【小説】映るすべてのもの #5
「ちゃんと水のんだのにな……」
ベッドによこたわり右手をひたいにあてながら瑠衣がぽつりとつぶやく。
「かるい熱中症かしらね。昨日は日ざしがつよかったしねえ……」
母みゆきはスポーツドリンクのはいったコップを瑠衣に手渡した。
「今日はゆっくりやすみなさい。あとで果物でも持ってくるから」
「昨日バナナも食べたのになあ~」
「そういうことじゃないでしょ」
ほほえみながら瑠衣のほおをちょんとつついてみゆきは部屋から出ていった。
里穂の陣中見舞いにいったばかりなのに今日は瑠衣が欠席だ。からだの操縦のむずかしさを感じるたび、後悔に近いくやしさやあきらめの感情がこころの奥底でわくのはしょうがない。しょうがない+しょうがないなので、とっくにあきらめていることだがたのしくはない。けれどあきらめたいまでは悩むことはなくなったぶん心はかるい。
あきらめるってわるくない。ひらきなおってるわけでもない。ハンドルを切り替えるようなものだ。運転免許も所持していないが瑠衣はそう考えるようになった。
じぶんの体力のなさや筋肉のなさに気づきはじめた小学6年生あたりおもいつきでマラソンのまねごとをしてみたことがある。マラソンの意味もイロハもしらずとりあえず近所を走ってすぐこころがおれてやめてしまった。
「普通になりたい」体力がないということも世間の同世代にくらべて、というだけで瑠衣はさぼってるわけでもなまけているわけでもなかった。
それどころか一生懸命、世間の一日や学校にあわせようとしていた。子どもは元気が当たり前で元気でない子どもはなにかしらの病気があるかのような勘違いをしていた。
──体温計みたいにしんどさをはかる機械があればいいのに。
そういうものが仮に発明されてしまったらそれはそれでトラブルがあちこちでおこるだろうことは想像にかたくない。自称に証明がつくとロクなことがないことは、ここ最近の世間のうごきからでもわかる。多様性をつかいこなすことは人間にとってまだはやそうだ。劣等感がいきなり優越感に化けるとひとは大抵よっぱらってしまう。その逆もしかりで。
くらべるということも悪くない。足のはやいおそいもそうだが、だれかとくらべないとじぶんがどういうじぶんなのかわからないからだ。
そしてはやいがいいわるいではないけれど、そこでわきあがる感想たちがじぶんのことをすこしずつ教えてくれた。平熱があるから発熱がわかるように。その平熱じたいもひとによってひとこまかに違うということに。
じぶんはこういう人間だとはすぐにはわからないし、あたらしいじぶんも価値観もどんどん生まれていく。じぶんを生で一生見ることができないことを考えだすとすこしこわくもなる。
里穂のすがたを瑠衣は生で感じとることができる。里穂だけではなく周囲にいるひと、通りすがるひとたちもだ。でもじぶんもそのひとたちもじぶんの部分部分は見えるのに、他人を生で見るようにだれもじぶんを生々しく感じることができないことを不思議にも思う。
その延長線からきたひとり遊びをいまもときどきやってみる。
道端で出会ったひとをじぶんに置き換えてみる遊びだ。あちらからあるいてくるひとをじぶんに置き換えイメージをふくらませるだけの。だけどどんなに頭を回転させてもはっきりとしたイメージができないことに気づくおわりのない遊び。
いま、こうやって考えてるじぶんをだれかがのぞいていたら──
そのすがたはじぶんのイメージしているじぶんとはきっとまた違うんだろうな。瑠衣は寝がえりをうった。
もし足のはやい子より足のおそい子が勝ち、という競争があったらどうだったろう。ひょっとしたら瑠衣は運動会がきらいになっていなかったかもしれないばかりか高確率で運動会の日がすきになっていたことだろう。
さらには走ることがすき!なんて公言していた可能性さえ浮上する。
ほんとうは「すき」にひとよりできるできないは関係ないのだ。昨日、川沿いをあるいたときにすれちがったジョギング中のおじさんはたのしそうだった。たしか以前にも見かけたことがあるおじさんはだれとも競争はしていない。あのおじさんの足がはやいかおそいかなんてしらないけれどいつもたのしそうにしている。あのひとは走ることがすきなだけだ。
そして瑠衣はそのたのしさをしることができないし、すきではないけどいつかすきになったりするかもしれない。すきときらいはなにかの拍子に簡単にひっくり返る。瑠衣のひたいに貼ったシートが枕におちた。
*
「──ねえねえ、瑠衣ちゃん大丈夫かしらね。昨日早瀬さんのとこの『折りたたみミラーさん』から連絡があったんだけど」
母みゆきの鏡台がそろえた指をこきざみに上下にゆらした。
「……なんだよ。そのちょっとちょっと奥さん!みたいなノリは。で? 折りたたみミラー? ああ、あいつか。黒くて長四角の。なぜかいつも本にはさまれてるあいつか」
瑠衣の卓上ミラーはねむそうだ。
「あいつなんていうもんじゃないわよ。あのひとはあんたより先輩よ!しかも女性にたいして失礼な」
じろりと鏡台は卓上ミラーをにらんだ。
「あーごめん、ごめん。鏡台さんは瑠衣のこと心配しすぎだよ。いくら孫のような存在だからって……」
「だれが孫よ! だれがいつのまにおばあさんよ! 失礼な! ムキーッ!!!」
「またか。おまえたちはまったく仲がいいんだかわるいんだかよくわからんな。どうでもいいが、おまえたちに話がある。それからこの話をきいたあと、おまえたちが通信できるかぎりの鏡たちに連絡をとばしてもらいたい」アンティーク調の姿見鏡がいった。
「どうしたの、長老」
「ん、なんだ?」
「……おまえたち、ここにこう……力をこめることができるか? 中心の奥に意識をためることがコツだ」姿見鏡が手本を見せた。
「……なにこれ。できる!」
「できた!」
「そうか。やはり鏡族が人間語を話すより、これはずいぶん簡単なようだな。それではいま、これからつたえよう。ふたりともよくきいてくれ」
三つの鏡が真剣な表情になった。
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