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寝ながらシュタイナー『自由の哲学』(5/9)

Ⅲ 理念的直観の実現
1 自由な行為の「動機」としての理念的直観
⑴ 人間の生体機構の二重性(意志の自由の二段階性)
人類(人間)進化の方向は「理念的直観の実現(=自由)」に向かっており、進化途中の現在の私たちにも理念的直観の実現という意味で自由はあるということを見てきました。
理念(思考)が人間の生体機構・意識において直観され動機となり、そこから意志行為が発動する際、理念(思考)と人間の生体機構には次の二重性があります。

第一に、本来の思考は人間機構の固有の活動を抑制する。第二に、その空いた場所に思考自体が入り込む。…第一の(人間の)身体機構の抑制は思考活動の結果である(1:146)

『自由の哲学』森章吾訳 イザラ書房

このとき、生体機構内で生じることは、思考の本質(内容)とは関係がありません。ただし、(〈自我〉を含む)思考の活動は生体機構を介して意識に〈自我意識〉という痕跡を残します。
【思考(〈自我〉を含む)→《生体機構(〈自我意識〉が生じる)】→意志行為》という流れにおいて、思考内容(理念)を意識(生体機構)において受けとり(直観され)「動機」が形成されることと、その動機を意志行為に移すという二段階があることがわかります。
思考と意志の関係も、次のように二段階で捉えられます。思考の内容が、意志が自由になる力を与えるのです。

まず、直観的要素によって人間生体(機構)に不可欠な作用が抑えられ、その空いた場所に理念に満ちた意志の精神的活動が入り込む。これによって自由な意志が成り立つ (1:205)

『自由の哲学』森章吾訳 イザラ書房

自由は人間の思考作用の裡(うち)に生きているが故に、意志がそのまま自由なのではなく、意志が自由になる力を思考内容が与えてくれる(3:115)

『シュタイナー自伝Ⅱ』伊藤勉・中村康二訳 ぱる出版

2 意志行為の「動機」 
⑴ 「起動力(本間英世訳)「動因」
 シュタイナーは、意志行為の「動機」の概念・表象的要因を「動因」とし、人間の生体機構・意識的要因を「起動力」とします。動因が起動力に受け入れられ(結びつい)て、動機が成立します。
起動力は個人の常在的な規定根拠で、倫理目標に向けた行動を人間にとらせます。動因は意志のその時々での規定根拠で、倫理目標です。
シュタイナーはハルトマンに倣って起動力を「性格的素質」と呼び、次のように言います。

(動因となる)概念や表象が性格的素質にどのように働きかけるかによって、その人の営みには特定の道徳的・倫理的な刻印が与えられる(1:148)

『自由の哲学』森章吾訳 イザラ書房

ハルトマンは「性格的素質に従わざるを得ないので人間に自由はない」と結論づけますが、シュタイナーは起動力を四段階に、動因を三段階に分け、起動力の最高段階は性格的素質の範囲には含まれない、つまり生体機構を超えるとします。(矛盾的ですが、シュタイナーによれば、起動力(身体的要因)と動因(非身体的要因)の最高段階は「重なって」いるのです。)
このことによって、最高段階の動機=理念的直観が成立し、それによる行為が「自由」と言えるのです。
⑵ 起動力の四段階と動因の三段階
シュタイナーは、起動力と動因のそれぞれ同程度の段階どうしが結びついた動機によって、人間の意志行為を分類します。
●起動力の四段階
❶感覚知覚、衝動 (直接性がある)
❷感情
❸(通常の)思考と表象 (実際的経験
概念的思考純粋思考実践理性

個人生活の最高段階は、特定の知覚内容に関わらない概念的思考である。我々は、理念の領域に由来する純粋な直観によって、ある概念の内容を規定する。この場合、そのような概念はさしあたり特定の知覚との関係は少しも含んでいない(2:168)

『シュタイナー自伝Ⅰ』伊藤勉・中村康二訳 ぱる出版

概念的思考は、特定の感覚知覚の内容との関係をもたないという意味で「純粋」思考なのです。
しかし、生体機構をもち、感覚知覚する存在(人間)には、「純粋」思考は困難です。(路上に行き倒れている人の汚れ、臭い、傷口、膿などをものともせずに、活動したマザー・テレサをイメージするだけで困難さは理解できるでしょう。)
◎動因の三段階
⓵自分(他人)の満足感の表象(エゴイズム)
⓶倫理的概念の内容(倫理原則、倫理的権威、良心)
⓷倫理的洞察(倫理的営みに必要なこと(次の三つ)を求め、認識から行為する。)
 ⓷-1人類全体の最大限の幸福・福祉の追求
 ⓷-2文化的発展、または完全性に向けた人類の絶えざる倫理的発展
 ⓷-3純粋に直観把握した個々の倫理目標の実現
自分や他者が⓶倫理原則からはずれ、(違法ではなくても)⓵エゴイズムに堕していくのを見るとき、私たちは生きる力を削がれ、気が滅入ります。また、⓶倫理原則の枠内で上手くやっている人に対して、憧れや嫉妬心を抱くことはあっても、人間的高揚を感じることは少ないのではないでしょうか。
これに対して、⓷倫理的洞察は、ある行為の規準が動機として作用する根拠(理由)を洞察するものです。権威づけられた倫理から、倫理を完全に個人が洞察(体験)することで、いわば倫理原則を上方(⓶から⓷)へ超えるのです。これは、倫理における進歩と言えます。そのような人間を見るとき、私たちは人間的高揚を覚えるのではないでしょうか。
ただし、⓷の内でも例えば⓷-2の文化的発展において貢献・活躍するためには、(前人未到の取り組みをするスポーツ選手や芸術家などをイメージするとわかりますが)天賦の才能やふさわしい環境など、まだ感覚的・物質的なものとの関わりが必要だと言えるかも知れません。
ところが、⓷-3純粋に直観把握した個々の倫理目標においては、感覚的・物質的なものとまったく関わることなく、各自が他の誰にもない自らが把握した倫理目標の実現に向けて行為することができるのです。
この事実は、私たち人間一人一人に対する大いなる励ましとなるはずです。
⑶ 起動力の最高段階(概念的思考)へ至る — 意識の拡充
概念的思考に至るために必要なのは(自己)意識の拡充です。
「概念的直観を(純粋に)受けとることができる人間本性(構成要素)」、「自由な意志を展開し得る魂の領域」を見出し、育んだり、目覚めさせたりすることです。(この人間本性や領域はしばしば、赤ん坊や種子(萌芽)あるいは、眠っている状態にたとえられます。)
そのことで、「自由な人間」が現れる本性(構成体)が自らの奥深いところに存在すると気づくのです。意識を拡充し、身体性を超えた本性を自らの内に見出すのです。
次稿では、このことに関連して、『自伝』の「人間意識の自己了解(理解)」を紹介します。
⑷ 動因の最高段階(純粋に直観把握した個々の倫理目標の実現)へ至る - 思考の強化・高貴化

倫理的法則は本来、…、それが戒律として人間が置かれている外的環境から人間に課される場合には、…人間の内的な倫理的衝動となることはありえない。人間が戒律に含まれている思想内容を霊的=本質的なものとして、完全に個人的に体験することによってのみ、それは倫理的衝動となり得る (3:115)

『シュタイナー自伝Ⅱ』伊藤勉・中村康二訳 ぱる出版

⓷-3純粋に直観把握した個々の倫理目標の実現に至るためには、私たちは、日常生活の中の倫理的法則に含まれている内容を「霊的=本質的なものとして」「完全に」「個人的に」「体験する」ことが必要となります。
そのためには、思考が「感覚から自由になって」いなくてはなりません。感覚(的なもの)から自由になることで、思考は、本来の力を取り戻し(強化され)、純粋になる(高貴化される)のです。
次稿では、このことに関連して、『自由の哲学』第一部の「思考の観察」を紹介します。

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