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4月、ロシア兵の戦争体験記(2)

(5,236 文字)


4月20日 ドルゲンコエ村攻撃事件 

 しかし、結果的には、ドルゲンコエの攻撃は行われなかった
計画が変更になったのか、それとも将校が間違えたのかは知らない
私たちはただ畑や植え込みに沿った道を進み、ブラシュコフカ村から約2.5キロ離れたスルゴフカ村に着いた
そこはすでに6日前から我々、露軍が支配していた
スルゴフカ村からドルゲンコエ村の入り口までは5kmほどだ

我々はドルゲンコエ攻撃が中止になっている事を知らなかった
だから我々はドルゲンコエを攻撃するつもりで、ドルゲンコエに向かった
歩いていると、ウクライナ軍に気づかれ、GRADと迫撃砲で砲撃された
次の爆撃で足がちぎれるだろう、即死するだろうと思った
本当に恐ろしかった

機関銃を渡された男は38歳で、体を動かすことにあまり慣れていなかった
機関銃とアサルトライフルと装甲ベストを持って行軍し、さらに走り回るのでへとへとだった
 心臓が痛くなったと言うので、そのことを指揮官に報告した
指揮官は、二人で、中隊の負傷者のブラシュコフカ村までの退却を支援するようにと言った
我々二人は少し下がって、負傷者を待った
 負傷者は4人だったが、軽傷で、ある人は手に、ある人は榴散弾が防弾ベストから背中に入り、ある人は足に軽い怪我をしていた
全員自力で歩いていた
負傷者たちが退却した後も、二人だけで、40分ほど居残った
仲間がGRADで追撃されたことを聞いていたからだ

そして、我々二人はブラシュコフカ村に退却した
私がマシンガンを運んだ
3時間経って、私たち二人はBTR(軍用車両)に乗り、ブラシュコフカ村からスルゴフカ村に行った

しかし、私はそこがスルゴフカ村だとは思っていなかった、本隊が攻撃し占領したドルゲンコエ村だと思っていたのだ
第2中隊とも合流した
夕方、我々は任務に失敗したので、明日の朝、ドルゲンコエ村を襲撃しに行かなければならないと指揮官に告げられ、ようやくそこがスルゴフカ村だと気付いた

その日、突撃する752連隊の2個大隊の中隊長たちは、部下に
「ウクライナ軍はすべての銃を持っているので、我々は死にに行くのだ
行くか行かないかはお前たち次第だ」と言ったそうだ
第2中隊は8割以上の人間が拒否した
私も拒否した
もう体力的に突撃することができなくなったということも大きかった
しかし、他の中隊の多くの志願兵は、午前中のその攻撃に向かった
私は行かなかった
我々の第1中隊からは、少尉を含む3人が行った
そして、彼は足に怪我をした
戻ってきた人が言うには、スルゴフカとドルゲンコエの間の野原を7キロも歩いたらしい
(スルゴフカとドルゲンコエのそれぞれの中心部間の距離は5km程度)
午前10時に出発し、午後4時までに村から600メートルの地点までしか行けなかった
彼らは疲れ果てていた
激しい迫撃砲と大砲の砲撃を潜り抜けて歩いていたのだ
死者や負傷者がでていて、大隊長のヴァシュラ少佐に死傷者を報告しても「放っておいて前進し続けろ!」と怒鳴られるだけだったようだ
彼自身も負傷した
怪我をした彼は斥侯に、このまま前進して攻撃支援し、帰りに迎えに来るようにと命じ、代理の指揮官を指名した
後で、彼らは少佐を迎えに行ったようだ
ドルゲンコエ村まであと少しというところで迫撃砲の砲撃が激しくなった
ウクライナの戦車が発砲し始め、その結果、さらに多くの死傷者が出た
無傷で生き残っていた将校たちはどうしたらいいか分からなかった
志願者の一人(彼は40歳で、12年前からジョージアに契約兵として従軍していた、戦闘のベテラン)が「退却するしかない
そうしなければ、迫撃砲で破壊され、生きている人はいなくなるだろう」と言ったそうだ
それで、彼らは退却した
みんな疲れ切っていた
負傷者を運ぶのはとても大変だったろう
彼らが戻ってきたのは午後11時だった
参加していたクルスク出身のアンドレイによると、退却の途中で逃げ出す人が多かったらしい
彼が、負傷者を引っ張り出すのを手伝えと叫んでも、誰も助けなかった
マシンガンで背中を撃ちたくなったという...
こうして、4時間も引きずられたグレネードランチャー小隊長のニコラエフ大尉は失血死した...
個人的に彼の事は知らないけれど、みんな、とても良い人だと言っていた..
これが4月20日のドルゲンコエ村攻撃事件….

従軍拒否、そしてドルゲンコエ攻防戦の証言

 この後、ほとんど全員が次の日の作戦参加を拒否した..
一部(2個大隊の残党から11人)だけ残り、彼らはスルゴフカから半キロ離れた潅木地帯の最前線に送られた
そこで守備を固めるサハリンからきた機動小銃兵を支援した...
私を含めて攻撃を拒否した多くの者は、前線に留まることを覚悟していたが、イジュームまで歩いて行くように言われ、武器は取り上げられた
まさに最前線で、武器を取り上げられた..

いくつもの嘘をつかれて、指揮を信じられなくなったことを言っておきたい
二度、攻撃の前に「全てうまくいっている、敵の砲兵隊は制圧した、上陸地点では偵察済みで、他の部隊が既に前進しており、我々はそこに渡るだけだ」と聞かされていた...
しかし、二度とも嘘が判明し、無意味な犠牲者をだした
なぜ、このような非常識な突撃が行われるのだろうかと、ずっと考えていた
もしかして、砲撃させ敵の位置を特定するためか?
あるいは、ウクライナの在庫の砲弾を使い切らせるためか?
ウクライナ軍の注意をそらすためか?
わからない
しかし、我々の多くは、意図的に攻撃を受けさせられているという感覚を持っていた
先に断っておくが、多くの部隊がドルゲンコエを奪おうとしていたので、我々の司令部はドルゲンコエを奪うという任務に忠実に、単に、可能な限りの人員を送り込んだだけなのだろう

それが5月上旬になると、たった7人で攻撃に行くようになった
私の理解では、他の部隊は1、2回ドルゲンコエに突撃するだけにしたのだ
5月1日にはOMON(注:日本の警察の機動隊にあたる)や他の特殊部隊(SOBRかもしれない)も突撃を行ったと思う
(注:SOBRはロスグヴァルディア(露連邦親衛隊)のスペツナズで、米国警察のSWATのようなものだ)
彼らでも、占領することはできなかった
ただ、連隊の残党と一緒に別の場所を歩き回っていただけだ

他の部隊では指導者が部下の面倒を見るが、我々の上官は部下を気にしていなかったと理解している
4月19日、私たちがドルゲンコエ攻撃の中止を知らずにいたように、第45空挺偵察連隊も知らずにドルゲンコエを攻撃しようとしていた
右側の森で激しい銃撃戦になった
その話はみんなよく知ってる
空挺部隊は一人死亡して退却し、ドルゲンコエ進撃を拒否するようになった

ドルゲンコエ村への攻撃参加拒否をした後三日間、スルゴフカに残り、私と元ヴィチャズ・スペツナズの契約兵だった男と他の中隊のもう一人の三人でトラックに乗り、イジュームへ向かった

ヴィチャズ«Витязь»はロシア内務省の特殊部隊

そうして、イジュームの郊外の、いわゆる「拒否者(500人)」と呼ばれる人たちが集められた場所に行き着いた
そこに着いたのは4月25日頃だった
私たちは基本的な労働力として使われた
塹壕を掘り、師団本部の防衛強化に土嚢を運び、壕を作るために松を伐採したりした
毎日のように、新しい「拒否者」が連れてこられていた

彼らの話は、私たちの物語よりもっと悲惨だった...
 新しい志願兵はウクライナに到着するとすぐにドルゲンコエ攻撃に放り込まれた
将校はもういなかった(!)ので、一番経験のある志願者(チェチェンやシリアで戦った者)を選び、責任者に任命し、無線を1,2台与えて突撃させていた...

4月末に18人が加わり、120人ほどの大所帯で攻撃したそうだ
そして、彼らの他にも別動隊が別の方向からドルゲンコエを攻撃したらしい
そのためか、彼らは迫撃砲を受けることなくドルゲンコエに到着できたという
そして、あと300-400メートルというところで、2挺の機関銃による十字砲火を受けた...
もっと近くにもウクライナの機関銃隊の陣地もあった
彼らも機関銃とRPGで応戦した
私の聞いたところでは、少なくとも6人のウクライナ兵士を殺したが、ウクライナの機関銃を制圧することができず、撤退せざるを得なかった
この機関銃は、おそらく要塞化された場所に設置されていたのだろう
もし、ヘリコプターや戦車があの機関銃を制圧してくれてたら、ドルゲンコエに進入できただろう... そう彼らは話していた

私がまだスルイゴフカにいて攻撃に出ていた頃、クリンツイの機動小銃兵がBTRに乗って1個中隊でドルゲンコエに入ったが、同じように、三方向から掃射されていた
結局、ドルゲンコエのこの三角形の待ち伏せ地帯からはなんとか撤退しただけだった
我々が来るより前、4月19日以前には、8台の戦車と歩兵がドルゲンコエに入り、塹壕を作らず前進した(前進して攻勢を展開せよとの命令だった可能性が高い)
そして、戦車隊のほとんどが被弾し、歩兵も押し出されたと言う...

5月には「バーズ」(露全土から集められた訓練された予備役兵)の残党14人が「拒否者(500人)」にきた
彼らは1ヶ月間ドルゲンコエを攻撃し続けたという
彼らは兼任師団の司令部に所属していたようだ
彼らは最初、340人でウクライナに来た
そして1ヶ月の砲撃の結果、57人しか残っていなかった
しかも、生存者の半数は本部勤務だ
ほとんど全員が負傷していた
彼らは一度も銃撃戦をしたことがない
損失はすべてウクライナ軍の砲撃によるものだ…
私が思うに、ウクライナ軍の砲撃の威力と正確ささえなければ、我が軍は銃撃戦でウクライナ軍を粉砕していたはずだ
個人的な意見だが、私たち志願兵の方は、(技術や知識が許す限り)概ね戦闘可能で、攻撃もかなりできたと思う
ただ、指導者があれほど不快で下品な態度をとった後では、多くの人が部隊に残って戦いたくないと思っていたのだ...
私も含めて 指揮官が間違いを犯すことは理解できるが、指導者が我々を気にかけておらず、確実に無意味な死に向かわされると分かってしまうと、本当に戦う気が失せる
もうひとつ、この間、師団全体で、将校だけが国家勲章を授与されていた
軍曹と二等兵は一人も受賞していない
中隊の契約兵5人と話をした
彼らはとても若い 19歳から22歳で、親切で何でも喜んでやっていた
彼らは、他の部隊と一緒にカミヤンカで戦った
彼らのうち、8人がウクライナ軍の陣地に入った
彼らは戦闘で12人のウクライナ戦闘員を殺害したという
一人は将校だったそうだ
そして、ウクライナ軍の無線を発見した
その無線から、ウクライナ人がその地域で援軍を準備していることが分かった
ウクライナ軍の支援部隊が40人来ることが分かった
彼らは、ウクライナ人がどこから来るかを突き止め、待ち伏せし、30人を戦闘で殺害した
彼らは19〜21歳 RPG-7、ムハ(RPG-18 )、機関銃など、あらゆる射撃に優れている
いろいろな意味でまだ子供なのに、死ぬ気で戦った

ムハ(RPG-18 )

なぜ、誰も表彰されなかったのだろう?
彼らもドルゲンコエの攻撃を拒否し、後に我々と一緒にロシアへ戻り、契約を破棄した
ウクライナ軍は迫撃砲、大砲、Tochka-Uで我々の陣地を継続的に砲撃している

Tochka-U
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Tochka-U,_Kyiv_2018,_01.jpg

ウクライナが、これほど多くのTochka-Uをどこから調達したのか、見当もつかない
しかし、イジュームでは、我々の対空砲が毎日、多くのTochka-Uを破壊ていたというのが指導部の言い分だ
一般に、我々の師団について言えば、高射装置は最もよく働き、最も戦闘力のある部隊であったと思う
戦車兵は大損害を被った...
戦車は攻撃中や行軍中に何十両もやられた...
BTRやBMP、トラック、土木車両など、一般車両の損失は甚大だ...

BTR
https://ja.wikipedia.org/wiki/BTR-90
BMP-2
https://ja.wikipedia.org/wiki/BMP-2

しかし、最も恐ろしいのは、毎日何人もの人々が死に、身体障害者になり、何人も捕虜になっているということだ…
(続く)
参考:https://victor-shyaga.livejournal.com/561.html

ロスグヴァルディアについて:https://note.com/lovely_clab365/n/n27383ec03cc4

https://note.com/lovely_clab365/n/n90e8d25c244c

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