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人を幸せにしないとある飲食店の話

 近所に夜中にやっている自助餐店があった。3時過ぎから準備をはじめ、日が昇るころに閉店する。まさに深夜食堂、人類の誘蛾灯と言った趣の店だった。塩気と油がキツい店ではあったが、檳榔のやりすぎや寝不足で味覚がイカレたタクシー運転手やデリバリーの連中、炎熱の日差しを生き延びた肉体労働者を筆頭に人気のある店だった。
 日曜日の夜、仕事上がりに帰ってきてもコンビニ飯以外に選択肢がない私もたびたびお世話になった。遅く起きて晩飯が遅くなった時にもたびたび行った。粥や白菜の煮物、酢豚、大根漬け入り卵焼き、焼き魚などなどバットに入った料理が所狭しと並んでいた。だったというからには今はもうない。

 そして道を挟んだ向かいに新たな店ができた。そっけない看板。そっけない内装。ありきたりなメニュー。台湾で出来てはすぐ潰れるよくある店の一つだ。

 ちょうど昼時、ふと見るとその深夜食堂の店先に腰かけて煙草をふかして笑っていた如何にも遣りて婆然とした女性がいた。どうやら深夜生活の辛さからか昼間へ業態を転換したようだ。向こうもこちらを覚えていた。これも何かのめぐりあわせだと思って昼時に誰もいない店に入って控肉飯(厚切り豚バラのしょうゆ煮込みの載った飯)を頼む。
 しかして私は絶望してしまった。マズくはないのだが、旨くもない。何かが物足りないのだ。味の素が足りないのか?と言えば違う気がする。だが食べたときの感動のようなものが無い。
 1cmほどの豚バラの煮込み、煮卵、煮た厚揚げ、シナチクの煮物―。コスト的には確かに見合うのだ。見合うのだが…もう一品欲しいといった具合だったのだ。多分。私にとって。具のないスープの一つでもあったら違ったと思う。これならうちの近所のおばさんが一人でやってる店に行く。あそこはマジでうまい。本当にうまい。何喰っても旨い。
 台湾はかなりの部分を輸入に頼っているし、健全な経済成長率により10年で3割ぐらい値上がりする程度にはインフレだ。それにそもそもにおいて豚バラも、卵も高い。以前は卵もスープも載っていたのに別売りになった店も少なくない。ルーロー飯のたくあんも消えて久しい。最近は鶏肉飯からも消えた。
 それに今日食べた控肉飯にはあの深夜の店にあった一種の極彩色と言うか、輝きと言うか、そういうものが何一つない。確かに同じ時間帯を戦う同業には客足の途絶えない自助餐が通りの並びに2軒、控肉だけなら割包/刈包の老舗もある。小菜の中身は道の向かいの牛肉麺やと大差ない。ある意味で凡庸なメニューはそれらとの競争を避けたものと言えなくもない。
 だが、あの店で出していた酢豚や煮豆腐、白菜の煮物、そうしたものはほかの店は出していなかったのだ。昼間の住人には味が濃いのは間違いなく、調整する必要はあるのだが…そういうもので差別化が図れるんじゃないのか?そんなどこにでもある台湾の食堂の一つに成り下がっていいのか?という気持ちに襲われたのだ…。
 マズくはないが取り立てて旨くもない、空腹を満たすためだけの食い物屋。大雨が降っている週末とは言え正午に客は私以外におらず(ほかの店は混んでいる)、店員は所在無げにうろうろと店を出入し、白い簡素な店内を煌々と白い蛍光灯が照らす。誰も幸せになっていない空間がそこにあった。

 私が人生の一冊として擦り切れるほど読んでいる本がある。その冒頭の一節に「その仕事で相手や従業員を幸せにしているか?」と問われる一節がある。誰もが主として生活のために仕事をする。私自身は仕事は面倒ごとや苦労や問題解決が主であり、失敗しないシステムを構築することだと思っている。しかし、その結果、相手が不幸になっているのであればそれはやってはいけない。不幸を量産しばらまいている。誰にも良いことがないのだ。
 では、この店はどうなのだろう…と思わざるを得なかったのだ。

 逆にシンプル過ぎて寂寥感さえ覚える内装に、取り立てて特徴があるとは言えないメニューなのになぜか経営が続いている店と言うのもあるのだが…。少なくとも客が呼べているのである。少なくとも客が安心して入れる何かがあるのだ。何なのかは風水が生まれる前から言われているが言語化されていない何かではあるのだけども。


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