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newjeans

今、話題の渦中にいる少女達とそのプロデューサーだが、騒動の一連の流れを見ていて真偽はともかく何か言葉を綴りたくなり今この文章を書いている。

少女達の鮮烈なデビューは今でも思い出せる。夏の真っ只中、attentionを聴いた私の心は震え上がった。
正に、韓国版ヴァージン・スーサイズ。いち早く、日本で言うところの平成初期のティーン達の文化のリバイバルに目をつけたものの一つであっただろう。ひとつのアイドルとしてのミュージックビデオではなく、角度は違うが映画を見たような追体験だった。ここまで完成度の高い刹那的な青春、少女性を感じられる作品はなかなか出会うことがない。思春期真っ只中の、悩みながら進む葛藤を表す儚くも美しい少女達の青春の一瞬を切り取り、見せてくれてるような感覚であった訳だ。

ミンヒジンというアートディレクターは知っており、度々話題に上がるのでどういう作品を作るのか理解していたつもりであったが、そのタイミングでは私はK-POPという文化にそこまで知識が明るくなく、明るくなかったからこそ衝撃的な文化コンテンツの知識の消費の仕方やデザイン性に衝撃を受けた。

今回の騒動で彼女が「同じ事務所のマルチレーベルからデビューしたILLITはnewjeansの盗作だ」と発言したことにより、このattentionが何かと話題に上がることが多い。
なぜなら、attentionも引用されたコンテンツがあるからだ。オタクからすれば、「お前も同じことをしてるじゃん」と言いたくなるのだろう。
確かに、どちらの気持ちも理解できる。

ここで勘違いしないで欲しいのだが、子供達は何も悪くなく、批判や不満の声を受け止めるべきなのは大人達であるということは理解して欲しい。
アイドルオタクはよくアイドルに対し人権的な対応を求めるが、アイドルという人間をコンテンツとして消費するようなオタクより、アイドルの周りにいる大人の方がよっぽど人権的であると私は考える。

前述の通り、確かに「attention」引いては彼女の作品には引用されていると思われるコンテンツがある。

裸足の季節 より トルコ版ヴァージン・スーサイズとも言われる
SPEED body&soul より

この世に出てる創作物は何かから影響を受けずに1から創作されることはとても難しく、何かしらの創作も色んな影響を受けながら制作されていると思う。
彼女にとって許せなかったのは、引用されているコンテンツへの解釈の薄さ、そして同じ事務所内でのかなり近いレベルでの模倣であると思う。

オマージュ、インスパイア、パクリなどの線引きはとても難しく、どこまで許されるのか?という問いには、一消費者は思考するしかなく、決定する権限を持たないのも事実だ。

何故ミンヒジンはILLITを作り出した大人達を許せなかったのか?
彼女にとって、引用する作品は大切なものだ。ソフィア・コッポラ作品や、彼女自身が青春であり影響を受けたと言及している70~80年代の日本のビジュアル。それは彼女にとってバッハでありドビュッシーだったのだろう。
(日本の邦画作品に関して西洋文化との混ざりや韓国の政治状況等、彼女の事情や心持ちを鑑みつつ、90~00年代の文化コンテンツに対し認めてないような記事もあるのだが、明らかに気持ちを込めて作品に引用しているように見える)
大切な作品を引用しつつ、自身のセンスや独創性を混ぜ合わせることによりミンヒジンの作品は完成され、その作品をいいと思った人間に賞賛され続けてきた。そこには、限りなく莫大な数の知識や、文化の落とし込み、努力があったはずだろう。

今回デビューしたILLITは、同じような文化的なコンテンツからの引用ではなく、同事務所のnewjeansというコンテンツからの引用された部分が多い。
これが同文化からの引用であれば、また少しは話は違ったと思うのだが…
ひとつひとつのエッセンスを混ぜ合わせ、1から100になるような、そのような作品作りをしてきたミンヒジンに対し、HYBEはそのエッセンスを上澄みだけビジネス的にくみ取った模倣を同事務所で作ってしまったというのが彼女にとって許せない事だったのだろう。

HYBEのプロデュースの仕方は、生み出す側というよりは、生み出したものを上手く使う側といった感じでビジネス的に見れば効率的であるし、「今売れる」ことに関しては何も間違っていない。
だが、それはこちら側が俯瞰して見た場合に納得できるものであって、特別大事に思っている人間からしたら憂いてしまうのも仕方がない。
解釈を深く落とし込み大切に育ててきた土壌で、解釈の薄い同ジャンルのものを同じ土壌で新しく生み出されるのは、生産者として不快と感じるのは理解出来る。
どうしたって第三者からすれば魂が同じに見えてしまうので、そこも許せない点であったのだろう。

とはいうものの、この点は論点のひとつでしかない。
彼女と事務所の一連の流れを見るに、この模倣であったかというのは塵に積もった最後の決壊した部分でしかなく、不満が不満をよんだ結果内部分裂したに過ぎないのだ。
詳しい部分、情報漏洩や独立に関しては我々は推測することしか出来ず、真実を知れる保証もない訳だ。
それぞれの立場からの言及や証言も、オタクからすれば真偽の有無などオタクの中で話題が過ぎ去ったあと、当人同士で解決した後にそちらが真実だったと知るに過ぎない。

何にせよ、オタク目線からすれば変わらないことが一番であるが、もうそのような着地は難しいように感じる。せめて、彼女と少女達が変わらず創作をし続け輝けるような場が保たれることを祈るばかりだ。

newjeansというアイドルを見てきた上で、プロデューサーとしてクリエイティブに向き合ってきたミンヒジンに対して、手放しに全てを肯定する訳では無いが、逆に全てを批判する気にも私はなれない。
彼女は少女達を使って権力や地位が欲しかったのではなく、一心に己の中にあるアイデアを創作してきたに過ぎなく、それが経済的なものを伴うものであってもなりふり構わずに彼女は作り続けてきた。それは彼女にとってのアイデンティティであり、誇りであることは間違いない。作品を通して、彼女の何かを作り出すという才能は素晴らしいと知っているからだ。

自分の好きな物を新しい解釈を通じて再度文化として発展させるというのは難しいものであり、誰もが出来ることではないからこそ、私は彼女に惹かれ、肩を持ってしまうのだろう。

ひとつボタンをかけ間違えれば噛み合わない芸能界で、歪な形だろうが真っ当に生き抜いていく少女達が、笑顔でいられるような結末を望んでいる。

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