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新聞滅亡へのプロセス(5) 特異な組織ジャーナリズム

 「日本型ジャーナリズム」と「組織ジャーナリスト」。5回目となる今回のブログでは、その関係について考えてみたい。

 それぞれの国にそれぞれのジャーナリズムがあるとしても、日本の組織ジャーナリズムは、言論の自由が広範に存在する国と比して、かなり「特殊」な存在だといえる。筆者は、特殊性の前提となる要素として次の3点を挙げたい。

①日本社会とそれを構成する人々の言論に対する意識
②言論の自由を保障するシステム
③「組織ジャーナリスト」を形成するシステム。

 ブログの第1回で、現在のメディア・新聞を考察する上でカギとなる10の視点を述べた。今回は、日本ジャーナリズムの特徴とも言える特殊性の3点目、「組織ジャーナリスト」を形成するシステムについて考察したい。

日本の組織ジャーナリズムの特異性

 日本の組織ジャーナリズムは、報道の自由な諸国に比して、2点の特異性がある。

 第1は、日本には大学にジャーナリストを養成するジャーナリズムスクールが少ないこと。また、その卒業生が記者として働くことが少ないこと。

 第2は、新聞経営者の大多数は経営のプロではなく、新聞の編集部門に記者として入社した人物が「出世」し、新聞社の代表取締役社長となり、経営権を握ることが多いこと。

 米国をはじめ、諸外国にはジャーナリストを養成するスクール・オブ・ジャーナリズム(ジャーナリズム学科)が数多く存在する。

 日本にも、上智大学の新聞学科や、新聞研究所、社会情報研究所を経て大学院情報学環・学際情報学府となった東京大学の研究部門など、各総合大学には、情報関係の学部が多く存在する。しかし、ジャーナリズム研究、ジャーナリスト育成の観点からは質、量ともに米国には遠く及ばない。

 その大きな理由は、日本の新聞社が伝統的に大学ジャーナリズム関係学部の卒業生を積極的に新卒採用しないことにある。全国紙など新聞各紙は、オン・ザ・ジョブ・トレーニングが最高の記者教育であると固執し、大学でジャーナリズムに「かぶれ」ていない人材の採用を欲する。一方で日本の大学のジャーナリズム・プログラムは実践的でなく、最先端の取り組みをしているとはいえない。

 最近は、状況が変化しているが、記者が新聞社から別の新聞社に移ることも極めて少なかった。1996年の労働者派遣法によって日本型「終身雇用制」は衰退の一途をたどるが、ひとつの新聞社に就職したら、定年までその新聞社で働くという「終身雇用制」は、新聞の発行部数減が顕著になるまで、極めて強固だった。

 最近、「即戦力」を求める新聞社の需要が、記者の新聞間移動を可能にしている。ひとりの記者を「一人前」にするのには、多くの「投資」を必要するとの「観念」が新聞各社の共通認識となっているからだ。

記者のオン・ザ・ジョブ・トレーニング

 新聞社に記者職として採用された新入社員は、まず地方の支局に配属される。そこで「サツまわり」と呼ばれる警察担当となる。事件、事故を扱う担当記者だ。

 「記者クラブ」に所属し、毎日「警戒電話」を警察の担当者にかける。他社が報道しているのに、自分だけ情報をもらえず、自紙に記事が掲載されない「特オチ」という事態を避けるよう細心の注意を払う。

 逆を言えば、他社が情報をつかまないうちに「特ダネ」記事を書けば、スクープとして上司から褒められる。滅多にないことだ。

 県政の「記者クラブ」などを担当し、本社に「上がって」くるのは、1980年代であれば、10年弱、今はずっと早まっている。「終身雇用制」が日本社会で崩れ、転職が当たり前となっている中で、支局で働く期間中に辞めていく若い記者が多くなっているためといわれる。

 支局勤務の間に「組織ジャーナリスト」たちは、5W1H(いつ、どこで、だれが、なにを、なぜ、どのように)で構成する基本情報の伝え方と、必須と思われる事柄から、背景などの説明へと「逆ピラミッド型」に記事を書く技量を叩き込まれる。

 初めて書いた記事は、チェック役の支局次長に読まれもせず、そのままゴミ箱へ捨てられた、との経験を何故か楽しそうに語るベテラン記者もいる。基本的に日本の報道組織の記者教育は、例えば、漆塗りなど「職人」の技術を、厳しい日常と習得の繰り返しによって「師匠」から伝授される「徒弟制度」に類似している。

 全国紙同士と地方紙、通信社の担当記者と競い合うため、記者会見では、自社が独自につかんでいる情報を、他社に悟られないようにするためとの理由で、突っ込んだ質問をしてはいけない、と諭されることもある。これが常態化すると、記者会見での記者の質問は、ありきたりで鋭さがかけるようになる。一方で、「厳しく」「限られた範囲」の競争のため、各紙に掲載される事実を伝える「ストレート」記事は、どれも似通った書き方と内容となる。「エージェント・オブ・パワー」(公権力の広報代理人)の役割を構造的に果たす危険性は、記者が意識するしないを別として顕在化する。

「記者クラブ」には県、市町村、警察の広報担当が作成した「資料」が配布される。それには「解禁日」が設定されているものもあり、期日まで「書かない」ことを記者クラブ加盟社間で遵守する「黒板協定」なるものが存在する。(注1)

 「記者クラブ」はそこに入れないフリーランスや日本に駐在する海外のジャーナリスト、在日特派員からすると排他的な制度にしか見えない。(注2)

 朝日、毎日、読売、日経といった全国紙は、基本的に5本社体制(東京、大阪、名古屋、北海道、九州)を採用している。支局、支社で一定期間勤めあげた記者は、本社の政治、経済、社会、国際など各部に配属される。本社ビルに通う初日に、自分の属する会社は、こんな大きな会社だったんだと、採用直後に本社で受けた全体研修を思い出し、実感するという。

「生涯一記者」を貫けないシステム

 ここから、記者の出世競争も始まる。キャップ、デスク(部次長)、部長、編集局次長、編集局長、役員、社長と段階を経ながら狭き門くぐりを登っていく。スクープを連発する敏腕記者が出世するとは言えない。社内の政治力学もある。出世には運も必要だ。

 「生涯一記者」を気取っているだけでは、編集局から外され他の部局に飛ばされる。新聞社内には、編集、販売、(制作・技術)、広告といった一種のヒエラルキーが存在する。昨今の新聞経営の厳しさによって営業関係の圧力が編集部門に及ぶ機会は増大している。

 経営のプロではない記者出身者が、CEOになるというのは、米国では地方の小都市の家族経営の新聞を除けば稀だ。

 米国では、大学のジャーナリズム学科を卒業し、地方の新聞社に勤め、書いた記事が認められて、より大きな新聞社に移り、ワシントンポスト、ニューヨークタイムズなどメーンストリームと呼ばれる主要新聞の編集部門に入るのが、ジャーナリスト志望者のサクセスストーリーだ。

 米球界に入り、マイナーリーグで活躍し、メジャーに昇格し、そこでも活躍し、ヤンキースやドジャースといった全国区の有名球団に入るのと似ている。

 米国の新聞関係者から、日本の新聞は、なぜ記者出身者が経営の責任者になるのだと問われると、言葉に詰まる。

 日本にも、ニューヨークタイムズや、かつてのワシントンポストのように、ファミリーのオーナー家が経営者になる場合もある。(注2)
だが、県紙以上の規模を持つ新聞社の大多数は、記者、編集局の出身者で占められる。

 これは、資本の影響を受けずに、編集の独立を保つために最良の策なのだ、と言いたくなるが、実際はそういう状況にない。

 経営責任者としての記者出身の社長は、多くの場合、販売や広告、事業といった経営部門に関する知識は深くなく、販売部門、広告部門、事業部門からたたき上げてきた担当役員に依存することになる。法務、広告、事業部門の責任者に編集部門から横滑りしてきた元記者が就任することもある。

 いうまでもなく、インターネットの出現によりメディア環境は激変し、世界の新聞は、雪崩を打って紙からデジタルへと情報伝達手段を転換している。日本の新聞は、紙の新聞販売収入が収入全体に占める割合が、他の国と比べると突出して高く、それがデジタルへの転換を遅らせてきた。紙の収入に比べると、デジタル収入は割が合わない構造を抱えている。(注3)

 日本の新聞が、「絶滅」しないために必要なのは、若く優秀な外部の経営の専門家をトップに招聘することだろう。それには、その人物(たち)が新聞の編集に「絶対に」介入しないという前提と、それが起きた場合には取締役会による解任を行うとの取り決めが事前に必要だ。

 今、日本の新聞社の経営を握っている編集出身の人たちは、30年前、「駆け出し」から「中堅」の記者だった。その時、記者たちは、どのような意識を持っていたのだろうか。以下、それを見てみたい。筆者には、その後30年たって社長となっても、その意識の根本は当時と変わっていないのではないか、との疑問がある。

 にもかかわらず、かつて記者で、社内の熾烈な出世競争に勝ち抜き社長となった人物は、「経営」を優先させて、組織ジャーナリズムを委縮させていく決定を行う。これが「新聞滅亡へのプロセス」の重要な要素となっていると指摘したい。

記者の意識、30年の変化は
 「多メディア化の中で新聞が(凋落を)何とかしなければという思いと、記者自身に増えている新聞に対する冷めた目。記者とジャーナリストの間に横たわるのが会社だ」

 1993年11月から12月にかけて、日本新聞協会研究所は新聞記者2800人を対象に新聞記者の意識アンケートを実施した(注4)。有効回答数は1735、解答率は62%。この調査結果がまとまったのを受けて、筆者は94年6月、担当していた雑誌の編集後記に、新聞記者の置かれている現実について書いた。これを読んだ局長は、筆者を部屋に呼び出し、冗談めかして言った。「あまり本当のことを書くな」

 この新聞記者意識アンケートについて、毎日新聞社の発行するエコノミスト誌に日垣隆が執筆したコラム「敢闘言」(94年6月22日)にこうある。

 「ある全国紙のメディア欄の求めに応じて、私はこのアンケートへの感想を書きボツにされた。指定された字数で書いた私の要点は、三つあった。一つ、(記者の)『庶民感覚』が普通以上にあるとの回答が96.4%にも及ぶのは、気持ち悪い。むしろ『庶民感覚がないほうだ』と答えた3.3%の記者こそ『個性』を感じる。二つ、テレビの報道に対して『あまり脅威には感じていない』が最多の31.1%とは、おめでたい。三つ、新聞批判の項目に『読ませる工夫が足りない』や『おもしろくない』といった肝心の選択肢が欠落しているのは、なぜだ。とまあ単刀直入に述べたからだろう、見事ボツになった。紙面批評以外の新聞批判は、まだタブーの領域にあるらしい。だったら原稿なんか依頼すんなよ、朝日新聞!」

 それから30年、SNSの急速な発展などにより新聞を取り巻く状況は激変したが、日垣の指摘は、いまだに有効どころか、さらに重要性を増している。

 日垣の指摘をもとに、筆者が現状を日垣流に記せばこうなる。

 一つ、当時そして没落したとされる今も、新聞記者(放送局記者・報道番組制作者・アナウンサー)の給与水準と身にまとうエリート意識は、「庶民」の水準に比べ、格段に高い。読者=オーディエンスは、そのことにとっくに気づいている。「庶民」の側に立ったかのように見える新聞記事やテレビ報道。新聞、放送記者やアナウンサー、コメンテーターが、「私たち庶民」として伝えるメディア報道の「偽善性」を、とりわけ若い情報の受け手たちは「気持ち悪い」と感じる。国民間の所得格差、世代間意識格差は増大、二分化し、「マスゴミ」と呼ばれるほど、メディアと新聞紙面・ネット読者=新聞オーディエンスとの間の意識も乖離している。

 二つ、「ジャーナリズムは、トップダウン的なやり方、すなわち「講義」型から、もっとずっと「会話」的なスタイルへ転換しつつある」。ダン・ギルモアは、2005年、We the Mediaでこう分析し、「読者・リスナー・視聴者が、ジャーナリズムの一部となる」と主張した。(注5)

 さて、日本の新聞はどれだけ講義型記事から抜け出せているだろうか。「読ませる工夫がない」「おもしろくない」。当時の日垣の指摘は、現在も大半の新聞読者が感じている本音でもあろう。読者はどれだけジャーナリズムの一部となっているだろうか。

 30年前にテレビに脅威を感じていなかった記者たちは2024年、SNSなどネット時代の「個」による情報発信に対し、どれほどの脅威を感じているのだろうか。感じているのは当然としても、記者たちは上司・経営者に抜本的改革を訴えることが可能な環境にあるだろうか。

 三つ、1993年調査の設問「新聞批判に対する見方」における記者による回答の上位5位は、以下だ。「発表ものが多すぎる」(69.7%)「画一的、横並び記事が多い」(68.5%)「報道が全体に一過性だ」(66.8%)「問題を掘り下げた記事が少なく、表面的だ」(48.7%)「批判精神が乏しい」(40.6%)。

 現在、この上位5回答の状況が、30年前より改善されているという考える新聞記者OBがいるだろうか。この10年間で、指摘された問題が解決に向かっていると主張する現役記者はいるのだろうか。「発表もの」「画一的、横並びに記事」「表面的で一過性の記事」「批判精神の乏しい記事」を書くことを強いられながら、それに疑問を持ち、それを上司に投げかけられる記者は現在、どのくらいの数、各新聞社内にいるのだろうか。

 筆者は、組織ジャーナリズムの経営者と個々の記者の意識のギャップを経営者自らが知ることが、組織ジャーナリズムの生き残りの処方箋を描く、第一歩となるのではないかと考える。しかし、その願望は絶望的状況にある。

 上記のアンケートがユニークなのは、この調査が新聞社を仲介せず、直接郵送方式で、研究所に送られるシステムにあった。無記名であり、記者の意識がそのまま調査結果に表出する条件が整っていた。この調査に新聞各社は協力していたのだ。いま、自社を経由しないで「個」として記者意識を直接回答することを、自社の記者に許す新聞社の社長は、果たしているのだろうか。

 筆者は、コロナ禍で在宅が多くなり、不用品や書籍の断捨離をした。その中で、何年もダンボールに入ったままとなっていた資料も整理した。そこで新聞の「現在」を知りたくなった。1年間、朝日新聞の発行する「Journalism(ジャーナリズム)」定期購読してみた。

朝日新聞ジャーナリズムの現在

 2022年の1月号から「Journalism」誌で「大学生のためのマダニャイ記者入門」との連載が始まった。子猫「マダニャイ」というキャラクターを設定し、第1回は【持ち物】編。見出しを拾ってみる。「PC、筆記用具とカメラが必須ニャ かばんはリュック派も手提げ派も」「出先から原稿を送ることも」「ペンは取り出しやすい所に」「急ぐ時のやりとりは電話」「撮影も大事な記者の仕事」

 これが、日本のリーディング・ニュースペーパーを「自称」する朝日新聞が出版する「Journalism」という雑誌が掲載する内容なのか。購読者、メディア志望の学生を馬鹿にしているのではないか、とあきれた。購読は打ち切った。なぜこのような連載が始まったのか。当時、朝日新聞の就職志望大学生の状況についての「噂」を耳にし、雑誌発行者、編集者の忖度による連載開始なのかと疑ってしまった(23年3月を最後に同誌は発行を停止した)。

 以前、朝日新聞の社内誌「朝日人」を読んだことがある。当時この社内誌の名前は「朝日らしい」と思ったが、まだ、この時は「矜持」のようなものがあったと思う。

 実は、下記のニュース記事が、今回のブログを書くきっかけとなった。

築地市場跡地の再開発、事業者は三井不動産など 東京都が公表(朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

 朝日新聞の記事にはこうある。
 「都が有識者の審査会で選んだ再開発事業者は、三井不動産、トヨタ不動産、読売新聞グループを中心とする計11社のグループ。社屋が隣接する朝日新聞社も協力企業として加わっている。総事業費は約9千億円」

 三井不動産は、東京都関連の明治神宮再開発事業も手掛けており、朝日新聞が記事化している。

明治神宮外苑再開発は「工事の停止を」 日弁連が会長声明 [東京都]:朝日新聞デジタル (asahi.com)

 三井不動産と読売新聞グループなどが中心に行う築地再開発に、「社屋が隣接する」朝日新聞は、どのような理由で、どのように協力するのか。それは朝日のジャーナリズムと「利益相反」しないのか。土地再開発で読売グループと「協業」する経緯や意図は何か。

 6月に社長が交代するというが、朝日新聞は「沈黙のメディア」から脱却し報道機関として説明責任を果たすべきだ。

*このブログで掲載する写真は、すべて筆者が通訳案内士、ネーチャーガイドとして各地で撮影した。今回は、沖縄の美ら島水族館水槽のくらげ。

(注1)例えば著名科学学術誌など海外にも、解禁日を指定する(エンバーゴ付き)「発表資料」はある。それに従わないと、次から「資料」は送られてこなくなる。日本の「記者クラブ」の閉鎖制や「黒板協定」は報道の自由を記者自身が「カルテル」を結び設定していると、海外の記者、研究者から問題点が指摘されてきた。
「Closing the Shop Information Cartels and Japan’s Mass Media」2000年 プリンストン大学出版会 ローリー・アン・フリーマン著
邦訳は「記者クラブー情報カルテル」 2011年1月 緑風出版 橋場義之訳

フリーマンの記者クラブに関する著作

(注2)中日新聞(東京新聞)、河北新報、中国新聞、京都新聞、四国新聞などのようにオーナー家も存在する。

(注3)データは日本新聞協会、新聞社の総売上高の推移発行規模別収入構成・費用構成

(注4)「新聞研究」1994年6月号 新聞記者の現在ーー記者アンケートを読む 
新聞協会新聞研究所は、1993年11月中旬から12月上旬にかけ、取材・報道活動の第一線で活動する記者の意識の諸相を探るアンケート調査を実施した。同様の調査は1973年にも実施されていた。93年の調査対象は、新聞協会編集委員会の委員社57社のうちNHK、在京民放キー局を除く新聞・通信51社の記者約1万5千人から抽出した2800人だった。抽出方法はランダム・サンプリング、実査は郵送調査法。記入方法は無記名によるアンケート記入法。回答は、所属組織の目に触れない方法で行われた。有効回答数は1735、回答率は62.0%だった。設問数は合計65問。

(注5)邦訳は「ブログ 世界を変える個人メディア」 2005年 朝日新聞社 平和博訳







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