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ラヴクラフトと「個人的深淵」とハレの日。

——地球がまだ出来たばかりの頃、どこかからやってきた意識体があって、それは今も地球のどこかに住んでいて、人間たちを〈洗脳〉している。人間たちが見る夢を通して。

僕は今日、ラヴクラフトの「クトゥルーの呼び声」を読んでいる。『インスマスの影』所収、新潮文庫、南條竹則の訳。書いてあることがモダンだ。

メルヴィルの『白鯨』の気配がかすかにある。混血の船員とか、奇妙な偶像崇拝とか。

船。残された手記、あまりにも巨大なクリーチャー。頼もしい権威のある調査団。新聞記事。

僕の限られた物語体験から「シン・ゴジラ」的な印象が浮かび上がる。繰り返すけども、100年近く前に書かれた話だとは思えない。

とか何とか、いろいろ断片的に印象が浮かんでくるのだが、そもそも僕らはなぜ、こういう邪悪で悪臭のする、気味の悪いモノが出てくる話を読むのだろう?

もちろん、読まない人もいる。だが、村上春樹はラヴクラフトを読んでいる。

僕にとってラヴクラフトという存在はひとつの理想である。

http://uncle-dagon.cocolog-nifty.com/diary/2009/06/1q84-5926.html

二十世紀の現代作家たちが意識性と無意識性というふたつのファクターのあわせ鏡で苦悩しているとき、ラヴクラフトはまったく別の個人的深淵を押し開いていたのである。

http://uncle-dagon.cocolog-nifty.com/diary/2009/06/1q84-5926.html

国書刊行会の『定本ラヴクラフト全集』への村上春樹の推薦文だ。

「全く別の個人的深淵」というのはどういう場所だろう? もしかして、僕らがよく知っている、あの村上春樹の小説世界、井戸や地下通路や石室や、使われていない図書館の部屋のようなくらい場所のことだろうか?

もしそうなら、その個人的に見えた深淵は、もはやパブリックドメインになっているような気がする。村上春樹の世界的な活躍のおかげで。

パブリックな深淵。語義矛盾だ。

で、僕は余裕こいて●●●ラヴクラフトを読むわけですが、そこに出てくる変幻自在の神格たちが、今もどこかにいるという記述を楽しみにしてページを繰っている。僕の平凡な日常生活をハレの日にしてくれるような、ぶっ飛んだ怪物を望む。

化け物たちは絶滅してしまいました、では寂しいし、できることなら、僕じしんもこれら神格たちに出会ってみたいと思うのだ。あ~、それが個人的深淵をのぞきこむってことか。


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