記事一覧
新聞滅亡へのプロセス(4)不作為の罪 オリ・パラ報道を例として
#新聞滅亡へのプロセス #メディア 「不作為の罪」 報道の自由が確保されている国々のメディアの視点では、報道倫理にもとる「不作為の罪」というべき状況が、日本の組…
新聞滅亡へのプロセス(3) 組織ジャーナリストを考える
#新聞滅亡へのプロセス 日本型ジャーナリズムは、記者・ジャーナリストという「個」の集合体によって報道機関としてのメディアを機能させているのか。それとも、新聞社…
新聞滅亡へのプロセス(2) 報道の自由と経営
#新聞滅亡へのプロセス ブログの第2回では、日本型ジャーナリズムと新聞経営について考察してみたい。60年前の新聞への質問に対する朝日新聞社論説主幹による回答をも…
新聞滅亡へのプロセス 追記
「新聞滅亡へのプロセス」は、いったん6回で終わりにし、別の題名とテーマで次のブログを書く予定にしていた。
しかし、この2週間に「新聞滅亡へのプロセス」のテーマと関連するユーチューブ動画がアップされた。そこで「追記」を書き、3本の動画を紹介しようと思いたった。
4月5日から5月12日までに、6本のブログを書いたが、ビューワー数は1000、スキは130に迫っている。あれだけ長い文章にアクセスい
新聞滅亡へのプロセス(6) 「新しい」戦前への道
今回のブログは、まず、第3回で取り上げた南彰記者の出版した書籍を紹介する。タイトルは「絶望からの新聞論」(注1)。4月30日から発売とアマゾンに出ていたので注文した。自宅に届いたのは5月3日だった。
この本には、雑誌「熱風」昨年12月号に掲載された南とジャーナリストの青木理との対談が再録されている。そこで南は退社の経緯や思いを詳しく述べている。
「新聞滅亡へのプロセス」とは
前回まで、
新聞滅亡へのプロセス(5) 特異な組織ジャーナリズム
「日本型ジャーナリズム」と「組織ジャーナリスト」。5回目となる今回のブログでは、その関係について考えてみたい。
それぞれの国にそれぞれのジャーナリズムがあるとしても、日本の組織ジャーナリズムは、言論の自由が広範に存在する国と比して、かなり「特殊」な存在だといえる。筆者は、特殊性の前提となる要素として次の3点を挙げたい。
①日本社会とそれを構成する人々の言論に対する意識
②言論の自由を保障す
新聞滅亡へのプロセス(4)不作為の罪 オリ・パラ報道を例として
#新聞滅亡へのプロセス #メディア 「不作為の罪」
報道の自由が確保されている国々のメディアの視点では、報道倫理にもとる「不作為の罪」というべき状況が、日本の組織メディアで起きているのではないか。この場合の「罪」とは、法律上の罪ではなく、倫理的な「罪」(英語でいえば【transgression】あるいは【sin】 )のことを指す。(注1)
英BBCが取り上げたことによって初めて広く報道される
新聞滅亡へのプロセス(3) 組織ジャーナリストを考える
#新聞滅亡へのプロセス
日本型ジャーナリズムは、記者・ジャーナリストという「個」の集合体によって報道機関としてのメディアを機能させているのか。それとも、新聞社、放送局という会社組織の「駒」としての記者の活動によって報道機関は成り立っているのか、との本源的な問題を孕んでいる。
記者がジャーナリストとしての「個」を確立できなくなっている実態について朝日新聞を例に考えてみよう。
「駒」としての
新聞滅亡へのプロセス(2) 報道の自由と経営
#新聞滅亡へのプロセス
ブログの第2回では、日本型ジャーナリズムと新聞経営について考察してみたい。60年前の新聞への質問に対する朝日新聞社論説主幹による回答をもとに、掘り下げる。
1966(昭和41)年に雑誌「新聞研究」は、日頃感じている新聞に関する疑問について各界を代表する人々にアンケート調査し、それを「新聞に関する100の質問」にまとめた。新聞各社の当事者に回答してもらう特集だ。第1問
新聞滅亡へのプロセス
日本型ジャーナリズムの特殊性
このブログを皮切りに新聞を中心としたメディア批評を行うことにした。実例を交えて、日本メディア、とりわけ新聞の抱える病理構造と衰退の原因を洗い出したい。歴史を縦軸、世界を横軸として「日本型ジャーナリズム」「記者クラブジャーナリズム」の諸相とメディア経営の諸問題について考察していく。今回はその第1回となる。
これまで「日本型ジャーナリズム」について何冊かの書籍が出