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ご近所におられる最強の神さま

僕が総代となった神社の本殿には、天照大御神あまてらすおおみかみまつられている。小ぶりではあっても古式ゆかしい瓦葺かわらぶきの貴重な建造物で、雨風から守るためだろう、後世の人が外の空間を板で覆い、本殿を護ったようだ。
いくら無神論者と言えど、八百万やほよろずの神々の最高位におられるこの女神さまなら、子供の頃から名前だけは知っている。
(天上世界を治める)太陽をつかさどり、あらゆる願いを聞き届ける所願成就しょがんじょうじゅの神さまだそうだ。

そうだったのか。灯台下暗とうだいもとくらしとはよく言ったもので、この神社に参拝すれば、かなわぬ願いなどないのだ。【人は見かけによらぬものだ】って、人じゃなくておやしろか。

にしては、やけに人気のない神祠しんしである。手をかけて修繕したり、日ごろ管理したりしている気配がまるでない。住んでる人は、この無敵の効能をしらんのだろうか(僕も知らんかったけど)。

かつて境内には保育園があり、幼児用プールがそのまま当時の面影を残している。僕より上の世代の人はみな通ったと、口々に述べていた。
木に登ったり、隠れん坊をしたり。おままごとするにも竹馬で遊ぶスペースにも事欠かない。
森のこずえが彩る光と影のコントラストがとても美しく、いるだけで心身を浄化し、情操を豊かにする。車両侵入の危険など皆無だから、幼子おさなごが日中を過ごすのに理想的な環境だ。

神楽殿かぐらでん(というほど立派なものじゃないが、人々が集まり神主が祝詞のりとをあげるところ)の裏には、かつて土俵があった。子供相撲が盛んで、催しの日には歌自慢の甚句じんく鎮守ちんじゅの森に響いたそうだ。
今となってはその痕跡もないが、毎日が子供の笑い声に満ち、祀りごとのつど村民が酒を酌み交わし、歌い踊っていたであろう村の情景が偲ばれる。

総代としてのノルマの一つは、毎月お供えのさかきを取り換えることだ。
最初はサカキと漢字に変換せず覚えていたが、気付けば木に神と書いて「榊」である。
いい歳になって、神さまと深い関わりのある神聖な植物であると初めて知った。
古来より植物や先端が尖ったものには神さまの力が宿ると考えられ、榊は神さまが降り立つ依り代よりしろとしての役割もあるそうだ。

なるほどねぇ。
そうは言っても、いまさら神の「実在」を信じたわけじゃない。というか、諸外国の「神」と日本の神さまの、根本的な違いに思い至ったのだ。

宗教であれば、仏教、キリスト教、イスラム教、ゾラアスター教などと語尾に必ず「教」がつく。それぞれに絶対的な存在(仏教であれば釈尊しゃくそん)が在り、信じる者はその教えに従おうとする。

それに対し、神の道と書いて神道しんとうである。だとすれば日本の神さまは宗教にあたらない理屈となる。
なんて事を、新しい葉をとろうと榊の木を高枝ばさみで切りながら考え始めた。
ひょっとして日本の神さまって、いわゆる「神」じゃないんじゃないか?




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