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【あがり症】トラウマという理解を超えた恐怖

あがり症の方のための、
人前で話す練習会(あがラボ)を
主催しているロン毛です。


今回のテーマは、
「トラウマという理解を超えた恐怖」
です。


私が極度のあがり症になったのは、
今から10年~11年ほど前。


きっかけは、
社内会議でのトラウマ体験です。


今回は、そのトラウマ体験の時に味わった
「恐怖」について投稿します。


(お断り)
 本投稿には、トラウマを想起させる
 描写があります。
 現在、トラウマでお悩みの方は、
 読むのを控えた方がいいと思います。



私のトラウマ体験


私がトラウマを負ったのは、
50名ほどが参加する社内会議のワンシーン。


とある議題について、
司会者に、”突然”指名され、
発言を求められたときのことです。


私は、まさか、自分が指名されると
思っていなかったこともあって、
強い緊張状態になりました。


すぐに、動悸、赤面、過呼吸といった
身体反応があらわれます。


そして、司会者からマイクが回ってきました。


マイクを持ち、発言し始めた私は、
今まで経験したことがないくらい声が震えました。


この時の私の声は、
もはや声と言えるものではなく、
「嗚咽」と言っていいレベル。

(聞き手は、私が何を言っているのか
 一切聞き取れなかっただろう)


さらには、その「嗚咽」が、
マイクで拾われて
会議室中に響き渡るというオマケつき、、、

(いやいや、そんなオマケいらんやろ)


そのことにも圧倒され、
頭が真っ白になってしまい、
自分でも何を言っているのか分からない状態に。


いわゆるパニックの状態です。


この、恥ずかしくて、みじめな
パニック状態の私を、
職場の全員に見られてしまいました。


(職場の同僚は、私のあまりにも異常な様子に、
 ビックリしたと思います)


この時に感じた恐怖は、当時、
自分の理解を超えるほどでした。


理解を超えた恐怖



会議での発言が終わった直後、茫然自失というか、
魂が抜けてしまったような感覚がありましたねー。


“生きながらにして死んでしまった”感覚です。

(これが、”解離”か、、)


そんな感覚になってしまうほどの、
理解を超えた恐怖でした。


そして、文字通り、“理解を超えていた”ので、
その出来事や感情を
言葉(理性)を使って整理できない。


というか、もはや、理性を働かせて
“解釈”して、”納得”できるような
「性質」のものではない。


ただただ、その時の映像や、
身体感覚が頭の中で再生され、

そこに、引っ付いている
“恥”とか、”喪失”とか、
“無価値”といった「感覚」
に、
身体を乗っ取られるような状態でした。

(ちなみに私は、その時の映像や身体感覚等に、
 長期につきまとわれるようになりました。)


なお、この、”理解の難しさ”については、
後年、トラウマのことを学んでいくうちに
「そういうもの」ということが分かりました。


トラウマ研究の世界的権威、
ヴァン・デア・コークさんは
著書の中でこう書いています。

トラウマを負った人は、長い年月を経たあとでさえ、自分の身に起こったことを他人に話すのに非常に苦労する。彼らの体は、闘争/逃走の衝動に加えて、恐怖や憤激、無力感を再度覚えるが、こうした感情は、明確に表現するのがほぼ不可能だ。トラウマは本来、私たちを理解の限界まで追いやり、共通経験や想像可能な過去に基づく言語から切り離す。

身体はトラウマを記録する(P80)
/ベッセル・ヴァン・デア・コーク



私が経験したことも、ここに書いてある通り。


自分の中で、
折り合いをつけることができない程
恐怖体験をした場合、
それを言葉で表現することが難しい。

(圧倒的な”理不尽さ”を前に、
 言葉を失うと言いましょうか、、)


まさに、自分の体験が、
“言語から切り離された”ような
状態になっていました。


最後に



今回は、トラウマの
理解を超えた恐怖についてお伝えしました。


さて、現在の私はどうかというと、、、


自分のトラウマ体験の”あれこれ”について、
理解し、言語化できるようになりました。


それは、自分のトラウマが
成仏したことを意味します。


成仏させた後には、
あれほど禍々しかったことが
思い出話みたいな感覚になりました。


そのあたりについても、
今後書きたいと思います。


私の体験談が
皆さんのあがり症克服の
お役に立てれば幸いです。

(関連リンク)
なぜ、トラウマを負ってしまうのか?
トラウマを負うべくして負ったと思う

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