見出し画像

「老い」祓い浄めたまえ

日曜日の朝は、神社の清掃当番だった。この日は8時に家を出なければならず、30分前倒しして作業を始め、その分早めに上がらせてもらう。

僕の班は14世帯。
なぜか同じ地区にもう一つ神社があり、そちらの氏子うじこも数軒ある。よっておおむね10世帯で境内けいだいの掃き掃除をするのだが、最近では顔を出さない家もちらほら出てきた。

杖なしの歩行ができなくなり、神社まで辿り着くことすら困難な独居世帯。
旦那さんの調子が悪く、奥さんが片時も目を離せなくなった家。

今後そういうお宅は増えていくだろうし、いずれ班を統合することも考えざるを得なくなるだろう。もはや就学児童のいる家庭は、僕の班に一軒もなくなっている。

一番乗りはしたが、すぐに当番の班長さんがやってくる。まだ40代半ばの勤め人で、挨拶をすると「僕、総代にさせられちゃったんですよ」。
あれま。なんか、自分が総代になった時を思い出す。もう6年以上前になるのか。

神社担当は3年の任期で、最初の集まりは新年度の少し前に開かれる。
僕のときも「各班の初顔合せです」と集められ、挨拶程度ならと顔を出したところ、当時の総代が開口一番「この場で三役を決めてください」ときたもんだ。
完全なだまし討ちである。アレ、行かなかったら間違いなく無役で済んだ。

結局、2時間の無言の根競べに負けた僕が総代になった(させられた)ことは前にも述べた。たぶん同じような展開を経て、現役世代の彼が指名されたんだろう。
清水の神社総代会に出席すると、当時50歳半ばだった僕以外はリタイアされた70代80代の長老クラスばかりで、居心地の悪さといったらない。「アンタ、仕事大丈夫なの?」って眼差しがウザい。こっちだって、無理して出てんだよ!いや、出させていただいておるんでありますのよ。
今度のH氏も、きっと同じ思いするんだろうなぁ。

竹ぼうきで落ち葉をさらっていると、「なんで毎日掃いてるのに、こんなに落ち葉たまるんだろうね」と、80近くなったおとうさんが声をかけてくる。
ん?清掃は月に一度ですけど。
会話しながら、なんかピントがずれている。現役のころはバリバリの空調工事士で、自分の意見をしっかり言う人だったんだけどなぁ。
老いるとは、子供に還っていく事なのかもしれない。時間の経過や事実関係の把握よりも、過去の記憶が優先されるようになるのか。コミュニケーションに支障は出ても、それはそれで幸せかもしれない。現におとうさん、ニコニコしとるし。

掃き清められた境内は、やはり清々すがすがしい。ある程度めどがついたところで、先においとまする。戻る道すがら、これから神社に向かうご近所さんと挨拶を交わした。
「誰かいる?」「もう結構来てますよ」「えー!まだ時間前じゃん」

今さらながら、ふと気づいた。僕はご近所と、”自然”に会話ができている。実は現役時代、挨拶することさえも億劫に感じていた。朝のゴミ出しなど、誰かと顔を合わせる気まずさから、深夜にゴミ・ボックスまで持っていくのが日常だった。

別に、コミュ障害というわけではない。むしろ組織を束ねる立場にいて、苦手な人を指導するくらいな日常を送っていた。
一方で、肩書に”相応しい”役割を演じているだけという自覚もあった。演技を繰り返し、磨き上げ、あたかも本当の自分がそちらであるかのように振る舞っていたまでだ。

家に帰り、素に戻った自分には、他人と共有できる話題や感覚がない。
そういえば会社でも、懇親会やら記念パーティやら、集団の場に出席しては共通する話題が見つからず、ひとりポツンと席にいることがほとんどだった。いわゆる、自意識過剰というやつである。

ご近所とのごく”自然”な会話は、明らかに自分が変わったことを示しているのかもしれない。

明日に続く

イラスト hanami🛸|ω・)و

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?