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聖書のヨハネにおける序文である「はじめにことばがあった。ことばは神と共にあった。言葉は神であった」という箇所

この言葉は、ヨハネによる福音書の冒頭に登場するもので、キリスト教信仰の重要な教義の一つです。この箇所では、「ことば」とはイエス・キリストを指し、彼が神と同等であり、神の存在であることを示しています。

「ことばがあった」とは、創世記の「神が言葉で世界を創造した」という記述にも通じる表現であり、神の力と知恵がキリストを通じて実現されたことを示しています。ことば(キリスト)は神と共に存在し、神自身でもあるとされています。

この箇所は、キリストが神の化身であり、人間の救い主であることを強調しています。イエス・キリストを神の存在として認めることは、キリスト教信仰の中心的な教義の一つです。

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注意がき
善きにしろ、悪しきにしろ、ボクが言ったか、愛先生が先に言ったか、私自身も躊躇し、戸惑っていますので、なるべく発言が被らないようにおり師ナリティを添えて発言した。


言葉より大切なモノを紡ぎたい。それはいのちだったり、祈りだったり、ゆるしであったり、平和であったりする。私たちはそれが起こる前にすでに知っていることについて、わかちあい情報を共有しあい、智慧の眼によってそれらの危機を回避することが試されている。勝ち負けのベクトルを越えて、尚気高くそびえる大いなるゆるしの前に敬虔に人や世に尽くすこと、自分軸が他人軸になり、他人軸が自分軸になる宇宙の法則は、楽しい、スキ、ワクワクというプラスの波動です。

初めに言葉があり、私は過去世があったのかもしれない。そこで深い縁の繋がりにいる人が今世にも居て、シンクロニシティを起こしている。私はこの事実に大きな驚きを隠しきれない。前世、幼少期、現在に至るまで私自身が大きな者が小さき者かわからないが、彼らに今世に至るまで、さまざまな大いなる影響を私自身がかれらに与え、そしてそれは善きにしろ悪しきにしろ、センシティブな彼らの心の中にある強烈なイメージを与えていることに謝罪したい。ごめんなさい。

確実に言えることは、第六感と統合失調症は鬼門であることです。これらは認知の歪みによっていかようにも診断できるでしょう。統合失調症は、第六感以前に、社会の恐怖と抑圧に冒されていた妄想から成り立つものが多いです。ご都合主義の私は、ヒプノセラピー、前世療法を試したいと思っていた時期がありました。科学にも秩序があり、(自我、魂)霊にも秩序があることを認識したのは、西洋星占術や、聖書でした。キリストは天使や精霊や数字の本来の在り方を明らかにし、仏教は、より幸せに正しくいきるあり方を科学的にもどこまでも明らかにしていくのみで、珍しいことではなくあたりまえのことだけれどもありがたい人間の仕組みで統合失調症の多くは、真実みを帯びた虚言によって、幻聴に騙されたり、ときに、自殺するように促されたり、する故、これは有名人や自分の本当の声でなく、恐怖や抑圧によって、脳内を児玉している故、電磁波でもなければ、気でもなく、自分の身体が慄いている副作用の産物であることを理解すれば、後は楽です。


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