わが子に伝えたい「幸せな人」のなりかた
子どもの自殺が過去最多となってしまったそうです。子どもの数そのものは減っているのに……
食べるものも着るものもあり、温かいお家にお布団、十分な教育環境、世界最高レベルの衛生環境と医療の整った国で、それでも死を選ぶ子が増えているなんて。
2020年にユニセフが発表した子どもの「精神的幸福度」でも、日本は38カ国中37位だったといいます。
「いかに物質的に恵まれているか」が幸せを決めるものではないとすれば。
幸せとはなにか、本当に一度深く考えなければならないと思います。
今回の記事の内容はそのまま子どもに伝えるにはわかりにくいかもしれないけれど、どうにかして、いつかわが子にも話してゆきたいとあらためて思います。
前置きが長くなりました。
前回の記事のつづき、
「どんな状況にあってもそれを『幸せ』と捉えられる自分なりの意味づけをできるようになる」ためにはどうすればいいか、というお話をします。
現状に感謝すること
「現状への感謝が大事」、ということは多くの人が知っていると思います。
が、現代の私たちにとって現状への感謝を邪魔するようなものがあるとすれば、やっぱりそのひとつはSNSでしょう。
SNS上の、自分よりも裕福そうで何でも手に入れていてキラキラと楽しそうな人たちを見る。
そうして「自分にないもの」に焦点を当てはじめると、「幸せを意味づけするパワーが落ちてしまう」と師匠は言います。
幸せを意味づけするパワーを落とさないように現状に感謝する思考回路は、訓練することができます。
たとえば朝起きて腰や頭が痛かったとします。
朝からどこかが痛くて、それでも「幸せ」と思うのは、すこし難しい感じがしますね。
だけど朝起きた瞬間から頭が痛い、腰が痛いという時だって、息はしているはずです。
私たちは誰1人例外なく、いつか息をしなくなる日がやってきます。
かならずいつかは呼吸が止まる日を迎えるのだから、いま息をしていることは当たり前ではない、ということです。
頭は痛いかもしれない。
でも呼吸はしている。
そのことに感謝できるか。
第二次世界大戦中ナチスに囚われ、収容所に閉じ込められたユダヤの民たち。
彼らは畳一枚くらいのスペースに4人ほど詰め込まれて「収容」されたといいます。
一畳に4人だから、もちろんどんなに疲れても寝転ぶことはできません。
トイレもないから立ったままその場で排泄するしかなく、足元には汚物が溜まります。
どんな虫けらだってこんな扱いは受けない、というような、人間の尊厳を全て奪われるような状況にあったユダヤの人たち……
「いま息をしていること」にすら、彼らは感謝できなかったかもしれないと想像します。
早くあの世にゆきたい、と。
ですがそのような、人類史上もっとも過酷な仕打ちを受けつづける状況から生還することができた人たちもいました。
そして彼らというのは、その収容所生活にあってすら幸せを意味づけすることができた人たちだったといいます。
人としての尊厳を奪われるつづけるおぞましい環境下で、いったいどのような意味づけができたのか。
人間がとても同じ人間に対してできることとは思えない残忍な扱いを受けながらも、彼らは願っていました。
「愛するひとが生き延びてくれること」を。
人間としての精神を保てないような極限の状況下でも、愛する者の無事と幸せを願うことができる。
まだ自分にはそのような、人としての心が残っている……
そのことに、幸せを見出したというのです。
(詳しくは「夜と霧」をお読みください。
筆舌に尽くしがたい残虐な行いをできるのが人間なら、しかしそのなかで他者の幸せを祈りつづけることができるのもまた人間なのです。)
本能的欲求と幸福の関係
幸せの意味づけがうまくなるために、現状に感謝することと、もう一つ知っておくといいことがあります。
それは私たちの脳にはどんな本能的欲求がインプットされているか、ということです。
「いまよりよくなりたい」。
これが人間の脳にインプットされた本能的欲求であり、どんな人でも例外はありません。
↑どんなに向上心がなくても、どんなに怠惰な人でも。
たしかに「いまより悪い状態になりたい」と心から望む人はいませんよね。
私たちが幸せを感じる(=幸せホルモンが放出される)時というのは、「成長していると実感できる時」なのだそうです。
「いまよりよくなりたい」と成長を望むのは、人間に組み込まれた欲求といえるのです。
では私たちが「成長している実感」を得るために必要なものとはなんでしょう?
……それは、「問題」です。
言われてみればそうかも、と思います。
なーんにも問題が起こらなければ、成長もしないかもしれない、と。
降りかかってくる問題は、私たちがあたらしい自分になるために天地宇宙がくれた「プレゼント」と捉えることができる、と師匠は言います。
何か問題と直面した時、「うわ~いやだなあ」とげんなりしたり、逃げたくなるのが人間の性ですよね。
けれどもしも「問題が起こる=成長する=幸せを感じられる」ということをあらかじめ知っていたら…?
きっと目の前の問題の見え方が違います。
すぐにその問題を解決できないとしても、しばらくは付き合わなくてはならずうんざりしたとしても。
どうせ同じ問題課題と向き合うなら、
「はあ~こんなことが起こって最悪。不幸。」よりも「これは私が成長の実感と幸せを得るために天がくれたプレゼントなんだ」ととらえるほうが、いい心持ちがしますよね。
その問題に取り組んでみて、結果はどうあれ、そのあいだの自己成長のプロセス自体に幸せの意味付けをすることができたら…
それはすなわち、生きていることそのものが、その人にとって幸せになるということだと思うのです。
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