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僕がスペインに来るまでの話②

ーアップルキックでお願いします。ー
先日、目暮警部は気付かない。という僕がスペインに来るまでの話①を書かせていただきました。
話が脱線しすぎ!や、なんであんなにコナン推しだったの?などなどたくさんの暖かい(?)お言葉をいただき、大変ありがたく思っています。今日はそれのつづきです。

話は2018年まで遡ります。
当時僕は、JFLのラインメール青森というチームに所属していました。
シーズンが始まって数ヶ月が経ち、だんだんと暖かくなり、朝、練習に行く前に、車のフロントガラスに積もる雪をかき分けなくて済むようになってきた頃、どこか違和感みたいなものを感じ始めていました。今考えると、シーズンの最初からそれはあったのだと思いますが、雪解けと共に、だんだんと表面化してきたのだと思います。ふわふわとした雪の下は意外とゴツゴツした岩だったりします。


その違和感というのは、チームの中に派閥というか、グループのようなものができてしまったことにありました。サッカーチームの現場は約30人程の、生まれも、育った環境も違う「他人」が構成しているので、グループができてしまうことはある程度しょうがないことだと思っています。しかし、あるグループの選手の一人が周りの選手を攻撃し始めてしまった。本人はそれを「攻撃」だとは思ってもいなかったかもしれませんが、これは本当にチームを作る上で良くないことだと思います。
プレー中、時に暴言にも似た言葉を浴びせかけ、時に無視したり、時に無言で圧をかけてきたり。それに気を使いながらするサッカーは本当に嫌でした。一方で、先輩や自分のグループの選手に対しては態度や言葉がころっと変わるのも気に食わなかった。上の立場の人に対しては、気に入ってもらうような態度や声色で接し、下の立場の人間には厳しくあたって自分の立場を脅かされないようにする。そんな風にして自分を守っていたのだろうと思います。
でもそうなると、上の立場の人達からしたら、下の人間がその人に苦しめられている事が見えにくくなってしまうんですよね。

「え、あいつ良いやつじゃん?」って。

上から下はわかりにくいという事はどんな世界にもあると思います。


なんでそんなに味方を攻撃するの?なんで監督とかコーチはそれに対してなんも言わないの?なんで男ってやつは雪の上に小便をかけて「かき氷」って言ってしまうの?←
そんなもやもやした思いが日に日に大きくなっていきました。かく言う僕も、その攻撃対象になってしまっていました。
練習後、それに悩む選手たちで、「某」ハンバーグチェーンレストランに集まって永遠語ったりもしました。その長さと白熱具合には店側も「びっくり」だったと思います。


「グループができてしまって、しかも違うグループを攻撃することはよくない!」と言っておきながら、ファミレスに集まってその選手やグループに対する愚痴を言っているという矛盾。ドンキーもびっくりです。すごくレベルの低い話で申し訳ないのですが、それが僕たちの現実でした。本当、情けないっす。。。


その選手からしたら、J3という1つ上のカテゴリーからやってきて偉そうにしている割に、ろくに結果も残せていない僕を、結局口だけじゃんって思ったりするのはもしかすると当然なことで、それを覆すほどのプレーができていなかった僕の圧倒的実力不足だったのは間違いありませんし、言い訳もしません。でもとにかくやりにくかった。良いプレーなんてできるわけなかった。
サッカーはメンタルのスポーツとはよく言われますが、あの時はそれを物凄く実感しました。だって嫌だったもんボール受けるの。紅白戦ですら同じチームになりたくなかった。
1度回り始めてしまった嫌悪感はもう止まることを知りません。雪玉が転がるように、どんどんとその気持ちは膨れ上がって雪崩れのようになってしまっていました。
雪山の斜面の上の方にラパーンがいたのではと僕はふんでいます。下からは、上が見えにくかったりするもんなのでわかりませんが。
(ワンピースに出てくるキャラクターで、雪山の斜面の上で集団で飛び跳ね、雪崩を生み出して攻撃するというキャラです。知らない人、すみません)

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ラパーン↑


あの時は
プレーするのやだな→プレーもメンタルも弱気→上手くいかない→圧を感じる→以下、その繰り返し。
という最悪のループに入ってしまっていたと思います。
サッカー選手的にアウト発言なのは理解した上で、練習後にカフェで本を読んでいる方が楽しかった。(でもこのカフェの習慣が後々僕を救うんだから面白いものです。)

少し話がそれますが、その時の経験は凄く自分のこれからのためになっていると思っています。『チーム』についてあれだけ考えさせられることはなかなかありません。間違いなく、戦術とか技術だけじゃ本当に『強いチーム』はつくれません。『強い』ってなんだろう。『チーム』ってなんだろう。これからも考え続けていきます。

カフェに通い詰めすぎて、男が全員憧れる『いつもの』が通用するようになり始め、おそらく店員の人たちに変なあだ名をつけられたであろう頃、ついにその日がきます。
2018年6月24日のvsFC今治です。凄くよく覚えています。
その日、今治のホーム『ありがとうサービス.夢スタジアム』にはほぼ満員の4000人を越えるサポーターが詰めかけていました。前半から今治のパスワークやポジショニングの巧さに戸惑いながらも、スーパーゴールでなんとか辻褄を合わせ、前半を1-1で折り返しました。今治、サッカー上手いんだこれが。ほんと良い迷惑。こっちは味方同士で戦っていてそれどころではなかったので、対戦相手のチームになんか構ってる暇なんてないっつうの。。。

サッカーの世界でめちゃめちゃ起こってることだと僕は感じているのですが、「相手チームと戦えていないチーム」が多すぎるんですよね。
監督が怒るのを気にしてチャレンジができないとか、チーム内の誰かに気を遣ってとか、戦い方に無理があるのにそのまま放置されて戦犯探しに明け暮れてとか、、、理由は様々あるとは思います。
選手本人が、実際に目の前で対峙している「相手」をみて、感じて、駆け引きをして、その相手を自分が持っているものでどう上回るか。が勝負事の本質です。ですが、ことサッカーになると、それができていないチームが多すぎるなぁと今までの経験から感じています。大前提として、「自分」は思うように動かせないと、駆け引きもクソもないし、相手なんて上回っていけるはずがないと思っています。すみません、話がそれました。この話はもっと詳しく、違う記事で書きたいと思います。


そして、ハーフタイム。


ベンチに引き上げるピッチ上で、その選手と口論になりました。前半がうまくいかなかった理由を全部僕のせいだと主張してきた。全部はさすがに言い過ぎっしょ。。と心で思いつつ聞いていると、お前以外の場所はうまくできていると、本当に全部僕のせいだと言い張ってきた。確かに、試合は支配され、苦しい時間が長かった。長かったというか、苦しい時間しかなかった。感覚的には、ボランチだった僕の周りに50人くらい相手選手がいたし、ずーっと首を締められていて常に窒息状態、気を強く持ち続けないといつ意識がぶっ飛んでもおかしくない状況を耐えに耐えた45分間でした。
僕も必死だったから、言い返した。でも感情だけで解決できるほどサッカーは簡単じゃありません。僕なりに、冷静に前半のゲームを分析し、出来る限り理論的に、言い返した。それが僕の良さでもあるんだけど、感情的な選手からしたらムカつくと思います。その言葉を聞くやいなや、胸ぐらを掴んできた。僕もこの時ばかりは負けじと掴み返した。僕たちは、4000人の前で、胸ぐらを掴みあってしまいました。
今治のホームスタジアム、『ありがとうサービス.夢スタジアム』は山の斜面をきりひらいたような造りで、ロッカールームも観客席の上にあり、観客席と観客席の間の階段を選手が歩いて登り降りするという花道スタイル。ガイナーレ鳥取のチュスタと同じ感じの作りになっています。

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だから客席からロッカールームに引き上げていく選手が非常に見やすい。選手との距離が近く、サッカーを見るには最高のスタジアムでそれこそありがとうなのですが、そうなってくるともちろん喧嘩だって見やすい。喧嘩をしている二人からしたら、全くありがたくない。ふざけんな、何が『ありがとうサービス.夢スタジアム』だよ。コンパクトだけどその分見やすく、スタジアムが一体となる構造してて、最後の猛攻を凌いでいるときの4000人全員が襲いかかってくるような感覚さえ覚えさせるあんな最高の雰囲気つくりやがって!書いててムカついてきたからまたいつか行ってやるわ!しかもプレーしてやるかんな!覚えてろよ!そんな思いでまた頑張れるわっ!ありがとう
仲間に止められるまで、胸ぐらを掴んで睨みあいました。その後、ロッカールームで監督から何かケア的な話があるわけでもなく、もう交代してほしいとさえ思いました。これは僕の中ではかなり大きい出来事でした。『怒り』という感情は凄くパワーを持っている分、うまく使わないと危険です。
試合は後半、数少ないチャンスで2点を追加した僕たちが、終了間際に1点を返されるも、最後まで今治の4000人の猛攻を耐え抜いて、3-2で勝利しました。
みたか!アップルキック!(青森だけに)

そんな仲間内で喧嘩してるようなチームが勝っちゃったりするってのも、サッカーってほんとロマンたっぷり。。。

後半の2点は僕のところが起点になり点が入ったものの、少しも嬉しくなかった。勝ったのに、悔しい。怒りという感情に身を任せ、どんなプレーをしていたか後日映像を見るまで思い出せないくらい“入って”しまっていました。あんなに嬉しくない勝利はこれまでのサッカー人生であの試合だけです。前後泊のホテルの部屋がやたらと広かったのも凄く良く覚えてる。

その時のホテル↓

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ちなみに後日見た映像に映る自分のプレーは、プレー中の感情とは裏腹に、意外と悪くなかった。


試合を終えホテルに戻り、1人には大きすぎる部屋でずっともやもやしていました。
どうしたら変わってくれるだろうとか、どうしたら受け入れてくれるだろうとか、どうしたらもっと『チーム』になれるんだろうとか、悩みに悩みました。悩み続けていたら、次の日、3年ぶりに口唇ヘルペスができました。身体は正直です。それは明らかに自分の体が発するサインだったと思います。

悩みが解消されないまま、シーズンは続いていきます。こういう風に書くと、「いやそれ監督に話せば良いじゃん」とか「その人と話し合えば良いじゃん」とか「それをなんとかするのがプロでしょ」とか言ってくる正論クソ野郎が必ず現れるのですが、それができれば誰も苦労しません。
欲しいのは「正論」じゃなくて想像力です。それも、周りをチョコレートでコーティングした、とびっきり甘いやつです。断言します。「正論バカ」はモテません。

いつものカフェで読む本を探すために青森市内にある書店をプラプラと歩いていたら、ある一冊の本に出会いました。
出会いは運命を変えます。運命についてもまた書きます。
決して見やすい位置に置かれていたわけではなく、なぜその本を手に取ったのかはわかりませんが、パラっと最初の数ページを読んでみて衝撃を受けました。こういう言葉はあまり使いたくないんですけど、『マジでやばかった。本当チョベリグって感じ。』
自分が本屋さんに行くような人間でよかったと、あれほど思わされたことはありません。それまでも本は好きで読んでいましたが、本ってすごいなとその時改めて思わされ、それからスペインに来るまでに250冊くらいの本を読みました。それはもう狂ったように読みました。常に本を5冊くらい持ち歩いていました。もはや本を読むというより、移動中の筋トレになってしまっていた可能性もありますが、重くても、僕はやっぱり紙の本が好きです。


本屋で受けた衝撃をおとさないように、その本を即購入した僕は、そのままいつものカフェに行き、300ページ以上あるその本を一気に読みました。
(ちなみに、あだ名は『ドリップコーヒー読書野郎』といったとこだったろうと予想しています。)


本や歌など、その時の自分の境遇や立ち位置によって、感じ方がガラリと変わります。どれだけ響くかもタイミングで全く変わります。昔読んだことがある本でも、改めて読んでみると全く違う印象を受けるってことありますよね?『本』自体は変わらないですが、「自分」が変わっているんですよね。『どんな自分がその本を読むか。』これすごく興味深いです。失恋した時に異様に響く歌があるように、『出会い』において、『タイミング』ってものすごく大切な要素だと感じます。「会いたくて会いたくて震える」って、普段だと少しバカにしてしまうような歌詞だとしても、いざ自分がその状況になってみると、震えてしまっていたりしますよね。いや、さすがに震えはしないか。。。
震えるのは、寒い時に小便をした時とかですよね。ブルッとしちゃいますよね。ですよね。特に、雪に小便をかける時とかね。ブルッとね。しちゃいま、すよね。(今全員忘れていたであろう、1番回収しなくていい伏線を回収しました。)


あの本も、あのタイミングで出会っていなければただの本の中の1つだったのかもしれません。

タイミングについて言うと、誰かと「恋に落ちる」って凄いことだと思います。
いきなりロマンチックモードです。iPhoneノーザ25proには、ロマンチックモード搭載予定です。ジョブズさんどうでしょうか。
ある一人の男性がいるとします。その男性は「大雑把」で「時間にルーズ」。でもそれは言い換えれば「大胆」で「ワイルド」、「自分の世界を持っている」とも言えるかもしれません。「優柔不断」は「慎重」とも捉えられます。どう捉えるかは、それを受け取る『自分次第』です。捉え方は時とともに変わります。タイミングや経験などでも変わります。
昔だったら、この人「優柔不断で男らしくないな、、」と思っていたのに、今は、「地に足がついていて素敵」と思えるかもしれません。『どんな自分がその人に出会うか。』それらのタイミングが双方にマッチしなければ『恋』には発展しないかもしれません。
ここで僕が、「かもしれない」と言葉を濁すのは、『恋』とか『好き』にはそんなタイミングやらなんやらを全部飛び越えてしまう力があるとも思っているからです。まだまだ開発段階のロマンチックモード、不具合続出です。

ある本に“気づかされた”僕は、初めて、本当の意味で「自分」とか「世界」というものを考えるようになりました。そんな考え方があるのか、そんなふうに生きていいのかと。
でも、新しい考え方を知ったからと言って、そういうふうに生きれるかというのはまた別の話です。「知ってる」と「できる」の間にはそれはそれは大きな差があると思います。どんなに理論的に、泳ぎ方を説明できたとしても、「泳げる」とは言えないように、「できる」が伴わない「知っている」ではいけません。でも知らないことは考えられません。だから、新しい知識や考え方を常に取り入れつつも、うだうだ言ってないで水に飛び込まなければ「泳げる」ようにはなりません。もし僕が「知っているだけの知識」をひけらかし、新橋辺りに出没し始め、何度も同じ話をし始めるようなことがあろうもんなら、それはもう本当にチョベリバなので、決して愛想笑いでその場を取り繕ったりせず、胸ぐら掴んで、お台場辺りの海辺に連れていき、東京湾に蹴り沈めてください。もちろんその時の蹴りは、アップルキックでお願いします。

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つづく。

Love is all.


一緒にドンキーをびっくりさせにいったり、同じカフェに通って一緒に変なあだ名をつけられていたであろう、2人の仲間にその本を紹介したら、その2人ともが次の年に海外に行きました。その2人を追うように僕も今スペインにいます。関係あるかはわからないけど、すごい本だ。いつか紹介します。ガル。


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