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幼少期の記憶

記憶に残っている幼少期の最初の記憶は、真夏に長崎県の祖父母の家の玄関で声を上げて楽しそうに遊んでいる記憶。その次は福岡県の幼稚園の運動会の出し物でマーチングバンドの行進があり、自分は何の楽器を抱えていたか分からないけど、どこか広大な運動場を歩いている記憶。

運動会では父が肩車をしてくれようとして、父がかがんだけど、私は絶対に失敗してはいけないと思って、真上に勢いよくジャンプしたら父の顎に私の頭が思い切り当たる形になってしまった。
絶対に失敗してはいけないと思った当時の自然な記憶は、後々考えると、これ以前の記憶の中で父が怖いという認識があったからだと思う。

父は母の再婚相手なので、私とは血が繋がっておらず、小学校から中学校ぐらいまで異常すぎるほど性格が合わないなと感じていた。小学生の頃、土日は父が家にいるので、土日が大嫌いだった。中学生の頃に大きな言い合いをした際に実は血が繋がっていなかったことを父から打ち明けられた。

父は化学素材系商社の営業をしていた。具体的な仕事内容はいまだに会話した事が無いが、私は転職して現在鉄鋼商社の営業として働いているので、昭和の商社の大変さがそこにあったのかもしれないと思う。
父は毎日だいたい21時~23時に帰ってきて、夕食を食べながらいいちこを飲んで、寝る準備をしている母を呼び出して、『お前は俺を馬鹿にしてる』と1時間ぐらいずっと言い続けていた。母の普段の態度は全くそんな事はなく、普通に静かに主婦の仕事をしているだけなのに、父に呼び出され、毎日同じように罵られていた。父は他者の発言に対して『何て?』と威圧的に言うところがあって、母に対しても私に対してもそうだった。小学生ぐらいの頃、父と二人でダイエーに行ってレジに並んでいた時、父が1万円を出してお釣りの千円札が複数枚だった時、レジの50代ぐらいの女性が、『え、1枚足りない?』みたいな感じで少しおどけて言った事があって、普通の冗談なのに、父は許せなかったようで『何て?ちゃんとしなさい』と威圧的に言って、その女性がバツが悪そうにしたのを覚えている。なぜ自分の父が、自分が社会人になってから出会った父と同年代の男性とこれほどまでに違うのかと思う。

鉄鋼商社の営業は、鉄鋼メーカーが商社よりも上の立場である事を前提に仕事をしなければならないので心身へのストレスが大きい。
父も鉄鋼同様、厳しいと言われる素材系商社なので大変だったのかと思うが、私は家族に八つ当たりをする事はない。一緒に仕事をする職場の人に対してもいつもニコニコするようにしている。

父は既に引退をして現在74歳。実家で母と妹と暮らしている。
父は心臓の薬を飲んでいるようだが、実家から最も近い薬局に処方箋を持っていったらその時たまたま在庫が無かったらしい。そこで父は激怒したらしい。薬局の薬剤師さんは申し訳なく思ったのか翌日実家まで薬をわざわざ届けてくれた。それなのに父は、『こんなもんいるか』と薬を投げつけて、『昨日隣駅の薬局で処方してもらったわ!そっちの方が安かったし良かったわ!』と暴言を吐いたそう。

私は幼少期の最初の記憶から38歳になる現在まで父に対しての良い記憶が無い。言葉を交わすことも年1~2回。

高校生の頃に、父の暴れっぷりについてとあるクラスメイトに話したら、『私の家は家族が仲良いからそんな事があるなんて信じられない』と言われた。
来世では絶対に仲の良い家族のもとに生まれたい。

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