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「自立した女性になろう」と言わないで

いつからか、「自立した女性」とか「女性の自立」といった言葉を目にすると、どことなくもやっと感じるようになった。

「自立した女性を目指しましょう」
「今の時代、女性もしっかり自立を」
という内容を説くコンテンツを見聞きすると、なぜだか自分でもわからないのだけど、かすかな引っかかりを感じるのだ。


このときに使われる「自立」とはもちろん経済的自立のことで、親や夫、パートナーに金銭的に依存せずに生きられる状態のことを指す。

「男性は外で働き、女性は家で家族を支える」というように性別で役割が固定される時代ではない。

だから女性も稼いで、家に縛られることなく自由な選択をいつでも取れるような状態が望ましい、ということにもちろん異論はない。
 

女性も(そして当然男性も)経済的に他人に依存することなく生きられるようになろうね、というのは正論すぎて反論の余地もない。


この資本主義社会で生きるかぎり1円も使わずに生きられることはないのだし、誰がなんと言おうとお金は大事。


男性が一人で妻子を養うだけの稼ぎを安定して得られる時代も終わったとされるいま、「女性も自立を」と言われれば「うん、そうだよね」と言うしかない。

「女性も自立しよう」というスローガンに異を唱えている人なんて見たこともない。
いたら時代錯誤の化石扱いされているだろう。


どうしたって正論であるはずの、「自立した女性」という言葉。

だけどそれを100%肯定的な気持ちで「うん、いいね!」と手放しで受け取れないのは、なぜなんだろう。


生活にかかるお金をすべて彼が出してくれている、そんないまの自分の環境への負い目?

(全員ではないけれど)妊娠や出産もある女性にお金も自分でしっかり稼ぐべし、というプレッシャーまでかけられることへの軽い反発?

子どもとの暮らしが想像以上に幸せで満たされてしまっているがゆえの「外で働くだけが女性の人生じゃないのになあ」というような、今の時代に大きな声では言いづらい本音の表れ?

うーん、まあ、そうなのかもしれない。

私のモヤモヤの正体をぴたりと言い当てているわけではないにしろ、的外れでもない。
当たらずとも遠からず、といったところ。

だけどやっぱり、私の感じるもやもやの理由としてぴったりフィット!という感覚はない。

もし仮に私が夫と子どもをひとりで養う立場だったとしても、いまの「女性も全員自立を目指すべき、当然でしょう!」と発破をかけるムードに全面的には与しない気がする。


9割がたは賛成なのだけど、自分のなかで1割はなにかが引っかかっている、そんな感じ……


10人いたら10人が「女性が自立すべきかって?当然でしょう」と言うであろうところ、
ほんとうにかすかではあるけれど、糸くずが絡まったような気持ちわるさを感じてしまう。


ところがつい先日、読んでいた本のなかで私の「自立」へのもやもやの正体を明かすヒントと出会った。

その本には、脳性麻痺がありながらも医師・研究者として活躍する熊谷晋一郎さんの言葉としてこう引用文があった。

自立とは依存しなくなることだと思われがちです。
でもそうではありません。
依存先を増やしていくことこそが自立なのです。
これは障がいの有無にかかわらず、すべての人に通じる普遍的なことだと私は思います。


自立とは誰かに依存しなくても、きちんと1人で生きていけること。
私たちはそう思って生きていると思う。

でも熊谷さんの言っていることはそれとは真逆だ。

依存先を増やしていくことこそが自立。
頼れるひとがたくさん周りにいる状態を作ることが自立だと。

ここで気づいたのは、いま「自立」と世間一般で言われるとき、それがお金の面だけに集約されていることに対して私は違和感を感じていた、ということだった。

ほんとうは、「お金を得ること」と「人に頼らないこと」とは別の話ではないか。


お金を稼ぐことは善きことだと思う。

でもそこに含まれる「誰にも頼るな(=誰とも関わらずに生きてゆけるようになりなさい)」というメッセージに私は、なにかが違う、思ったのだと思う。

「自立」とは「自分で立つ」と書く。

だけど「自分で立つ」とは、人に頼らず生きてゆくこと(=それに必要なくらいお金を稼ぐこと)”だけ”をいうのだろうか。

少なくとも今さかんに叫ばれる「自立」は、そのような意味に思える。


だけど「よろめきそうになった時でも、人に頼ることで立っていられる自分でいること」だって自分で立つ、とは言えないのだろうか。


誰かと関わり合わなければ本来生きてゆけないこの世界で、頼り頼られる関係を多くの人と育む。

そうしていつでも誰かに頼る用意のある自分でいること。

これこそ自立と呼んでいいのではないかと、熊谷さんの言葉と出会って思った。


子どもにも、(自分の身は自分で守ることはしっかり教えたいけれども)「誰にも頼らずに生きてゆけるようになってね」、よりも「いざとなったら頼れる人をたくさんつくっていてね」と伝えたい。

私が子どもに生きてほしいと願う世界は「誰にも頼らず誰とも関わらず生きてゆける世界」ではなく「頼れる人のたくさんいる世界」だ。


「自立した女性」というときの、その「自立」があまりに金銭的側面だけから語られるものであること。

そして「誰とも関わらずに生きられることを目指すべき」という、どんどん社会から温かみの失われそうな考え方であること。

これが私の中の引っかかりだったのかもしれない。


何度も言うけれど、お金が大事でないというのではない。
お金は必要だ。

でも「自立すること」と「お金を得ること」をイコールで結びつけなくてもいいと思う、という話なのだ。


そして「自立した女性」というキーワードをもとに考えを進めてきたけれど、ここまで読んでもらえればわかるように、これは女性に限った話ではない。

男性だってやはり「依存先を増やしていくことこそが自立」といっていいと思う。

(でも「男性の自立」とは普通に暮らしていてあまり聞かない。
男性で誰かに頼って生きるなんて半人前以下、言語道断という風潮があって、これは男性の生きづらさになっているのかなあと思う)



熊谷さんの言葉が引用されていた本はこちらです。
わが子といっしょにこれからいろいろなことを学ぶことが楽しみになりました。
学校に放り込んで勉強させるのではなく、いっしょに学んでゆこう、とわくわくしています。
新しい時代にふさわしい形の学びができるよう、私もアップデートしてゆこう!と思えました。♡

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