気づいたら勝手に始まっていた人生を楽しむには
私たちのなかに、自分の意思でこの世に生まれた人はいないと思います。
「私はこの世に生を受けて人生を謳歌したい、だから生まれるぞ!」って思って誕生した人はきっといないと思う。
(魂レベルでは生まれることを望んでいた、という話はあるかもしれないけれど、それはいったん置いておきます)
私たちにとって人生とは「気づいたら始まっていたもの」と言えると思うのです。
だから
「あなたはなぜ自分に人生が与えられたと思う?」なんて問いを投げかけられれば、多くの人は面食らうのではないかと思います。
「え、なんのために生まれてきたかなんて、知らないよお」と。
神さまに「私はなぜこの世に生まれてきたんでしょう?」と直接聞くこともできないですしね。
誰かが「あなたはこうこうこういう理由があって命を与えられたのです」という”正解”を示してくれるわけでも、もちろんない。
そう、
自分がいま自分として生きていることに意味があるのかないのか、あるとするならどんな意味があるかなんて、究極のところわからないのです。
誰にも。
わからない、ということは。
自分で好きなように意味づけできる、ということでもあります。
なんのためにこの人生を与えられたのか。
自分で勝手に意味をつけたらいいのです。
気づいたら始まっていたこの人生。
どうせ何十年かはつづくこの人生。
「生まれてきたことになんの意味もない」と思いながら惰性でやり過ごすには、少々長すぎますね。
それならば、自分で自分の人生に意味を付与してみたらいい。
私の人生はこのためにある、って。
自分の人生が意味というものを帯びたなら、私たちはより濃い感情を得ることができます。
師匠は言います。
自分で意味づけをしないと人生は濃いものにはならないんです、と
生きてるのか死んでるのかわからないような薄い感情で長い長い日々をやり過ごすより、濃い感情で人生を彩りたい、私もそう思います。
先日師匠に直接お目にかかり、あらためて私も、人生に私なりの意味を与えました。
(どんな意味づけをしたか、は、いつかまた書くかもです。♡)
自らの人生に意味を与えるということを、師匠は13歳のときに長老から教わったそう。(ユダヤ人の成人式は13歳だから)
私もうちのぼうやに、いつかこういったお話をしてゆきたいと思います。
最初のうちはもしかしたら理解するのがむつかしいかもしれないけれど。
わが子が人生を豊かな感情で彩るようすを見たいのです。
次の記事につづく
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