ミシン台の上のミシン針と布の出会い(伏見瞬の日記) 8/6

 コロナ感染して6日目になった。
 熱は2日目と3日目に出て、そこからは平熱。喉の痛みは激しくはないけど今日まで続いていて、おとといくらいから鼻づまりがはじまった。咳はたまに出る。睡眠はちゃんと取れていて、体調不良というほどでもない。ほとんど風邪と変わらない状態が今。
 一番つらいのは、コロナに直接関係ないのだけど、鼻の周りの肌が炎症を起こしていること。見た目も赤くなっていて痛々しく、ヒリヒリしているのが気に障る。もともと薬を塗ってないと炎症になる箇所なんだけど、コロナ前に塗り薬が切れてしまった。数日ほっといていたらひどくなっていた。ずっと使っていた薬は病院に行かないと手に入らないので、とりあえず市販でかえる代用薬を通販で注文して、今日届いた。これで落ち着いてくれるといいのだけど。

 10日間の休暇は正直相当にありがたかった。自分に課していることが増えすぎていて、心身がもたなくなってきていた。日々生きていると、やらなきゃいけないと強迫的に思うことが無数にある。誰かに依頼されたことも自分で自分に課していることもあるし、読むべき本や観るべき映画や聴くべき音楽は無限にある。それをできる限りすべて力業でこなそうとしていて、にもかかわらず優れた他者に比べて自分が劣っているという意識は強まっていて、空回っている感覚が膨らんでいた。相当にしんどかったし、軽いうつ症状だと思う。
 そんな切羽詰まった状態が、コロナの自宅療養でリセットされた感がある。もちろん10日が過ぎればまた元の生活が戻るわけだけど、あらゆるものを知っている状態に自分を置いておきたいという、客観的にみれば馬鹿げた願望を諦めることに成功した感がある。
 過度に承認を求める人は、子供の時に親の愛情を十分に受けられなかった人であるという話はよくみかける。この前までずっと読んでいたくそ分厚い『実存的貧困とは何か』にも、両親からの承認の欠如という話が繰り返し書かれていた。自分は過度に承認を求めている類だからワーカホリックになり鬱になるみたいな方向に行きがちなのだけど親との関係が悪かったことはほとんどない。家族は今でも仲良く今日まで大きなトラブルを持たずに関係を維持してきた。普通に愛されて育ったように思えるのだが、ではなぜ私は承認の求め方が過度になりがちなのか。結構前から考えているのだけどいまだによくわからない。たしかに、他人との距離のとり方が下手だったから、幼い頃に孤立することは多かったのは自分の傷として記憶しているけれど、少しずつ人間関係は改善していった。今では友人・知人も多くおり、仕事も認められているし、十分に恵まれた地点にいる。それでも渇望感と焦燥感に追われるのは何故だろう。
 実際、まじでよくわからない。自分が人々から承認を得るのに必死だったころの癖がそのまま残っている?そうかもしれない。もし承認の欠乏感が「実存的貧困」の定義なら、それは愛情不全の家庭に育った人間だけの問題ではないのではないか。

 今日はどうにもならん状態だった部屋を少し片付けた。気分が良い。

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