杉山浩司

人学塾 智和輪

杉山浩司

人学塾 智和輪

マガジン

  • 人規十七則

    人規十七則 徳を尊ぶ・道を得る・己を修める・心を正す・意を誠にする・知を致す・物を格める・家を斉える・善を行う・仁を成す・天に仕える・私を除く・義を楽しむ・恥を知る・命を立つる・礼を尽くす・人を治める

最近の記事

  • 固定された記事

人学塾「智和輪」

2023年8月23日、人学塾「智和輪」を開塾致しました。学は人たる所以を学ぶなり(吉田松陰先生)。

    • 京都シルバーガイドクラブ『智和輪』テキスト

      将軍・義政の後嗣問題で、細川勝元は義政の弟・義視を、山名宗全は義政の子・義尚をそれぞれ担ぎ、応仁元年(1467)、応仁の乱の幕開けとなった。山名の軍が20ヶ国9万人を動員、西軍と呼ばれ、細川勝元の軍は東軍と呼ばれ、24ヶ国16万人を結集、この戦いは一進一退、11年も続いた。文明5年(1473)、宗全が死ぬと同年5月に、勝元もつづけて病死した。応仁の乱じたいは終息に向かったが、長い戦国時代の幕が開いた。勝元は武将ではあったが学問を好み、禅宗に帰依し、竜安寺を建立した。

      • 人学塾『智和輪』テキスト

        熊沢蕃山は、農業振興も含めた土木事業に卓越した手腕を発揮した。現地調査を徹底して行い、時間を十分かけ、労働者を大切にいたわり、費用を惜しまないで、より丁寧に確実に工事に当たった。蕃山の事業は、全国各地に存在し、現在も立派に機能している。蕃山は、天人合一(天も人も同一)自然と和合し協力すれば気候も温和で産物も豊かになるが、森林のむやみな伐採等の自然破壊をすれば、やがて人間に洪水等自然災害の災いが及び、不幸になると述べた。

        • 京都シルバーガイドクラブ『智和輪』テキスト

          足利義満は、各地の守護大名を従え、貴族に対しても大きな力を持っていた。その力の象徴が金閣寺である。3階建ての建物で、2階と3階部分には金箔がはられている。1階には、戸をつり上げ、部屋に光や風を取りこむための、しとみ戸がある。しとみ戸は、主に貴族の建物で使われていた。2階の内と外を仕切るのは、引き戸である。あつかいやすくて場所をとらない引き戸は、機能重視の武士の家で使われた。3階の丸みを帯びた窓は、お寺の建物のつくりである。金閣は、貴族、武士、寺、それぞれの文化を取り入れた建物

        • 固定された記事

        人学塾「智和輪」

        マガジン

        • 人規十七則
          17本

        記事

          人学塾『智和輪』テキスト

          池田光政は英明にして剛毅、また非常な勉学家であった。大名にしては珍しく心学(陽明学)を尊信し、各地から名だたる学者を集めて自ら修学に励んだ。参勤交代の折にも約40kgの書物をたずさえた。心学は儒学の中でもより道徳的理性を重んじる思想体系であり、彼の政治理念は、仁の徳に裏付けられた領民支配であった。特に、光政は農民政策に異様なまでの熱意を注ぎ、家来よりも農民を大切にし過ぎるという部下の不満すら生んだ。家中や領民にも学問を進め、全国で初めての藩校や庶民のための閑谷学校を造るなど、

          人学塾『智和輪』テキスト

          京都シルバーガイドクラブ『智和輪』テキスト

          明智光秀は、本能寺で主君織田信長を倒し、天下人の座を奪ったものの、豊臣秀吉に敗れて自分も落命しその期間の短さから「三日天下」と呼ばれた。なぜ明智光秀は織田信長を討たねばならなかったのか。謀反か、それとも誠実さゆえの行為だったのか、その真相のほどは明らかではない。光秀は事前に信長を討つことを伝えた際に、家来が逃げ出した場合はその家来を討つように伝えていたが、誰一人として本能寺に向かう陣から離れようとしなかった。武人、知将としてだけではなく、領民に慕われた統治者として、また、教養

          京都シルバーガイドクラブ『智和輪』テキスト

          人学塾『智和輪』テキスト

          「エンパワーメント」とは、個人や組織が自らの生活や行動をコントロールしていることを感じることができ、組織や社会に対して影響力を持っている状態を作ることである。「能力開花」や「権限移譲」と訳される。エンパワーメントの概念に含まれる、人が潜在的な能力を発揮できる、公平な社会の実現を目指す、という点が市民運動や女性運動、先住民運動と結びつき、実践された。また、保健医療福祉や教育、ビジネスの中では、誰もが素晴らしい能力を持って生まれ、生涯にわたってその能力を発揮し続けることができると

          人学塾『智和輪』テキスト

          京都シルバーガイドクラブ『智和輪』テキスト

          天台宗が公認された後、最澄は、「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心有るの人を名づけて国宝と為す。・・・一隅を照らす。此れ則ち国宝なりと・・・」で始まる『天台法華宗年分学生式』天皇に奏上した。そこには、比叡山での教育方針や修行方法などが示されていた。最澄は死に臨んで、弟子たちに「我がために仏を作ることなかれ、我がために経を写すことなかれ、我が志を述べよ」と遺誡し、大乗戒をいしずえにすることで誰もが「国の宝」になることを願った。嵯峨天皇は、最澄の死を大変惜しみ、「延暦寺」という

          京都シルバーガイドクラブ『智和輪』テキスト

          人学塾『智和輪』テキスト

          「外聞(がいぶん)」とは、他人の目や社会の評価に対する心のあり方や態度を指す言葉で、自分自身の行動や言葉が他人にどのように映るかを気にし、その結果として自制や慎重さを持つことが特徴である。外聞を重んじる人は、社会的なルールやマナーに敏感であり、他者への配慮も欠かさない。この概念は、古代中国の儒教の思想から派生し、日本に伝わって定着した。古代から現代に至るまで、人々は外聞の重要性を認識し、社会的なルールやマナーを守ることを心がけてきた。

          人学塾『智和輪』テキスト

          京都シルバーガイドクラブ『智和輪』テキスト

          菟道稚郎子は、応神天皇の子で、性格が温和仁徳、経典にも精通しているので、皇太子に冊立された。天皇が崩御したとき、皇太子の兄の大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)が、叛乱をたくらむ大山守のことを皇太子に密告したおかげで、皇太子は大山守を攻め滅ぼすことができた。菟道稚郎子は兄である大鷦鷯尊に天皇の位を譲り、宇治に離宮を建て、身を引いた。大鷦鷯尊も「天皇の位は先帝が定められた事、軽々しく変えることなどできない。それに菟道稚郎子は国民からも慕われている。一刻も早く皇位について下さい。」と言った

          京都シルバーガイドクラブ『智和輪』テキスト

          人学塾『智和輪』テキスト

          「面目」を仏教では「めんもく」と読み、根本の真理という意味である。「本来の面目」といって、自分に限らず、ものごとの本来のすがた、迷いも、汚れもない、ありのままのすがた、どんな人にも本来そなわっている仏となる素質のことである。やがて、面目は、心といったような意味に使われるようになり、他人に対してあらわす自分の心のありよう、さらには体面を意味するようになり、面目ない、合わす顔がない、面目まるつぶれというようになった。

          人学塾『智和輪』テキスト

          人学塾『智和輪』テキスト

          「組織市民行動」とは、自分の職務の範囲外の仕事をする役割外行動の一種である。この概念を提唱したデニス・オーガン教授らは、組織市民行動は、正式な職務の必要条件ではない行動で、それによって組織の効果的機能を促進する行動、しかも強制的に任されたものではなく、正式な報酬によって保証されるものでもない、と定義した。具体例としては、病気で休んでいた人の仕事を支援する、散らかったゴミを掃除する、間違った手続きを見つけたらいち早く忠告する、などが挙げられる。うまく回っている組織には、こうした

          人学塾『智和輪』テキスト

          京都シルバーガイドクラブ『智和輪』テキスト

          明治維新までおよそ千年間、日本の都であった京。ここに平安京を造営し、平安時代を切り開いたのが桓武天皇である。桓武は天応元年(781)に即位。しかし豪族や仏教勢力から反発され何度もクーデターに直面した。政治の腐敗を一新するため、桓武は奈良・平城京から長岡京、さらには平安京へと遷都を断行。旧勢力を断ち切るとともに、渡来系の勢力と繋がりを深め、コスモポリタンな都に君臨する偉大な帝王に変貌した。

          京都シルバーガイドクラブ『智和輪』テキスト

          人学塾『智和輪』テキスト

          戦国時代の「喧嘩両成敗法」は、戦乱が続き社会秩序が不安定な状況のもとで、厳罰によって喧嘩の発生を防ぎ、発生した場合は迅速に解決を図るために定められた。それが多く定められ、実行されたことで、両成敗の考え方が当時の社会で常識となった。その後、江戸幕府がある程度平和な社会を実現した17世紀の中ごろ以降、法令としては姿を消したものの、人々にとっての常識として生き続けた。喧嘩両成敗は大岡裁きとしても知られているが、現代の法律においても原則的な考え方として採用されている。喧嘩を売った側が

          人学塾『智和輪』テキスト

          京都シルバーガイドクラブ『智和輪』テキスト

          親鸞は、29歳の時、比叡山の仏教と決別し、道を求めて聖徳太子ゆかりの六角堂に籠った。そして、95日目の暁、聖徳太子の夢告にみちびかれて、法然のもとをたずねた。法然は、だれに対しても平等に「ただ念仏もうしなさい」と説いた。親鸞は、この教えこそ、すべての人に開かれている仏道であるとうなずき、法然を生涯の師と仰ぎ、念仏者として歩み出した。法然のもとで、親鸞は約6年間過ごし、この頃、恵信尼と出遇い、結婚した。

          京都シルバーガイドクラブ『智和輪』テキスト

          人学塾『智和輪』テキスト

          人格者の特徴(性格・内面性)1、責任感がある。2、正義感が強い。3、教養に裏付けられた意見がある。4、謙虚で気遣いができる。5、平等で誰にでも礼儀正しい。6、愛される印象形成。人格者の特徴(態度・行動)1、約束を守る。2、他人のために行動できる。3、目標に向かって努力ができる。4、社交的である。5、見返りを求めない。

          人学塾『智和輪』テキスト