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寝ながらシュタイナー『自由の哲学』(2/9)

寝ながらシュタイナー『自由の哲学』

Ⅰ 「自由な人間」とはどのような人間か その2

 本稿では、第13章と第14章にある「自由な人間」、第9章の「自由な人間の基本命題」について紹介します。

3 〈善の理念〉が自己の本性の内に移動した人間 【13章】
自由な人間にとって、は、為すべきことではなく、行いたいと欲する事柄です。
彼が、善を実現しようとするのは、それが彼にとっての最大の喜び(快)だからです。彼はただ自らの欲求を満たそうとするだけで、よい(善い/倫理的である)のです。
これに対して、未熟な人間(未自由な人間)の〈善の理念〉は、彼の外にあります。彼の内なる本性は〈本能=低次の情念〉がすべてであり、この〈本能=低次の情念〉を満たすことが彼の喜び(快)です。
未熟な人間に対しては、外から善を押しつけるのではなく、彼自身の成長・成熟を待つ必要があります。彼は、〈本能=低次の情念〉が社会倫理的本性によってうち破られるところまで教育され、自ら精神的欲求をもてるように、成熟を促される必要があります。
シュタイナーは、成熟し、理想に向けて発展を遂げた人間を想定します。自由を認められない人は、そのような人間を想定できず、人間は結局のところ低次の情念から逃れられない存在だと決めつけているのです。
ライプニッツの楽観論を、シュタイナーは神の庇護の下での生においては認めます。しかし、近現代における成熟した人間は、神の庇護によってではなく、たとえ苦が多くとも自らが自らに与えた目的を生きる存在であり、そこに生きる価値を見出す存在であるのです。
ショーペンハウアーの哲学では、人間は満たされることのない意志衝動(欲求)によって苦しめられ、かといって意志衝動(欲求)をなくせば、退屈に陥ってしまい、さらに苦しむとされます。そのため人間は結局、無作為、怠惰に陥ってしまう(厭世)のです。
これに対して、シュタイナーは、ショ―ペンハウアーは、たとえ、欲求が完全に満たされなくても、「全力を尽くした」という喜びがあること、欲求自体が生きる価値となることを見逃している、と言います。
エドゥアルト・フォン・ハルトマンは、人間の目を低次の欲望から高次の望み(神を救済すること)へと強制的に向けさせようとします。
シュタイナーは、人間が自ら高次の望みに目覚めるのでなければ、本当の言意味でニヒリズムを乗り越えることはできないと言います。
また、ハルトマンは、人生においては快よりも不快の方が多いとしますが、シュタイナーは、人生の価値は、快・不快の量によって決まるのではないとします。快・不快の量によって決まるのは、せいぜい、仕事後の娯楽など、どうでもよい選択に関わるものだけだと言うのです。(功利主義への対抗でもあり、またここにあるのは「選択の「自由」」の問題です。)
自らの人生の目的を見出した人は、たとえ苦(不快)が快を上回っていたとしても、快・不快を自らの欲求と関係づけることで、そこに人生の価値を見出すのです。(森章吾氏による興味深い数式(1:227)もぜひ参照にしてください。)

4 類的なものから自らを解放し、個的なものを発揮できる人間 【14章】
自由な人間は、類的なものから自らを解放し、彼自身の個的なものを発揮できる人間です。(ただし、これは、「わがまま」や「奇抜・風変り」等とは何の関係もありません。)
私たちは自らの内に、年齢や性別、人種などといった類的なものと、それとは別に、自身に固有の個的なものとを抱えています。
類的なものと個的なものは、単に並列的・対立的に存在しているのではありません。自由な人間は、類的なものを土台、媒介(手段)としながらも、(逆説的ですが)それらから自己を解放し、自らに固有の個的なものを発揮できる存在です。
例えば、話をする際に、話の内容や話し方・言語は類的なものを手段としながらも、自らに固有の個的な話しぶりの中で相応の内容を話すのです。その際、個の発揮が間違った方向でないことは、個的なものが類的なものをどれだけ克服しているかにかかっています。
これに対して、未自由な人間は、類的なものから自己を引き離すこと、解放することができません。そのため、彼は類型的な話の内容や紋切り型の話し方の中に自らの個を埋もれさせてしまうのです。彼は自らの個的なものを発揮させることができません。
自由な人間は、類的な要素を無意識に垂れ流すのではなく、それらをより優れた手段として磨き上げながら、最終的にはそれらから解放され、自らに固有の個的なものを発揮していく存在なのです。
(以上の内容は、インド哲学におけるサットヴァ状態(〈プルシャ(魂)〉がその〈覆い〉に対して優位である状態)を意味していると理解されるでしょう。しかし、後期の仕事を見ればわかるように、シュタイナーはこのサットヴァ状態からの解脱、そしてその先についても見通していました。)

5 自由な人間の基本命題 【9章】
シュタイナーは、「自由な人間の基本命題」を次のように表現します。

行為への愛において生きること、そして他者の意志を理解しつつ他者がそこに生きるのを認めること(他者をそこに生かすこと)(1:165)

自由な人間は、自身の内に行為の根拠である行為への愛を見出します。そして、行為への愛が彼を導きます。自由な人間の為《すべき》は、直観において、彼の《やりたい》と調和する為《すべき》なのです。
また、自由な人間は、他の自由な人間の意志を認め、共存します。彼は、他の自由な人間が自分と同じ一つの精神世界に属しており、彼の意図においてその人と出会うことを信頼しつつ生きています。そのため、自由な人間同士においては社会倫理における誤解や言い争いはなく、真の共同生活が成り立つのです。
自由な人間は、個々の状況でその場面に応じた社会倫理原則を体験できます。彼は、真の意味で個人としての意志を実現します。なぜなら、個々の状況で決定される行為において、ふさわしい直観を完全に個的に見つけ出すことができるからです。

以上、「自由な人間とはどのような人間か」について、後半の章から2回にわたって紹介してきました。
すでに述べたように、思考のトレーニングの後に、またはそれと並行して読むことで理解は深まるはずです。しかし、それなしで読んでも、「自由な人間」のイメージがよりはっきりし、自らの自由への意志が目覚めさせられるように感じられたとすれば、それは、このような記述を読むこと自体が、私たちにとって、「自由な人間」へ向けての自己教育となっているからです。
次稿では、『自由の哲学』の「自由」とは何か、について紹介します。

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