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寝ながらシュタイナー『自由の哲学』(4/9)

Ⅰ 『自由の哲学』の「自由」とは何か その2

 1 いわゆる「選択の自由」とは異なる
 2 自由とは、人類進化の先の「本来の意味での人間であること」である
  (人類進化は、「理念的直観の実現」の方向に向かう)
 3 それ故、進化途上の現在の人間にも自由(理念的直観の実現)はある
 4 理念的直観は倫理性に浸されており、自由と倫理は一つである
 
本稿では、3と4について考察します。

3 進化途上の現在の人間にも自由(理念的直観の実現)はある
⑴ 現在の人間にも自由(理念的直観の実現)はある
2では、「自由」を、人類(人間)進化の先にある「人間の究極の進化段階」だとし、またその進化は「理念的直観の実現」の方向にあることを紹介しました。
「理念的直観の実現」という意味においては、進化途上の現在の人間においても自由はあります。

行為において、自由があると言える部分は、理念的直観の実現である(1:253)

ある行為が、そうした理念的直観の写しであるとわかると、人間はその行為を自由と感じる(1:202)

自由とは、感覚的あるいは魂的な必要性からの行為において現れるのではなく、精神的直観(=理念的直観)を基盤とした行為において現れる(1:234~235)

『自由の哲学』森章吾訳 イザラ書房

感覚的あるいは魂的な必要性からの行為には、自由はありません。低次の欲望や悟性的な望みを満たす際に、どれだけ気ままにふるまうことができても、それは、「自由」ではありません。自由は、「精神的直観(=理念的直観)を基盤とした行為」において現れるのです。

⑵ 人間はどのように自由を実現するか
① 自由な人間はより深い存在(本性/構成要素)において現れる
で紹介したように、誰の中にも、そこに自由な人間が現れ出るような、より深い存在(本性/構成要素)が宿っているのです。(註:理解が深まる訳を示していただき、前稿の文を改めました。)
② 真の人間概念(社会倫理的人間/自由な精神)を見出し、知覚像と結びつける
外界の事物においては、概念・理念と知覚とは、はじめから一体です。
しかし、人間においては、真の人間概念(社会倫理的人間/自由な精神)は、《人間》という知覚像とはじめから一体ではありません。
真の人間概念(社会倫理的人間/自由な精神)は固有であり、人間は自己の活動によってそれを自らの知覚像に結びつける必要があるのです。
それによって、自由は実現されるのです。
③ 真の人間概念と知覚像との結びつけは自力でやり遂げる
自由な人間は、自分の中に変容するための素材を取り込み、自力で、真の人間概念と人間の知覚像との結びつけをやり遂げるのです。
自然は人間を自然存在にし、社会は人間を規則に従って行動する、社会的存在にします。そして、人間は、自分という素材から自分で自分をつくり上げるときにだけ、自由な存在になりうるのです。
自由な人間は、社会規範(戒律)を動機として感じとるにとどまらず、内からの衝動(直観)に沿って行為することで、その規範を乗り越えるのです。

4 理念的直観は倫理(道徳)性に浸されており、自由と倫理は一つである
⑴ 行動の原動力を道徳的直観として定立するときに人間は自由である
シュタイナーは『自伝Ⅰ』で次のように述べます。

人間は、本能、欲望、情念などに基づいて行動する場合には自由とは言えない。この場合には、感覚世界の諸印象と同じように人間の意識に上ってくる諸衝動が、人間の行動を決定する。しかし、この時に行動しているのは人間の真の本性ではない。…人間は行動するにあたって、感性的な衝動や欲望を幻想としてつくりだす。このとき人間は、幻想に行動させている…。彼は非精神的なものに行動させている…
…人間における精神的なもの(霊的なもの)が行動するに至るのは、人間が己の行動の原動力を、感性から自由な思考の領域において、道徳的直観として定立するときである。…このとき人間は、自己自身に基づいて行動する自由な存在となる
(2:168)

『自伝Ⅰ』伊藤勉・中村康二訳 ぱる出版

「本能、欲望、情念など」や「感覚世界の諸印象」などの「非精神的なもの」が引き起こす行動には「自由」はありません。
自由でありうるのは、人間の真の本性である「精神的なもの(霊的なもの)」が行動するときです。そして、精神的なものが行動するのは、人間が自らの行動の原動力(動機)を、「道徳的直観(=理念的直観)」として定立するときなのです。

付記 「直観的思考」という用語について再び付記します。
直観的思考は、意識の場に導かれた思考の内容を指す場合は、「理念的直観」などと同義でした。(前稿)
直観的思考が、理念を意識の場に導く思考の「働き」を指す場合は、上記の「感性(感覚)から自由な思考」や「純粋思考」、「道徳的ファンタジー」などと同義です。

⑵ 本来の意味での人間において、自由と倫理(道徳)は一つである
自由な行為の原動力(動機)が道徳的直観として定立される際、思考は、「感性(感覚)から自由な領域に」ある必要があります。(上記の「感覚から自由な思考」です。)
人間の行為のこの原動力(動機)は、道徳(倫理)性に浸されています。
ここにおいて、自由と(社会)倫理(道徳)は一つであるのです。

自由とは、社会倫理的であることの人間的形式である(1:180)

人間本性を源流とする直観を自由において実現することによってのみ、社会倫理、そして社会倫理の価値が生じる(1:236)

社会倫理的人間(自由な精神)という真の人間概念(1:167)

『自由の哲学』森章吾訳 イザラ書房

人間が社会倫理(道徳性)性を実現する際の形式が、「自由」です。
つまり、「自由であること=社会倫理(道徳)的存在であること」に、人間の存在意義があるのです。
本来の意味での人間、人間という名にふさわしい成熟を遂げた、自由な人間においては、自由と倫理(道徳)は一つであるのです。

自由と倫理との関係を次のように段階的にとらえてみました。
私たちの日常の大半は、自由と倫理が相容れない(どちらかを立てればどちらかが立たない)段階と、自由と倫理が折り合う(どちらかを抑えたり、少し踏み越えたりして調整する)段階の内にあります。
そして、稀に自由と倫理が調和する(「七十ニシテ、心ノ欲スル所ニ従ヒテ(従ヘドモ)、矩(のり)ヲ踰(こ)ヘズ」『論語』)段階に至ります。
ところが、シュタイナーの言う「自由」はさらにその上をいっていると思えます。
それは、自由と倫理がお互いを高め合う段階です。自由であることによって、ますます倫理性が高まり、倫理性が高まるほど、ますます自由になっていく段階です。
この段階においては、最初の、お互いが相容れない段階とはまったく逆に、自由と倫理が一つになっていることがわかります。

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