見出し画像

プロローグ:ベトナム料理せえへんか?

 「ベトナム料理店せえへんか?」1996年夏のころ。職場の社長からの一言。
「それは面白そうですが、なんでですの?」私は0.数秒で『面白そうやんほんまにぃやってみたいやん。楽しそうやん。ベトナムにも行けるやん!』と心の中で早口で呟きながらも、社長に悟られまいと平常を装い(これをポーカーフェイスというんやね)不思議そうに聞いてみた。
「あんたも知ってるTさんがな。ベトナム料理店やりたいっていうたはんねん。」「ほお?」Tさんは当会社の役員で、当時着物製造の会社をベトナムに所有していた、絞りの着物作家さん。『なるほどね。Tさんがね。グルメやもんね。老後の楽しみにやりたいのやろか?』
 私は1994年に主人と結婚。彼は高校の同級生。といっても高校の時は話したこともない。私達の高校はラグビーの名門校。ラグビー部員の顔は誰しもが知っていて当たり前という感じだった。私も彼の顔は知っていたし、なんとなく通り過ぎたり学食で見たりしていたし、知っていた。いつも笑顔でやさしそうな人やなーと言う感じ。今思うと、他の人より良く目に入っていたかも?(まさかこの時から何かの糸が繋がっていたのかもね・・・)
 高校を卒業して数年。ラグビー部のマネージャーをしていた親友に「車出してくれへん?」と頼まれて、行った先がラグビー部OB会の草ラグビー試合会場。OBチームのまとめ役をしていた彼と再会。(といっても彼は私のことを全く知らんかって、高校時代も眼中にはなかったらしいけど。)
それから、何度か親友に頼まれてOB会に連れていかれ、彼と話しているうちにくっついた。と言う訳です。まあ、くっつくまでにもいろいろあったけど、それはまたの機会に。

 当時彼は洋食店で働いており、将来はペンションみたいな宿泊施設を営んでそこで自分の作った料理を出すことが夢!と語ってくれた。
私も同じ夢を持っていて、意気投合!
私は料理出来ないので、シェフを捕まえてパートナーにするぞっ!と思っていたので好都合だった(笑)
一緒の夢を追いかけよう!!そう誓って結婚したのでした。めでたしめでたし。。。

さてさて、結婚後私は勤めていた会社を退社し、彼の働くレストランでお手伝い。傍にもいられるしね、幸せな時間。
 レストランは京都大学近くにある洋食屋さん。始めて彼が作ったハンバーグとクリームコロッケをそこで食べた時に衝撃を受けた。
なんて美味しいの!!!
元々私の実家は食べるのが大好きで、美味しいよーと噂になる食べ物屋さんはもちろんの事、家族それぞれがお気に入りの場所があって、月一で出向かうのが習慣になっていた。旅行先でも食べる事優先!って感じの家族だったので、私の舌も多分やけどいや、きっとええ舌してると思ってる。
ずいぶんいろんなところのハンバーグやコロッケ食べてきたけど、ほんま衝撃的に美味しくて、この人と結婚したことは間違いやなかったし、この人の美味しいお料理は全世界の人に食べて貰わなあかん!!と思った。
ペンション絶対するねん!!と心に誓った。

 その頃、このレストランがお弁当販売を京大前でする事になり、朝早く起きて仕込みをし、11時過ぎには京大時計台前でお弁当ワゴンを出す事になる。
今現在も、京大前には多数のお弁当屋さんが車やワゴンで出店しているが、私が初めての売り子なんですよ。300個いや、600個位は2時間で売ったなあ。
当時は京大の冊子にも掲載して頂きました(まあこの話はええとして)

そんなかんなで、結婚生活が過ぎていき、元いた会社からお声がかかり働きに行くことになり。。。そこで、社長からの申し出、ベトナム料理のお店やらへん?と繋がるのです。

 「ベトナム料理店してみいひんか?と寺田さんが言うてはるのやけどな。どうかな?」
当時、ベトナムに旅行する人も少しずつ増えてきていて、帰ってきたお客様からは、お料理が美味しかったよ。と聞かされてはいた。生春巻きくらいしか思い当たらなかったけど、なんとなくピピッっと来たんやね。そうなんかピピっと。ビビッとでなくてピピっと。
うんうん。ペンションやりたい。その前に飲食店でもええんと違うかな。
ベトナム料理店はまだ少ないし、やってみる価値ありやん。
ペンションや料理店したい言うても、どこかの星付きレストランで修行したわけでも、料理学校にかよって優秀な成績やったり、賞を取ったりしたシェフでもないし。知名度0やん。
それなら、まだ誰も知らん料理やった方が、ビジネスとして成り立つんと違うやろか。やっぱりピピっとくるやん。
頭の中をぐるぐると考えやらなんやらが回ってるけど、
「やりますわ。」
「帰って旦那に相談して。。。えと旦那にやってくれるよう言いますわ。」
意識より先にそう口がしゃべってた。
「ほんまに?それは喜ばはるわ。返事まってるから。」と社長のもともとにやっとした男前の顔が、さらにニヤッと広角が上がり、目じりが下がった。

 家に帰り、彼に今日あった事そのまま告げる。
「ベトナム料理店やるし。」
「え。決めてきたん?」
「そうやで。決めてきたん。」
「絶対ええと思うねん。あなたの作るお料理はほんまに美味しい。それはやっぱり天性のものやとおもうねん。でもな、考えてみて。どこかの星付きレストラン出身のシェフがレストランオープンしました!っていうたら皆行くやん。そやけど、なんでもないあんたがオープンしました!言うてもな。そうなんやーーで終わるやん。でもな、ベトナム料理店オープンしました!って言うたら、えっ!ベトナム料理店!一回行ってみようや!ってなるやん。
とりあえず、一回目は興味を持って来てもらう事が大事やと思うねん。
それで、一回食べてもろたら、きっと美味しい!って思ってもらえるはず!あなたのお料理はほんまに美味しいんよ。お客様も絶対そう思うはずやし。
最初はあなたの名前がメインになる料理店ではないけど、そのうちきっとあなたのお料理が好きってなる!
 それに、Tさんがやってくれって言うたはる訳やし、私らが用意しなくてもええやん、言い方悪いけど人の資金でお店やってみる事出来るなんてなかなかないチャンスやと思うで。な?」
「そやけど、食べたことも、行ったこともない国の料理屋で。」
「大丈夫やって、すぐに覚えると思うし、ベトナムにも行かしてくれ春はる思うし(知らんけど)」
「ほな、とりあえず話聞きにいってみるわ。それでええかな?」
可もなく不可もなく彼はとりあえず。。。社長の元へ行くことになった。

 社長のとTさんと彼との間でどんな話があったのか?
今でははっきりと覚えていない。
 決まったことは、ベトナム料理店を東京日本橋にある寺田さんの所有するビルでオープンする事になる事。その前に、ベトナムへ研修旅行に行かせてもらえる事。ベトナムでは寺田さんが選んだベトナム人シェフにお料理を教えてもらえる事。オープンと同時にシェフを連れて帰ってくる事。

 彼も乗り気になり、社長達との話も進んでいく。
そんな時、持病であった腰痛がひどくなり、私ね。寝込んでしまうようになり始めた。整骨院や病院を渡り歩くも改善せず。
 結婚して将来ペンションやりたい!と誓い、実現するためには資金がいる。実家の後ろ盾もない(この件に関してはまたどこかのお話で)私にとって、自分で稼ぐしかない。彼は料理見習いの為、お給料は決して多くない。
私が稼がなきゃ。彼のレストランのお弁当売りを手伝いながら、時々古巣の旅行会社、そしてもう一つ保険会社の外交をしていた。ちょっと無理が祟ったかなあ。20代やから大丈夫と思っていたが。

そんな時、幼馴染のYさんが「いとこがね。テニスプレーヤーなんやけど、最近腰の手術したんよ。なんでも、第一日赤にそういうスポーツ選手を診てる先生がいてな。ええらしいし、紹介してもらおうか?」と言ってくれた。ありがたい。是非にとお願いしたら、すぐに診てもらえる事になった。
 先生の診察によると、椎間板ヘルニア。腰の神経が切れかけていてとても危険な状態だとの事。すぐに手術しましょう。と。
 ベトナムに行く2ヶ月前の事だった。

 12月クリスマス前の入院そして手術。先生に「クリスマス前には家に帰してな。まだ新婚やし。来年からは店して忙しくなるから。今年はゆっくり過ごしたいの。先生お願いね。」とせっつくと「はいはい。元気やなあ。分かった。分かった。」と笑っていらした。 
 
 滅多に病気をしない丈夫な私は、薬も滅多に飲まないせいか。
麻酔がすごく効いて。すぐに眠りに落ちた。初めての麻酔。醒めかけてうつろうつろしているその時、耳元でガサガサっと物音。何なん?声を出したいけど。「美味しそうやん。ひとつもらおかな。」旦那さんの声。
なんの事やら分からず、また眠りに入った。

 麻酔からすっかり目覚め、枕もとの棚を見ると見慣れたケーキの箱が置いてある。私の大好きなケーキ屋さんの箱やん!早速開けてみるとあれ?
 大きい隙間があるやん。ははーん!耳元のガサガサっは、これ食べたなーー。
 Yさんともう一人の幼馴染のTが私の為に、「目覚めたら大好きなシュークリーム食べてね。」と持って来てくれたらしい。それを、私より先に
頂くなんて!怒!やわっ。
で、もちろん病室で夫婦喧嘩勃発!食べ物の恨みは怖いんやでーーー。
 同室の奥様には「仲良くてええわーー。」と言われましたが。。。

 さて、そんな術後の私でしたが、術後すぐにリハビリが始まり、あんなに痛かった腰としびれていた右足が噓のように治っていて。
さすが名医!ありがとうございます。それに、手術跡も「まだ若いお嬢さんだからね。小さーく切っといたよ。」と先生。見て見たら、1㎝位の手術跡はほとんど分からないくらい。さすが名医!お気遣いいただきありがとうございます。
 そんなこんなで(もっと面白いエピソードが、病院でいろいろあったのですがそれはまた次の機会に。そればっかりやん(笑))無事クリスマスまでに退院したのでした。

 ベトナム料理店開店の為に、いざベトナムへ!
私は腰の術後の為、大事をとって彼だけが行くことに。
彼は新婚旅行以来の海外旅行。それに、一人で(実際はTさんも一緒ですが)行くのは初めて。
 出発の日は、京都では珍しい大雪ーーーー!
関空までいけるのか????想像通り、一筋縄ではいけず。JRは止まるし、阪急電車に乗って大阪まで。そこからラピートに乗って関空へ。今みたいにグーグルさんも無いし、手探りで乗り継ぐ。
ぎりぎりの時間で関空に着いたらしいけど、関空は雪もなく。
京都のあの雪、なんやったんーーーと思ったそう。
 珍道中の始まりであった。

 ベトナム航空の中、Tさんはビジネス。彼はエコノミー。なんでやねん。と思ったそう(笑)
 
 ベトナムに着き、Tさんの会社事務所へ。
ベトナム人しかいないし、片言の日本語でコミュニケーション。
 Tさんが数十名の中から選んだというシェフ、フォンさんと対面。
フォンさんとはこの時から、現在まで長い付き合いとなる出会いの瞬間であった。
 ひとつ年下のフォンさんは、弟のようで気が合ったらしい。
日本に来るために日本語も学んでいて、片言ではあるが意志の疎通には困らなかったそうだ。
 フォンさんから、ベトナム料理のノウハウと真髄を学ぶにつけ、興味深く、中華料理の美味しさとフランス料理の良い所をうまく融合させ、もともとあったベトナム料理とうまく調和していて美味しい。ベトナムのイメージがガラッと変わったそうだ。そうそう、彼が出発前に思ってたベトナムのイメージは、まだ菅笠をかぶって、草むらに暮らす民族・・・と言うイメージだったそう(ベトナムの方ほんますみません!)
 機内からベトナムの大地が見えてきた時、オレンジ色の電灯がずーーっと続き、オレンジ色に輝く屋根がキラキラ光って見えたそう。
 街中は、フランスちっくな建物が立ち並び、放射線状に続く道路も美しかった。沢山のバイクが走り、クラクションを鳴らしていた。当時は、またいで乗るタイプのバイクが多かったが、現在はスクータータイプが主流になっている。
 美しい建物と、優しい人たち、美味しい食べ物にすっかり彼はベトナムに魅了されたそうだ。

 そんなある日、夜中に激しい腹痛で眠れず。。。ホテルのスタッフに辞書を片手に伝えたら「これ塗っとくと治るよ。」と言われ、タイガーバームのような塗り薬を渡されたそう。
確かに塗るとちょっとましになった気がするが、つかの間また激しい痛みがやってくる。何か食べたものにあたったらしい。
 トイレにこもっていたが、またホテルのスタッフに連絡したら、そんな大変だったんだ!とやっと分かってもらえ、濃ーいお茶を作って来てくれたそう。濃ーいお茶には生姜が入っていて、飲んでみて。と言われ、その苦くて辛いお茶を飲んでみたら、なんとなんとよじれていた胃と腸がすーっとほぐれていくのを感じたそう。そして数分経つと、痛みも弱くなりやっと眠れたそうだ。スタッフに「薬は無いの?病院に行きたいんだけど。」と伝えたら「あなたは死ぬの?病院に行くのは死ぬ人だけ。」と言われたらしい。
 まだ、この時代のベトナムは自然の力と知恵で治していたみたいだ。

 彼が帰って来る一日前に、一通のFAXが私の元に届いた。
彼からの手紙。なんと書いてあったか今では定かではないが、『窓から見える景色がなんたらかんたら、、、』と言う始まりであったかと。詩人のような手紙やった事だけ覚えている。

 彼が帰国してから東京店開店まで、ばたばたーっと時は過ぎ。何があったか。覚えていなし。人は忙しすぎるとその後忘れてしまうのだろうかな。

 そうこうしているうちに、引っ越しをしそのまま東京に移り住む日がやって来た。
 彼と二人夜行バスで東京駅まで。荷物は引っ越し業者が持って行ってくれるので身軽だった。早朝、東京駅のバスターミナルに着く。今と違って、バスターミナルと呼ぶのかどうか。路上にバスが到着するだけの場所があり、辺鄙で寂しい感じだ。
 東京駅から地下鉄を乗り継ぎ、日本橋へ。
地下鉄の階段を登り、路上に立った。早朝の薄曇り、まだ肌寒い3月。
彼と二人空をみつめながら、、、
 観光や父の出張などで来たことは数回あるけれど、これからここで生活をし、お店を持つのだ。
なんてワクワクするのだろう!なんて面白い事が始まろうとしているのだろう!知らない場所での生活、きっと見たことのない世界があるのだろう。好きな彼と二人で築いていく未来!なんて楽しみなのだろう!
 私の中は高揚感と期待に満ちていた。なんの不安もなかった。もともと、何かを始める時に(今でもそうだが)不安とか怖いとか言うのを感じる事があまりない。これは性格なのか?
 後で知った話だが、彼はこの時不安でたまらなかったそうだ。どうなっていくのだろう?知らない土地で。。。と。

 東京の店舗になるビルは、Tさんの持ち物で日本橋1丁目にあった。
地下一階から地上4階建てのビル。
チンタオの石で造られている建造物は、まるで美術館のようでビルと呼ぶより建造物と呼んだ方がふさわしい建物だ。
敷地面積は15坪位。
 間口は2間以上あり、左側に入口、右側半分はガラス張りの大きなショーケースになっていて、まさに美術館の絵画を飾るようなスペースになっていた。
 玄関は3段ほどの石段があり上ると玄関の間口になる。
玄関ホールがそのまま一階の部屋になり、真ん中には伽羅の香木が飾られていた。子の香木だけでもおいくらするんやろう?

 玄関ホールの左側に地下への階段があり、右側には2階へ上がる螺旋階段と2階からは3階に上がる階段がある。二階は、ロフトのような空間。ここには大テーブルがおいてあり、6人ほどが座る事が出来る。
 厨房とレストランは地下の部屋で席数は14。小さな店舗でだった。
 
 先に来ていたフォンさんが、思いっきりの笑顔で出迎えてくれた。
「よお!フォンさん!」彼は駆け寄る。手を伸ばしながら、フォンさんも近づいてきて、よろしくな!とばかり、肩を寄せた。
 そんな二人を見、ベトナムでの滞在期間、二人の関係がどのように築かれてきたのかわかる瞬間であり、安心した。兄弟のような二人に見えた。

 私はフォンさんとは初対面の為、その光景を見ながら挨拶する間を見計らい、近づきながら、「はじめまして。よりこです。宜しくお願い致します。」と握手を求めた。
 フォンさんは右の手で私の手を取りその後左の手を添え、ぎゅっと握りしめた。その後、左の手を自分の胸にあて「フォンです。宜しくお願いします。」と日本語で話し、会釈した。
浅黒い肌、七三訳の髪型、照れくさそうで控えめな笑顔、そしてどこか品のある優しい物腰の彼が私の出会う初めてのベトナム人となった。

 ところで、この時まだこの建物はレストランとしての機能を全く持ち合わせていなかった。これから、創るのだ!この3人で(Tさんもいるけど)一から。

 次の日、早速厨房設備などを注文する為、合羽橋に向かった。
当時、何度も言うがスマホやインターネットが無い時代。なんでも出向いて、人に聞いて探さねばならない。東京で厨房と言えば、合羽橋やろうと向かった。

 合羽橋のとあるお店に入り、京都から店をする為に東京に来た事。これから何もない所から設備を整え、開店しなければならない事を話した。
 「そうかいそうかい。よっしゃ!!わし達に任せなっ!」とご主人。
まるで映画の寅さんを見ているような会話。
 「予算があまりないので、お安くお願いします。」とこちらは、関西風(なんでも値切る(笑))。
  近所付き合いをせず、冷たい。勝手に描いていた東京のイメージ。
いやいや、違うやろ!全然違うやろ!と心の中で呟いた。

 東京での住まいは食堂の2階にあるアパート。
一階にある食堂のオーナーさんも、夜遅く帰る私達に労いの言葉や「美味しそうなイチゴあったから、どうぞ。」と、何かと気にかけて下さる方だった。
 東京。粋で、他人を思いやる江戸っ子が暮らす温かい街だと知った。

 そして、合羽橋のご主人のおかげで店舗工事が進んでいった。
同時に今度は仕入れ先を手配する。またまた繋がりのないここで、彼が奮闘する。
 ある時は、店の前を通り過ぎようとしているお酒屋さんらしき車を追いかけ、「すみません!ちょっといいですか?今度店をオープンする事になりまして・・・」と声をかけた。営業のお兄さんは「配達中に声かけられたのは初めてです(笑)」と笑っていらしたけどね。
 またある時は、築地市場に数回通い、海鮮業者さんに声をかけたら「最近何度かここに来てる人だね。なんか用かね?」と聞かれたそう。「はい。日本橋でお店をする事になりまして、仕入れ先を探しております。」と伝えたら「京都から来たのかい。若いのに頑張るねぇ。」と快く承知して下さったとの事。
 あとで分かったが、この大手海鮮業者さんは私達のような小さなレストランとはあまり取引しない大手業者さんやった事。恐れ多くもそんな業者さんに取引して頂けた事。怖いもの知らずとはおめでたい事やなと思う。ほんまありがとうございました。

 そうして、彼の人柄で必要な業者さんも一通り揃った。

 レストランの名前は「VIETNAMESE RESTAURNT XUAN」ベトナムレストランスアンとTさんが決めた。
 XUAN(スアン)はベトナム語で『春』と言う意味を持つ。
なんでXUAN(スアン)になったのか?は、数年後にTさんの息子さんから聞く事になる。(またこれは別の機会に。)
 店のテーマカラーはオレンジと青。
オレンジは彼がベトナム研修の際、空から見たベトナムがオレンジにきらめいていた事。太陽の色がオレンジ色だった事。青はベトナムの焼き物バッチャン焼きが美しい藍色であること。ベトナムの空が透き通るような青だった事。にちなむ。

 彼が走り回っている間、私はインテリアの為の什器を揃えたり、チラシを作ったり、ご近所への挨拶回りなどを担当していた。
 当時、パワーポイントなどと言う便利なものが無い時代。手書きのチラシを作って、コピーする。絵心はないけど、必要な項目を入れ、何とかいい感じにチラシが出来上がった。もちろんテーマカラーのオレンジを使って。

 ご近所と言えば、お向かいに、パンやお弁当やお菓子などを販売しているお店があった。そこのご主人と奥様も、お商売がしやすいようにとご近所に伝えて下さったり、オープンしてからはお客様を送って下さったりと、とてもよくして下さった。
 
 玄関、ガラス張りの一角には店名の入った看板が入り、お店らしくなった。
 
 ベトナムから届いた食器類は、ベトナム北部ハノイ近郊バッチャン村で作られている焼き物でのバッチャン焼きと呼ばれる焼き物。

 Tさんが現地でチョイスして購入してきた物だ。当時バッチャン焼きの絵付けは赤系と青系があった。Tさんは両方の色をチョイスして購入したそうだが、残念ながら赤い方は釉薬が日本の規定に通らず、輸入する事が出来なかった。その為、青だけが届いた。
 たいそうな木箱に入れられた、初めて見るベトナムの焼き物は、白地に藍色と青の間のようなきれいな青色で、トンボや菊の花、葉っぱ等が一つ一つ職人さんの手で描かれていた。
 それにしても、重いーーーー。当時のバッチャン焼き、型で作らず一つずつ手仕事で作っている為、分厚くて重かった。
 でも、手に取るとしっとりと手にくっつく感覚と、手作りの温かさを感じる器たち。お椀に大小のお皿たち。はなびらをイメージしたような形のボウル型等に魅了されてしまった。

 彼とフォンさんとのメニュー作りも始まった。
現地にはあるが、こちらにはない食材を何でまかなうか?
調味料は日本人の口に合うのか?
 試作品を作り始める。ベトナム研修時に、大体これなら日本で作れるかな、これは出来ないな。などと二人の間である程度の構成は決められたみたいで、試作も思ったよりもスムーズに仕上がっていく。
 試作は試食しなければとTさんもやって来た。

 ある時Tさんに「ちょっといいかい?」と呼ばれた。なんだろうと二階ロフトの部屋へ。
 「これ着てみてくれへんか。」と渡された小包。
 開けてみると真っ赤なアオザイが一式。深い色の赤にお花の地模様が入っている。滑らかな手触り、布の軽さが素人の私でも上等なシルクであることがうかがえる。
 「着てきますね。」そういって、3階の部屋で着替え、またTさんの元へ。
 普段あまり笑い顔を見せない寺田さんの顔が、私のアオザイ姿を見るなりふわっとした笑顔になった。言葉数も少ないTさん。うんうんとうなずくしぐさで「GOOD」と言われている気がした。

 始めて纏うアオザイ。アオザイは基本的に数か所を採寸しオーダーメイドで仕立てる為、着る人にピッタリサイズに出来上がる。
 私が頂いたアオザイは、採寸もしてない。なのにサイズ感がぴったり。そうか、Tさんは着物のプロフェッショナル。着物を纏う女性を数知れず見てきていらっしゃるわけだし、サイズ感もお分かりになるのだろう。と解釈した。
 上質のシルクはスーッと私の体になじみ、心地よい。
アオザイは上着の下にパンツを履く。頂いたアオザイはパンツも上着と同じ布で作られていた。チャイナカラーの襟元、長袖に裾まで長い上着。形はチャイナドレスに似ているが、下にパンツを履く為腰の位置からスリットが入る。
 私の身長は148㎝。ほんと小さい。ドレスを着てもハイヒールを履かないとしっくりこない。
 しかしアオザイのなせる業は、小さい私も、腰の位置を高く見せ足が長く見える。そういう仕立てになっている。小さい私でもしっくりとスタイル良く見えて、美しいなあと思える事。
 世界で最もエレガントなドレスと言われるのが分かる。
 Tさんからのサプライズ、初めてのアオザイ。
この日から私はアオザイの虜になっていき、今では76着のアオザイを所有している。まあ、ユニフォームなのでね。

 そうして無事(無事?)厨房も仕上がり、保健所の検査もクリア。
メニューも出揃い、オープンの日がやってきた。

 私はご近所の会社に通勤する人々に朝からチラシ配り。
「本日オープンします。ベトナム料理店です。」と声を掛ける。
 シェフとフォンさんは仕込みで大忙しながら、阿吽の呼吸でこなしてる。
 宣伝した甲斐もあり、ランチタイムは17席なんとか満席。
ディナーは、仕入れ先やご近所さんがお客様を連れてきて下さり満席。
出だし好調なオープンディ、となった。
で私は、営業中の店がどんな状態だったか?
覚えていない。。。(笑)

 この日から現在まで27年。それはまた次のお話で。
 
 

 
 

 





 
 

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?