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低いハードルで自分をあやす日もある。

自分の思考と雑談するようにして話すと、20分のラジオで2万字分くらいのことが話せるらしい。メディアアーティストの落合陽一氏がそう書いていた。

その5倍、100分間休みなくしゃべり続けてそれを打ち込めば、小説になる。やってみたい。というか、そのモード、楽しそうだ。

ところで今日は暑い。日差しがパキっと鋭くて、夏のようだ。
車へ戻ると、車内がアチアチだったので思わず自販機でコーラを買った。自販機のコーラ、久しぶりだ。

ゴクゴクっと飲んだとたん、汗がどばっと噴き出てきた。やっば! 助かった!

いったんはフォローしたけども、やっぱり解除してしまったチャンネルがあって、ラノベの書き方を先達せんだつかたが教授するという趣旨のもの。だけど、よくよく考えているうちに、僕は何をやってるんだ? といたたまれなくなって解除してしまった。

その方のプロフィールがおもしろくて、創作本をいくつも読んでいて自分は感覚よりも理論派だという。僕も願わくばその理論を教えてもらえれば、と思ったのだが、よくよく考えてみると、僕もさんざん創作理論の本は読んでいて、なのに、というか、今、誰かに教えてあげれるような創作のキー理論など持っていない。

どうしてだろうな~? ほんとに、僕はめっちゃ創作理論本を読んでるんですよ。洋書も含めて。で、読むたびに何か違うな~、とか思う。しかしそれって、過ちだし、もはや中毒のようなものだ。

何を書いたらいいかわからないから、教科書を求めている。小説って、そうやって書くんじゃないんだろうけど、型があるのだ、と言われるとそれを知りたくなる。

で、僕のいちばんの弱点は、他人の小説を読んで、これは型どおりだな、とかこれは型を破っている、とかいうのがわからないこと。テンプレどおりなのか、だとしたら、どういうタイプのテンプレなのか。それがわからない。

「これから小説を書く人に無用な遠回りをしてもらわないために」というような意味のことが書いてあった。

そのキーとなる学びは、その方がお金をつぎこんで本や講座や有料の添削を受けて得たものなんだろう。

そんなキーを明文化できるのだろうか? 言葉にしてしまっていいのだろうか? いや、僕はそれを教えてもらえるならと思ってフォローしたわけなんですが。

しかし、ちっとは自分で考えろよ! オレ! とふと思ったわけです。

何かがプロダクトとして成り立つためには、それがどういうカテゴリーに属するのかをまず決めなくては。例えば、この缶入りのコーラ。ただの炭酸飲料というにはとても収まりきれないオーラというか含意がある。僕らが買っているのは、もはやそのコノテーションの部分だ。

進路室の赤本の棚の前で、例えば筑波の赤本を抜き出すときに感じるオーラ。なんかこう、渋いつうか。

もちろん、僕だけが勝手に一方的に感じる含意です。

で、ラノベ、じゃなくてもあらゆる小説でいいんですが、どういうオーラの小説にするかってこと。それをまず決めなくては。タグをつけるならどんなの? って。

#ラブコメ、とか。#異世界、とか。こう書くと、すごく身も蓋もない感じがしてくるのが不思議だ。

スタバの「本日のコーヒー」はこれです、とか表示されるのはOK。なのに、小説の中身にタグがつくのは、嗜好というか性癖が詳らかにされているようで、はずかしさがあって、たじろぐ(←おいおい、だいじょうぶか! オレ?)。

これじゃあ、食ってけないよな、小説で。と僕は思う。

なんか、いろいろ弱点がわかって、今日は生産的だ。「小説のことを考える」と手帳に書くことを忘れていたことを、何とか今日のうちに思い出した。

これで、わりと考えたって評価にしよう。ハードルは限りなく低く、僕は自分を甘やかす。

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