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新聞滅亡へのプロセス(2) 報道の自由と経営


#新聞滅亡へのプロセス

 ブログの第2回では、日本型ジャーナリズムと新聞経営について考察してみたい。60年前の新聞への質問に対する朝日新聞社論説主幹による回答をもとに、掘り下げる。

 1966(昭和41)年に雑誌「新聞研究」は、日頃感じている新聞に関する疑問について各界を代表する人々にアンケート調査し、それを「新聞に関する100の質問」にまとめた。新聞各社の当事者に回答してもらう特集だ。第1問目は「報道の自由」についてだった。(注1)

新聞は、報道と評論の自由を守るために、どのような手段を講じていますか。

 この質問に対する回答者として選ばれたのが、森恭三だ。

 森は1930年に朝日新聞に入社、太平洋戦争前の1937年にニューヨーク支局員となる。日米開戦後1942年に交換船で帰国。戦時中は海軍報道班員として東南アジアで取材。戦後は朝日新聞労働組合委員長を務めた後に、ヨーロッパ総局長。冷戦下の東欧諸国を取材。64年に論説主幹となり67年に退職(コンサイス人名辞典〔第4版〕などによる)。質問に対する回答を書いた時は朝日新聞の論説主幹だった。

 以下が質問に対する森の回答全文(①から④の番号付は筆者の手による)

 ①外部からの、いろんな種類の圧力に対し、報道と評論の自由を守るうえで、新聞としていちばん大切なことは、経営の安定だと思います。これがいちばん大切なことだといえば、あるいは語弊があるかもしれませんが、経営の安定がない場合、外からの圧力に対して抵抗する力が弱いということは、間違いのない事実です。 
 そこで、各新聞社とも業績を向上させるため一生懸命になっているわけですが、業績の向上は、それ自体が目的となりうるわけで、この努力のなかで本来の趣旨である報道と評論の自由擁護ということが第二義的とされる場合も、ないではありません。心すべきことだと思います。
 新聞における経営の安定とは、ただ新聞を買ってもらうというだけのことではなく、読者との心のつながりということでありましょう。社会的・文化的な仕事に熱心な新聞社が少なくないのも、右のような考え方からだと思われます。

 ②日本の新聞は、官僚統制のにがい経験をもっています。もし新聞が、自由に伴う責任というものをじゅうぶんに果たさないならば、読者の不信を買い、官僚統制を招き入れることにもなりかねません。この意味で、報道と評論の責任を良心的に果たし、読者の支持をえていることが、結局、報道と評論の自由を守る道だ、といえるわけです。
 そのためには、新聞記者の訓練が決定的な重要性をもってきます。正義心、ファイト、問題意識をもつためには、記者同士がみがきあうことも必要です。また編集だけでなく、業務、印刷をはじめ、会社が一体となって自由に議論しあう気風が大切なのです。
 新聞社の活動においては、誘惑も少なくありません、誘惑に対し毅然として抵抗しうるためには、右のような訓練が必要であり、また上に立つものが率先垂範することが必要ですが、それと同時に、新聞社で働く個々の人間の生活安定が保証されていることも、同時に大切だと思います。

 ③新聞の資本的独立性が脅かされぬよう、新聞社の株式移転については、定款によってこれを制限しうるよう、商法に特例が設けられています。次に起こってくる問題は、このような株主保護に見合うような義務規定、すなわち株主権の制限を設けるーー自立的にあるいは法制的にーーことの可否であります。その次に起こってくる問題は、新聞社の内部における株主の不当な圧力から編集長の地位をいかにして守るべきか、という問題です。わが国では、この最後の二つの問題はまだ広く取り上げられるにいたっておりません。(注2)

 ④質問者は「安保闘争以来、権力からの介入干渉が露骨になってきた」といわれます。各方面からの圧力があることは事実ですし、政府その他の人びとと懇談したり討論することもしばしばあります。その結果、反省することもあるでしょう。しかし質問の意味が「新聞社の意思に反して、権力によって屈服せしめられた」という意味であるならば、私はそういう例をしらないのです。
(朝日新聞社論説主幹 森 恭三)

 森は戦前、戦中、戦後の各期において様々な立場から新聞の第一線に立ってきた。森の主張を現在の新聞を考える視点からひも解いてみたい。

報道と評論の自由を守る第一は、経営の安定か

 森による①の「外部からの、いろんな種類の圧力に対し、報道と評論の自由を守るうえで、新聞としていちばん大切なことは、経営の安定だ」との主張は、「日本型ジャーナリズム」を考える上で興味深い。

 報道の自由な国、例えば米国のジャーナリストに「報道と評論の自由を守る第一は何か」とたずねた場合に、自分の属する新聞社の「経営の安定」との回答は、あり得るとしてもごく少数にとどまるだろう。森の回答は、少なくとも60年前の朝日新聞論説主幹が相当程度、自社経営を視野に入れる立場にあったことを示唆している。

 では、米国のジャーナリストならどう答えるのか。報道と評論の自由を守るためには、新聞の「経営」を担う者が、政治的圧力や自社の経営状態を理由に「編集」や「記者の取材活動」に口を出さないこと、と答えるのが多数のはずだ。

 米国の新聞ジャーナリズムの役割と歴史は、次に集約されるだろう。

米国新聞は、「公共の関心事となる情報を提供し、アジェンダ(解決すべき課題)を設定し、権力を監視(ウォッチドッグ)し、批評、批判を通じて世論を喚起することで民主主義に必須の機関として認められ、自由で独立した報道機関として経営基盤を確立してきた。しかし、インターネットの出現と普及により、新聞は、編集と経営の両面でかつて経験したことのない転換期を迎えている」(注3)

 第2次大戦後民主主義国家となった日本の新聞は、好むと好まざるとを問わず、米国型の新聞理念をもとに、再出発した(注4)。

 しかし、その理念は、次第に薄れ変質してきた。インターネットの出現という印刷媒体にとって致命的とも言える情報環境の変化の中で、その変容は加速している。森が報道と評論の自由を守るのに一番大切とした「新聞の経営」は崩壊の危機に瀕している。森の主張を逆説的にとらえれば、新聞における「報道と評論の自由」も崩壊への道を歩んでいると言えるだろう。

経営第一、報道の自由は第二

 森は一方で「業績の向上は、それ自体が目的となりうるわけで、この努力のなかで本来の趣旨である報道と評論の自由擁護ということが第二義的とされる場合も、ないではありません」と警鐘を鳴らした。

 そして「新聞における経営の安定とは、ただ新聞を買ってもらうというだけのことではなく、読者との心のつながりということでありましょう。社会的・文化的な仕事に熱心な新聞社が少なくないのも、右のような考え方からだと思われます」と続けた。

 森の懸念は、前者は販売の過当競争による報道と販売の主客転倒。後者は例えば朝日、毎日の主催する甲子園での高校野球大会やプロ野球球団読売ジャイアンツ、中日ドラゴンズ、そして囲碁、将棋など新聞社の多種の事業を指している。こうした事業は、新聞社の認知度をあげ、新聞販売のツールとして長い歴史を持つものが多い。

 しかし、新聞の過当、過剰販売活動は長期に渡り批判を浴びてきたし、新聞社事業が、かつて無い批判にさらされているのも事実である。

 特に、コロナ禍で1年延期され行われた2021年の東京オリンピック・パラリンピックの際には、主要紙が揃ってスポンサーとなった。スポーツイベントのスポンサーは、これまで新聞1社単独で契約するのが通常の形だったのに、今回は主要新聞社が足並みをそろえた。見方によっては、電通を媒介として国家的事業に新聞社が一致して協力する構造が成立したようにもみえる。

 コロナウイルス蔓延とともに、果たしてオリンピック開催は必要か、との議論が各方面で起きた。しかし、新聞・テレビはその議論を真正面から取り上げたとは言えないだろう。開催中止を含めたオリンピックに関する紙面論調、不透明なスポンサー選定や予算、組織委員会の運営。多くの疑問に対して各紙が鋭く切り込んでいるとの印象はなかった。その理由として、新聞社と五輪を仕切る電通との密接な関係から、五輪報道が影響を受けているのではないかとの疑問がネット上を中心に流布された。(この問題については、いずれこのブログで詳しく取り上げる)

 NHKは公共放送であり広告代理店電通とはビジネス上の関係がない。そうした背景からか、五輪汚職問題には、事後であるが、かなり突っ込んだ報道も見られる(例えば下記クローズアップ現代)。にもかかわらず、気を遣っているのか、主要新聞社がそろってスポンサーとなり、そのため報道が鈍っていたのではないかとの疑問に触れる視点はなかった。

【わかりやすく】東京五輪・パラ汚職事件 全体像は?高橋元理事とは? - クローズアップ現代 - NHK

 新聞社とテレビ局は、歴史的に新聞社がテレビ局の経営を支配する構造があった。例えば読売新聞と日本テレビ、朝日新聞とテレビ朝日、毎日新聞とTBS、産経新聞とフジテレビ。日経新聞とテレビ東京。だが、それぞれのベアで力関係は異なり、時とともに種々の要因で変化し、今は縦方向の統合構造は読売と日本テレビ、日経とテレビ東京のみに限定されていると言っていいだろう。

 一方で、新聞界はNHKのネット配信などに対して厳しい態度を取り続けている(注5)。公共放送のNHKは、受信料で支えられており、基本的には新聞や民放テレビのような営業活動は必要ない。広告を取らないため、電通・博報堂など広告代理店が扱うスポーツイベントの放映などの関係を除けば、広告代理店の意向も気にする必要はない。

 しかし、NHKは新聞・通信・民放テレビと一緒に「記者クラブ」制度のメンバーであり、取材態勢では同じ船に乗っている。こうした状況下でNHK、民放が新聞の在り方に疑問を呈したり、構造を批判することは個別の事件などを除いてほとんどない。その最たるものが、消費税が10%に引き上げられた際の一般日刊新聞に対する軽減税率の適用の適否についてのNHK、民放の「沈黙」であると筆者は考える。

政府・官僚による新聞統制のいま

 ②のパートで、森は戦前・戦中の状況を踏まえて新聞に対する官僚統制の危険について述べている。「もし新聞が、自由に伴う責任というものをじゅうぶんに果たさないならば、読者の不信を買い、官僚統制を招き入れることにもなりかねません」「この意味で、報道と評論の責任を良心的に果たし、読者の支持をえていることが、結局、報道と評論の自由を守る道だ、といえるわけです」

 第2次安倍、菅政権によるメディアコントロールの強化が指摘されてきた。このテーマを扱った書籍は枚挙にいとまがない(注6)。

 同時に在京6紙の中で、「読売・産経・日経」と「朝日・毎日・東京」の間で、改憲・護憲、原発の存廃、集団的自衛権、敵基地攻撃能力など平和法制のあり方など両者間で報道姿勢と内容の二極化が進んだと指摘される(注7)。

 しかし、記者クラブ制度の維持、新聞販売網維持と消費税の軽減税率の適用という情報独占や経営的理由により、報道姿勢の二極化の一方で、経営は「協業」の度合いを深めている。以前から、販売競争による全国紙対地方紙の構造もあるが、上記の理由により全国紙と地方紙も「協業」に向かってつき進んでいる。

 この新聞社間の関係は「競争と協業」あるいは「呉越同舟」の関係ともいえる。その構造と状況について一般読者に情報が提供されることはほとんどない。一般企業と違い新聞は経営状況を公開することがほぼないからだ。そして、こうした構造が報道に及ぼす影響を読者が知るすべもない。メディア間の相互監視が機能しない状況となっているためだ。

 森はこう述べた。
 「各方面からの圧力があることは事実ですし、政府その他の人びとと懇談したり討論することもしばしばあります。その結果、反省することもあるでしょう。しかし質問の意味が『新聞社の意思に反して、権力によって屈服せしめられた』という意味であるならば、私はそういう例をしらないのです。」

 森が想起した各方面の圧力とは、1930年代末から第2次大戦中にかけて、政府のとった新聞統合政策、具体的には地方新聞の合併統合(一県一紙制)と全国紙を含めた国民総動員、戦争遂行への加担を示しているのだろう。政府は新聞用紙の統制を含めた手段で新聞を締め上げ、一方で新聞側も「国益」に奉仕し「国策」に従うことで、報道と評論の自由を自ら手放していったことも歴史的事実だ(注7)。

 今から60年前、森は(戦後)「新聞社の意思に反して、権力によって屈服せしめられた」例をしらない、という。しかし、戦後占領期において、新聞はGHQにより報道をコントロールされ、検閲も受けていた(注8)。

 サンフランシスコ講和会議による日本独立で、日本の新聞は言論の自由を回復したとも言える。しかし、一県一紙体制など戦前の体制を引き継ぎ現在まで至っているのが実態だ。戦後、新興紙が占領下で用紙割り当てを受け、雨後のタケノコのように発行を開始したこともあったが、多くが休刊(廃刊)の憂き目にあった(注9)。

 第1回のブログで、新聞を含め組織メディアは「新しい戦前」に向かって歩を進めている、と書いた。それは端的に言えば、新聞社自らが結託し、消費税の軽減税率など政府の経営保護を求め、政治にすり寄っていっている状況を言う。リベラル、保守と論調は2分化しているとされるが、一般日刊新聞の経営体は、一致して同じ方向に歩んでいるのが現状だ。

 このブログでは次回以降、その弊害を具体的にみていきたい。

 *このブログで使用する写真は、すべて筆者が通訳案内士・ネーチャーガイドとして各地で撮影した写真を使用します。今回の写真は沖縄慶良間諸島。ミジュンが同じ方向を向き群れる姿。

注釈(参考文献)
(1)「新聞研究」編集部は、各界「識者」に往復はがきによるアンケートで、日ごろ新聞について感じている疑問を質問を募集し、その回答を1966年10月号に掲載した。
 「新聞の自由と責任」については以下のような意見が寄せられたという。
・「妥協せず、ぼくたくとしての精神を高揚されたい」
・「新聞は国家的事業に対して、あげ足とりに専念している感があるが、一般大衆にその内容を詳しく紹介するとか、建設的な意見を載せるとか、もう少し国民の協力ムードを盛り上げるような責任ある態度でのぞむべきではないか」
・「新聞は社会人のための社会的役割を果たしている。その自立のもとに経済、社会などはとくにすべての人にわかるように報道すべきでないか」
・「新聞は筆によって権威を示すべし、取材記者とくに政治記者のきょうまんな態度は改むべし」
このほか、「安保闘争以来、権力からの介入干渉が露骨になってきた」との意見もあった。

(2)森の指摘は朝日新聞社主と編集部門の関係を指摘していると思われる。
「最後の社主 朝日新聞が秘封した『御影の令嬢』へのレクイエム」樋田毅 2020年講談社
日本の新聞社における「資本」と「経営」の分離、「経営」と「編集」の分離の問題点とその分析については別稿でとりあげる。

(3)「新訂 新聞学」浜田純一・田島泰彦・桂敬一編 2009年 日本評論社 P.80

(4)多数あるが最新の著作を挙げれば、「近代日本メディア史Ⅱ」 有山輝雄 2023年 吉川弘文館

(5)一般社団法人日本新聞協会のホームページにはNHKの業務に対する「見解」が多数ある。NHK site:pressnet.or.jp

(6)多数あり列挙しきれないが、例えば、「安倍政権に ひれ伏す 日本メディア」マーティン・ファクラー 2016年 双葉社
「吠えない犬 安倍政権7年8ヶ月とメディア・コントロール」マーティン・ファクラー 2020年 双葉社
「安倍官邸 vs. NHK 森友事件をスクープした私が辞めた理由」 相澤冬樹 2018年 文藝春秋
「報道事変 なぜこの国では自由に質問できなくなったのか」 南彰 2019年 朝日新聞出版
「菅義偉とメディア 権力は快感」 秋山信一 2020年 毎日新聞出版
「自壊するメディア」 望月衣塑子 五百旗頭幸男 2021年 講談社

(7)例えば、「安倍官邸と新聞 『二極化する報道』の危機」 徳山喜雄 2014年 集英社

(8)例えば、「占領期メディア分析」 山本武利 1996年 法政大学出版局

(9)例えば、「戦後新興紙とGHQ 新聞用紙をめぐる攻防」 井川充雄 2008年 世界思想社


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