監護者指定についても同じ条文の中で規律するということがよろしいのではないかと思います。

┃ 石綿委員(議事録41頁)

1については基本的に賛成で、正に直前に池田委員がおっしゃったとおり、別居というタイミングで親子の形が大きく変わりますので、別居時において可能であれば、親子交流のことだけではなく監護者指定をする等、こどもの利益のために、その後の監護についての定めをするという規定も置けると、より望ましいのではないかと思いました。

┃ 棚村委員(議事録41頁)

婚姻中、別居中の親子交流についての規定については、かなり紛争が多く起こっていますので、類推適用とかということで実務は一定程度きちんとやっているものの、明文の規定を置くということについては賛成です。

┃ 武田委員(議事録42頁)

1の民法第766条の類推適用、これを明文化しようという提案に関してでございます。基本的には(1)、(2)の方向で取りまとめに向けて検討を進めていただきたいと考えております。

B. 民法第766条類推適用の実務を明文化することに反対の意見

┃ 戒能委員(議事録38頁)

明文化するということの影響といいましょうか、それも考慮をすべきだと思います。今まで実務上行われてきたことなのだから、明文化して別に問題はないというお考えが多いかもしれませんが、影響の大きさということも一つ考えておくべきだという意見をまず、申し上げたいと思っております。
(中略)
別居時というのはDVや児童虐待という、そういう暴力や安全という観点から見ると一番危険性が高いところでありますし、それによって与えられるこどもへの影響の大きさも考えなければならないことだと思うのです。そうすると、明文化されることによって、安全とか安心とかそういうものが危機に及ぶということもあり得るということを考えなければいけない。
どういうことかというと、親子交流をしない限り別居できないのではないかという誤解が生じるおそれもあり、そういう不安を持つ方も出てくるのではないかと、だから、明文化というのはそういう作用ももたらすのだということを考えておかなければならないということを、まず第1点として申し上げたいと思います。

(この人はどうやら法学者らしいが…果たして…ただの空想家では…支離滅裂である)

┃ 原田委員(議事録39頁)

私も民法第766条の類推適用で問題ないと思っています。それは新たに明文化するという場合には、民法第766条改正のときに原則面会交流実施論が独り歩きしたことに対する考慮はきちんとすべきで、新たに作るのであれば、離婚後も別居後も含めて、きちんと子の福祉に関する原則を入れるべきではないかと思います。その内容としては、試行面会だけではなくて、一般的な面会交流について、今、判断基準とされているニュートラル・フラットの三つのカテゴリーを明記する必要があるのではないかと思います

まず、婚姻中にもかかわらず子を連れて別居しておきながら(単純に考えて監護権侵害である)、ニュートラルとかフラットというのはどういうことだろうか。

面会交流ができていない理由は、元々親子関係がよくないというのが一番大きかったわけで、面会交流の取決めをした場合の継続率と裁判所が決めた場合の継続率では、はるかに後者の方が劣っているというような結果もあって、やはりお互いが信頼をして、合意でするというふうにならないと、強制をされたり不安があるとかいうような場合では続かないというのが調査結果でも出ております

(裁判所の決定がありながら面会交流をさせない親を擁護する気にはなれない)

┃ 赤石委員(議事録46頁)

第2の1についてですが、原田委員、戒能委員の御懸念に賛成します。
やはり民法第766条が改正された後の裁判所の原則面会交流実施の動きを考えますと、どういう影響があるのかというのは非常に懸念されるところです。

(はいはい)

第13回で細矢委員からDVのアセスメントについての方針が示されました。私はその方針というのは非常に、おおむね素晴らしいなと思ったわけなのですけれども、ヒアリングで、例えば1月のじゅんこさんという方のヒアリングを思い出していただいても、細矢委員がおっしゃっているようなアセスメントが行われているとは思えない。
面会交流は原則実施のままになっていて、身体的な明らかな暴力の証拠も提出していても、面会交流はさせられているという証言だったかと思います。このようになっていることを考えますと、事実調査のための面会交流ですとか、こういった親子交流について当然、懸念が生じるということになります。

個別の案件については一方当事者のみの主張でありなんとも言いがたいが、仮に父母の一方から父母の他方に対して暴力等があったとして、それをもって子との関係で交流をさせないことが常に適切とは限るまい。

当然、子に対しても同様に暴力等があれば、面会交流を行うことが子に悪影響しか与えないことは想像に難くないが、そういう証拠が出ていなかっただけであろう。

(2) 親子交流に関する裁判手続の見直し

枠組みとしては概ね賛成の意見が多かったものの、一部、いわゆる親子交流原則実施論を気にする意見があり、意味不明ではあるが、一定の数の委員・幹事が懸念をしていた。

そのため、要綱案の取りまとめに向けたたたき台(1)では、次のように修文された。

家庭裁判所は、子の監護に関する処分の審判事件(子の監護に要する費 6用の分担に関する処分の審判事件を除く。)において、子の心身の状態に照らして相当でないと認める事情がない場合であって、事実の調査のため必要があると認めるときは、当事者に対し、父又は母と子との交流の試行的実施を促すことができるものとする。

たたき台(1)5−6頁

A. 部会資料29「第2の2」のうち特に(1)の記載に反対する意見

┃ 窪田委員(議事録35頁)

表現ぶりについて少し検討していただけないかというのを、2(1)について、少し感じております。(中略)
私自身は、試行の必要性、調査のための必要があるという場合において、これを実施する、しかし子の心身に害悪を及ぼすおそれがある場合には当然その対象にはならないという全体の枠組みは十分に理解しているつもりなのですが、この表現は、家裁実務では面会交流が原則実施となっていたのではないかということが言われたときに、あるいはそういうふうな学説もあったと思いますが、親子交流、面会交流はこどもの心身に害悪を及ぼすおそれがない限り実施すべきだというような文脈で使われたことが多かったように思います。(中略)
(1)の表現ぶりについては何か工夫していただかないと、親子交流の実施が当該子の心身に害悪を及ぼすおそれがない限りやった方がいいのだという、そうしたニュアンスを与えるようにも少し感じましたので、工夫していただけたらという意見でございます。

(一般に誤解される表現だから表現ぶりのみを改めろということだろうか?それとも…)

┃ 赤石委員(議事録36頁)

結局として、双方が納得していなくても、この事実調査の親子交流をするというような書きぶりになっているので、暫定的な面会交流命令ではないとしても結局、強制的な試行面会になっているように見受けられまして、余り実質的に変わっていないなという印象を受けました。
ですので、このままではやはり、パブリック・コメントにもいろいろありましたが、調停というのは本当にお互いの納得を得られるところで少しずつ進んでいくのだと思うのですが、ここでこの事実調査のための別居親との子の交流を試行的に実施する必要性というのが本当にどこにあるのかも、調停の進行の中できちんと必要なときにやればいいのであって、ここにこれを書き込む必要性を余り感じられない、これはパブリック・コメントを読んでも分かるところなのですが、そのように思っております。

(やっぱりこの人は親、特に子を手中に置いている母親のことしか考えていないのだろう…)

┃ 原田委員(議事録40頁)

当該こどもの心身に害悪を及ぼすおそれがない限りというのは、やはり表現上、問題ではないかと思います。害悪の程度とか、過去の害悪がどのような影響を与えるかということなど、未知数なところもありますので、やはり子の福祉にかなう場合というような場合に試行面接を促すというような表現がいいのではないかと思います。

(子の福祉にかなうか見極めるために必要なときに試行すると書いてあるのが見えないのか?)

┃ 池田委員(議事録40頁)

子の心身に害悪を及ぼすおそれがない限りという書き方をすると、原則実施という形になるのではないかという懸念が強くあります。どういった文言がいいかということなのですが、試行的な段階ですので、正にこれから判断をしていくというところで、試行的面会が子の利益に合致するかどうかと言い切れない中でやらなければいけないという難しさはあるものの、やはり「子の利益の観点から相当であるとき」とするなど、害悪でなければや

(どいつもこいつも…)

┃ 石綿委員(議事録41頁)

面会交流は子の利益にかなう場合に実施するわけですが、試行的面会交流は、面会交流が子の利益にかなうかどうかを判断するためにということであるので、同じ子の利益という言葉を使ったとしても、レベルが違うというか、面会交流が認められないかもしれない場合にも試行的面会交流は行われることがあるのだというようなことが伝わるような文言を用いるなど、少し違いが分かるような形で整理ができるとよいのではないかと思いました。

(及第点)

┃ 棚村委員(議事録41−42頁)

2のところで、特に(1)のところで、窪田委員や皆さんがおっしゃるように、子の心身に害悪を及ぼすおそれがない限りというのが、少し誤解を招いたり、表現として適切でないのではないかという点についても賛成をします。先ほどから言うように、子の利益とかという抽象的なのもいいかもしれませんし、それから、去年の12月10日に改正をされた、こどもの人格を尊重し、年齢や発達の状況に配慮してとか、そういうような形でこどもを大切にするというメッセージを込められるような条文の表現にした方が、誤解を招かないのかなという感じを持っております。

(呆)

B. 部会資料29「第2の2」に基本的に賛成する意見

┃ 今津幹事(議事録35頁)

中間試案の段階では、審判前の保全処分を使う方法と、それから、既存の制度にはない新しいものを作るという2通りの方向性が示されていたかと思うのですけれども、それとの対比でいいますと、今回の資料で御提案いただいたような方向性の方が、むしろ受け入れやすいのかなと。つまり、事実の調査という既存の制度の枠の中で取組をしていくという方向性が受け入れられやすいのかなと思っております。

┃ 水野委員(議事録34頁)

家庭裁判所が事実の調査のために、子の心身に害悪を及ぼすおそれがない限りという要件が付された上で、親子交流の試行的実施を促すということが提示されていて、文言上は相当慎重に提案されています。また、裁判所が親子交流に関する判断をする上でも、裁判手続の過程で親子交流を試行してみることが、審理も充実するでしょうし、判断内容も子の利益に合致した、より適正なものになるだろうと思います。
また、今回の資料では、家庭裁判所が第三者の関与などの条件を付すことも提示してあります。これを積極的に用いますと、こどもの安全や安心により配慮できる実務が形成できると思います。

(穏当なところではなかろうか)

┃ 菅原委員(議事録37-38頁)

害悪を及ぼすおそれがない限りというところが表現的に厳しいかなというのを感じました。害悪がないことを確認し、といった程度の書き方でもよいのかと思います。
害悪がないことは当然ながら考慮していく必要がありますが、この条項につきましても、家裁での調査自体の質の向上に資することができるといいましょうか、家裁の判断材料にとっても親子交流を観察することは重要なことになりますし、また、こどもの立場からすれば、特に愛着関係が成立しているような別居親との交流の機会も確保されることにもなります。別居親との関係性についてあまり会えない期間が長くなる前に調査することができるようになるという点は、こどもにとっても、また調査者にとってもメリットがあるのかなと感じております。

後半部分は非常にいいことを発言しているのに、前半部分がもったいない。

「害悪がないこと」など確認できるわけがない(家庭裁判所は人ならざる神ではない)。そのようなことは不可能を強いるものであるし、そもそも事実調査の過程のことであり、「害悪がない可能性が高いこと」を確認するための試行的な親子交流である。主従、目的と手段が逆転している。
部会資料29の第2の2(1)「親子交流の実施が当該子の心身に害悪を及ぼすおそれがない限り」というのは、水野委員発言のとおり、十分慎重に考えられた表現である。

┃ 棚村委員(議事録42頁)

この試行的な面会交流とか家裁の調査官の関与というのは、かなり早い段階でされる方が非常に効果的であると考えております。(中略)
特に親子の交流というのは、監護者とか親権をめぐって争いがあったり、子の引渡しとか、そういうふうに高葛藤となりエスカレートしたような紛争を見ていますと、早い段階に親子として本当にきちんと関係性が築かれているのだろうかとか、それから、今後どういうような形で親子の関係を作ることができるのだろうかとか、いろいろな面から、過去にわたっても、それから、これから先のことを見通していく上でも、親子の交流というのは、間接的な交流も含めてですけれども、いろいろな形で重要な役割を果たすと思うのです。
今の家裁の実務を前提としながら、それをきちんと試行的親子交流の規定を明文化をし、しかも早期に家裁が関与して、こういうような形で、あるいは第三者が関与して、交流が可能かどうか、すべきかどうかということについて、ある程度の見通しをきちんと立てながらやっていくという意味で、この制度についても明文化していくことについて賛成です。

┃ 武田委員(議事録43頁)

2に関して、親子交流に関する裁判手続の見直しに関してでございます。この試行的交流の実施を促すこと、結果に関して家裁調査官に報告を求めること、双方この方向で是非進めていただきたいと考えております。親子交流の実務での進め方なのですけれども、部会資料29、32ページの2段落目ですが、これはほかの先生方からも既に御指摘もありましたが、現在は必ずしも手続の序盤に実施されるものではないと、正に今はこういう運用になっていると感じています。(中略)
やはりこの親子交流の判断基準というのは、一番大切なのは、離れて暮らす親と当該こどもの関係だと思います。親子交流、試行面会ができれば、調査官にも判断いただけると思いました。

この点、家庭裁判所の実務に関して向井幹事(最高裁判所事務総局家庭局第二課長)から次のような説明があり、それによれば、同居親から子と別居親の関係に問題があると主張されている場合、同居親の同意を得るのに時間がかかっているとのことであるが、どのあたりがニュートラルでフラットなのかまったく疑問である。なお、ここに「別居親の立場からすると」との発言があるが、別居親の立場ももちろんだが、子の立場からしても別居親と離れて交流できないことがなによりも問題であり、裁判所はなにもわかっていないのではないかと思わざるを得ない。

子と別居親の関係に問題があるとの主張がされているような場合などに、親子関係の実態等を精査することなどを目的として、当事者双方の同意の下で試行的な親子交流を実施してもらい、その交流場面を調査官が観察、評価するといったことが行われておりまして、その際には、当事者双方からの聞き取りを基に、その必要性を検討した上で、実施する方向性となった場合でも、試行的な親子交流の実施が子に与える影響などを慎重に検討して、十分な準備をした上で、目的に照らした効果が上げられるような形でこれを実施しております。こういった形で当事者双方の同意の下で行っておりますので、特に同居親側からの同意の取得に時間を要して、別居親の立場からすると、試行的な親子交流の実施が遅くなるということも、実際問題としてはございます。

向井幹事発言(議事録45頁)※このような運用に何ら疑問を持っていない感じが恐ろしい

C. その他の意見(試行的親子交流の要件論など)

┃ 戒能委員(議事録38頁)

やはり同意は必要だろうし、こどもの安全だけではなくて同居親の安全ということも保障されるべきだし、葛藤が激化しないというような要件が必要です。それから3番目の要件は、先ほど赤石委員の御意見にも出ました、拒否反応といいましょうか、望んでいない面会交流、試行はすべきではないというような、少なくとも以上の3点については要件として規定をすべきだと思っております。

(親子交流とは何たるか、誰かこの人に教えてあげた方がいいのではなかろうか…)

┃ 原田委員(議事録39−40頁)

試行面会についてですけれども、これは今、戒能委員が言われたように、私も同意が必要だと思うのですけれども、今回の規定は同意がなくてもできると書いてあるのかどうなのかとうのが非常に不安で、促すという表現がどうなのかなと思っていて、この促すというのは同意を求めるために促すと考えていいのかというのが、疑問に思っています。
現在も同意が要件として書いてあるわけではありませんけれども、実際にはかなり同居親が説得されて、嫌々ながらでも、まあしようがないかなといって同意をした上で、だからこどもも連れてくるし、こどもに対して嫌だというこどもを説得するということができているので、同意というのは絶対に必要だと私は思っています。

(同居親の判断が絶対視されることに対して何も思わないのだろうか)

以上

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