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長男にことばを

 今日は長男の結婚式だった。型通りの祝辞もよかったが、良い時も悪い時も共に生きてきた子だ、心から伝えたいことを文豪の力を借りて言葉にして送ることにした。

『結婚によせて』

 新郎の父です。本日はお忙しい中を、息子夫婦のためにお集りいただきありがとうございました。ご列席いただいた皆様に対して改めてお礼を述べたいと思います。

 「お忙しい中二人の新しい門出をお祝いいただき、誠にありがとうございます。そしてよりいっそう、この新しい生活の節目を迎えた二人に、友として、同僚として、人生の先達としておつきあいいただくこと心よりお願い申し上げます。」

 親として今日の晴れ姿を見ておりますと、感激がひとしお身に沁みます。

 思い返せば、大学入学のおり「これからお前はお前の人生を生きよ」といい、学生アパートに一人息子を送り出しました。

 親元を離れ暮らすマンションの薄暗い戸口に佇み、立ち去るこちらを眺めていた息子の姿は忘れられません。

 時を経て社会人となり、数年、しかしまだ《自分の人生を生きる》という決然とした意志を感じることはありませんでした。しかし、今日はそれを感じることができます。

 結婚によせて、誠に手前なことで恐縮ですが、ぜひ長男に伝えたいことがあります。それは彼の美質が《魂の透明度》にあるということです。ぜひそのことを申し添えたいのです。

 それは親として、生来彼に備わるものとして感じて来たことでもあります。

 もし人に人柄があり、人格を称するに、それを《魂》という言葉であらわすことが許されるのなら、彼の魂は透明度が高いといえます。

 今後どのような人生を歩むか想像すらできません。ただ、彼にあってそれが尊い性質であり、失ってはならないものだということを強く思うのです。

 たとえ世がどうであれ、浅はかな世相の上っ面をひっぱたいてでも、魂の相剋を貫き、己の美質は失わないでほしい。これがようやく自立した息子への願いであります。〇〇さんにはどうか、それを見てほしいのです。

 さて人の生きるその姿を夏目漱石は『思い出すことなど』という自伝にスケッチしています。漱石は生活を営む人を回向院で四つに組む『力士』の姿に重ねてこう回想します。

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 余はこの心持をどう形容すべきかに迷う。
 力を商いにする相撲が、四つに組んで、かっきり合った時、土俵の真中に立つ彼等の姿は、存外静かに落ちついている。けれどもその腹は一分と経たないうちに、恐るべき波を上下に描かなければやまない。そうして熱そうな汗の球が幾条となく背中を流れ出す。
 最も安全に見える彼等の姿勢は、この波とこの汗の辛うじて齎(もた)らす努力の結果である。静かなのは相剋する血と骨の、わずかに平均を得た象徴である。これを互殺の和という。二三十秒の現状を維持するに、彼等がどれほどの気魄を消耗せねばならぬかを思うとき、看る人は初めて残酷の感を起すだろう。
 自活の計(はかりごと)に追われる動物として、生を営む一点から見た人間は、まさにこの相撲のごとく苦しいものである。吾らは平和なる家庭の主人として、少くとも衣食の満足を、吾らと吾らの妻子とに与えんがために、この相撲に等しいほどの緊張に甘んじて、日々自己と世間との間に、互殺の平和を見出そうと力(つと)めつつある。戸外(そと)に出て笑うわが顔を鏡に映すならば、そうしてその笑いのうちに殺伐の気に充ちた我を見出すならば、さらにこの笑いに伴う恐ろしき腹の波と、背の汗を想像するならば、最後にわが必死の努力の、回向院のそれのように、一分足らずで引分を期する望みもなく、命のあらん限りは一生続かなければならないという苦しい事実に想い至るならば、我等は神経衰弱に陥るべき極度に、わが精力を消耗するために、日に生き月に生きつつあるとまで言いたくなる。
 かく単に自活自営の立場に立って見渡した世の中はことごとく敵である。自然は公平で冷酷な敵である。社会は不正で人情のある敵である。もし彼対我の観を極端に引延ばすならば、朋友もある意味において敵であるし、妻子もある意味において敵である。そう思う自分さえ日に何度となく自分の敵になりつつある。疲れてもやめえぬ戦いを持続しながら、炯然(けいぜん)として独りその間に老ゆるものは、見惨(みじめ)と評するよりほかに評しようがない。

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 このように述懐する漱石の、近代人の生活の深い葛藤を知る身の上の、その懊悩をくつがえしたのは、彼が病に臥したとき日々に改めて感じることのなかった「人の思いやり」でした、ほんの些細な「人の親切」を受けたことが彼を回心させました。

 ごく平凡とも受け取れる人の親切、思いやりが、漱石の心を苛(さいな)む猜疑の念に、暖かな微風(そよかぜ)を吹き込み、それは彼の心に「人の善良」を知らせる妙薬となったのです。

 人を躓かせるものがもし単純なものであるならば、また人を支えるものも、衒(てら)いのない真心や親切心ではないかと思います。

 人生には答えがなく、すべて何か目には見えない変化の途上のプロセスにあると信じます。

 二人がこの結婚に真実の愛を見出そうとするなら、それは道に『希望』という灯(ともしび)を照らしてくれることでしょう。
 希望あるものこそ幸福です。この結婚が『希望』へと二人を導くことを願っています。

 そして希望のきらめく瞬間が、今日のこの日にあって、すでにここに始まっていることを心から願ってやみません。

2024年(令和6年)5月5日
父より

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