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心のなかに誰かのための場所を持つ

今はそんなふうに思わないけれど、私は子どものころからずっと、自分のことを空っぽの人間だと思って生きていた。
中身が無くて、つまらない、叩いても何も出てこない人間。
目の前にいる人に、何も差し出せるものがない。
だから申し訳ないと思っていたし、実際友だちも少なかった。

高校生のころ、大学で心理学を学んだという先生から
「君の心のなかには砂漠がひろがっていて、草木一本生えていない」
と言われたことがある。
そのとおりだ、と思った。

昨年末ある人のXの投稿で、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏の言葉に触れた。
「心にスペースを持ってください。いつか悲しむ人がそこに住むことになりますから」

心のなかのスペースに、人が住む。

どういう意味だろう、と考えた。


同じころ、ある本を読んでいた。
主人公の男性は自分のことを、内容のない空しい人間、空っぽの人間だと感じている。
私と同じだな、と思いながら読み進めた。

親しくなった数少ない人たちが、何も言わずに彼から離れていく。
皆少しのあいだ彼のもとに留まって、彼のなかに何もないと確認して去っていく。
主人公はそう考え、哀しみと痛みを抱えながら生きている。

しかし彼は、幼馴染の女性の言葉をきっかけに、それまでと異なる考え方を持つようになる。
自分は中身を欠いている人間だからこそ「そこに居場所を見いだしてくれた人々もいたのだ」と。
「孤独な鳥が、(中略)安全な休息場所を求めるように」

「心のなかのスペースに、人が住む」ということと、「自分の心のなかに誰かが居場所を見出す」ということが、重なっているように私には感じられた。
そしてそのことは、空っぽだと考えて生きてきた私自身と関係があるように思えた。

では、心のなかのスペースとは、心のなかの誰かのための場所とは、実際にどういうことだろう。

答えが出ぬまま日が過ぎていったが、先日スコット・フィッツジェラルドの「氷の宮殿」という短編の中に、気になる言葉を見つけた。

米国南東部ジョージア州に住む若いサリー・キャロルは、その街で自分が無駄に擦り減っていくように感じている。
自分がもっと役立てる場所があるはずだ、と冒険心に駆られた彼女は北部の男と婚約をする。

親しい男友だちが彼女に
「君は俺たちが嫌なのかい?なんで北部もの ヤンキーとなんて婚約するんだ」

と問うと、サリー・キャロルはこう答えた。

「私の心の中にはあなたのためだけの場所があるし、他の誰もあなたの代わりをつとめることなんてできない。でもね、この町に縛り付けられることに私は我慢できないの」

そして彼女は北部の都市から来たハリーを愛した。
「彼女は誰かを愛するために大事にとっておいた部分で彼を愛した」

ふーむ、と私は考え込む。

心のなかにある、あなたのためだけの場所。
誰かを愛するために大事にとっておいた部分。

そのとき「心のなかのスペース、誰かのための居場所」という言葉を思い出した。

私はハラリ氏の言葉をあらためてネットで調べてみた。
それはテレビ朝日「報道ステーション」内での、インタビューで語られた言葉のようであった。

「遠く離れた日本ができることはあるか」という問いに対して、ハラリ氏はこう答えている。

「一番重要なのは、平和のための“スペース”を取っておくことでしょう。痛みについて語るにしても、イスラエルのことでなければ頭にくるんです。『私たちが感じる激しい痛みを知らずに、なぜパレスチナなのか』と。こうした状況では、心に平和のための”スペース”がありません。“苦痛の海”につかりきりの私たちでは、今、心に抱くことのできない平和な空間を皆さんに捧げます。だから皆さんで使ってください。いつか、私たちが、その平和の“スペース”に暮らすことになりますから」

引用:「絶対的な悪も正義もない」歴史学者として…ハラリ氏に聞くイスラエル情勢」https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000320868.html


2、3度読み返して、私が最初に触れた「心にスペースを持ってください。いつか悲しむ人がそこに住むことになりますから」というフレーズは、こういう文脈の中のものだったと知った。

けれど「心のなかのスペースとは、実際なんだろう」という問いはまだ残ったままだ。

何か・誰かのことについて考える(もしくは関心を寄せる)余地/余裕/時間/ゆとりを心に持つことだろうか。

では、誰かが私の心のなかに居場所を見つけるとは、どういうことだろう。
人が私の心のなかに入ってくる? どうやって?

いくつもの問いを重ね、ある考えに行きついた。

大学生のころ、私には兄のように慕っていた先輩がいた。
彼は週に3回ほど、仕事が終わった後(または仕事中に)電話をくれて、いろいろな話を聞かせてくれた。
手掛けている企画のこと、女の子とのデートのこと。
大抵は先輩が一方的にしゃべり、私が聞き役だった。

彼は30歳を目前に亡くなってしまったが、今思うと彼は私のなかに自分の居場所を見出していたのではないか。
そして先輩の死から23年が経つ今も、私の心には彼を想うための場所がある。


人の心のなかにある「誰かのための場所」には、二つの意味があると思う。
一つは、誰かが休んだり、遊んだりするために訪れてくれる場所。
もう一つは、自分自身がその人のことを考えるための場所だ。

例えば、私には高校時代から大切にしている親友がいる。
そして私の心には「彼女のための場所」がある。

そこは彼女がいつでも何の気なしに訪れて、他愛のないおしゃべりをしたり、相談ごとをしたり、愚痴を吐いたりできる場所だ。

そして同時に、私が彼女のことを想ったり、その存在に助けられていると考えたりする場所でもある。

心に誰かのための場所を持つということは、同時にその人が私の心を満たしてくれているということだ。

私の心には、たくさんの大切な人たち、家族・親友・友人・ハンタースクールの仲間たち・亡き父・かつて暮らした猫・推しのシンガーのための場所がある。

ハラリ氏の「心にスペースを」という言葉の意味は、それでもなお、心のなかに空白の部分を持っておいて欲しい、ということだろう。

その空白の部分は、いずれ出会う誰かのため、そして遠くで苦しんでいる誰かのことを考えるための場所だ。

最後に気がついた。
私がいつしか自分を空っぽだと思わなくなったのは、たくさんの大切な人たちの存在を、自分のなかに感じるようになったためではないだろうか。





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