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書くこと

知らないことは書けない。
それをこの2日くらいできちんと知りました。
「知りました」と言い切ってしまうのは今から書く文章の内容と矛盾するので良くないけれど、まあ5%くらいは掴めたんじゃないかな。

今までは創作欲自体はこの何年間か 燻りくすぶ続けていたものの勢いで書いては改稿もせずに終えていたので、今回、5,000字の小説『モノクロ』と2,000字の『マッチ』を書いてみて色々気づくものがありました。

2日ほど前に始めたNoteの習慣(というのもまだおこがましい)もいつまで無事に続くかは分かりませんが、可能な限り続けて、得たものを活かしていきたいと思っています。

今日は小説はお休みで、軽いエッセイ的なものを。

僕が文章を書く理由はいつも微妙に違って、複数が絡み合っていますが、(皆さんもそうだと思います)
この12月、書き始めた理由の主たるものは、頭でっかちな生活にうんざりしているからです。最近は何かと上手くいかないことが多く、昔からのシニシズム的な性格がそれらの失敗を余計に拗らせて、自分の頭の中ですら、言葉にならない考え同士が反発しあい、結果行動に繋がらないような毎日が続いていました。

最近僕の頭にあるのは、陽明学の「知行同一」という言葉です。
曰く、知ることと行動することは同じだと。
先に知識をつけてから後で実践すれば良い、という考えに異を唱え、実践したことのない知識なんてものは知らないのと同義だと、王陽明は言いました。

これで頭の文章に戻ります。「知らないことは書けない」
まず存在することすら知らない、頭に浮かんでこない出来事や感情は当然書けません。思いつきもしないのですから。
それから、何かの小説で見聞きしたような、ふんわりとしか自分が認知していないような物語——設定が先行するようなキャラや筋立て——もまた上手くは描けません。僕の場合は、どうしても情景や行動の記述ばかりが並んでしまって無機質な印象になってしまったり。

じゃあ、SFやミステリはどうなるんだよと。
僕はあまりそれらを読みませんが、好きなジャンルの純文学でも、明らかに作者が経験していないであろうことが書かれています。
村上春樹も、あれだけ奥さんに逃げられる話を書いているのにずっと既婚者のままですし、まさか羊男と出会したことがあるわけではないでしょう。
北村薫は男性の作家ですが、タイプの異なる多くの女性が出てくる物語の描写は感心するばかりです。

しかし、それらは彼らが日常で得たもの、感じたものが形を変えて表現されたものだと思います。もちろん、SFやミステリも然り。
頭の中だけでこねくり回されたプロットでなくて、彼らが自らの足で見て聞いて感じたものが羊の着ぐるみを着たおっさんや女子アナウンサーの口から発せられているはずです。(僕の想像でしかありませんけど)
じゃなければ、10万字や20万字もの文章を綴り続けることなんてできないと、精々5,000字の物語を書いて感じました。

カズオ・イシグロのような、論理が緻密にゆっくりと重ねられた物語を読むと、感動と同じくらいに尊敬が湧いてきます。
じゃあ僕はというと、諦めたり飽きたりしては、また始めて、同じことを繰り返しているような気がします。Noteもその例に漏れず、一時的にやる気になってすぐ辞めて、昔の記事を後から読み返して、全く前進していないことに驚きます。

この文章も一目につくようにアップロードしたからには、責任を持って忘れないようにしたいと思います。

最後まで読んでくれた方、ありがとうございました。いいねしていただければ、また自分でも読み返してみます。多分。



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