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第4回 共喰い会レポート(課題図書:ジュディス・バトラー「悪い生の中で良い生を送ることは可能か」) 寺門信

  6月28日(土)、第4回目となる共喰い回を開催しました。今回の課題図書は、ジュディス・バトラー「悪い生の中で良い生を送ることは可能か」(『アセンブリーー行為遂行性・複数性・政治』所収)。前回と同様に、オンラインとオフラインを併用して、約10名の参加者が集まりました。
 今回取り上げたテキストでバトラーは、テオドール・アドルノが『ミニマ・モラリアーー傷ついた生活裡の省察』で述べた、「偽りの生の中にはいかなる正しい生も存在しない」というテーゼから、表題にもなっている、「悪い生の中で良い生を送ることは可能か」という問いを取り出します。ここでバトラーの言う「悪い生」とは、大雑把にまとめれば、あらゆる物事の価値が市場原理に基づいて判断される、新自由主義的な世界の中で生きることを強いられた人間の状況、とでも言えます。もしこの状況にはいかなる出口もなく、どんな生き方を望むのであれ、「悪い生」を足場にすることでしか現代の人間は生きることができないとすれば、そこでの「良い生」とはどのようなものになりうるのか。この問いを出発点にしてバトラーは、人々の生を取り囲む今日的な構造や、その構造における権力の配分、さらにはハンナ・アーレントやアドルノの言説について検討したうえで、生身の身体に着目した、「良い生」のあり方について思考を展開しています。
 しかしここで気づくのが、コロナ禍の現在、我々の生身の身体は、これまでは可能だった数多くの活動を制限されているということです。例えばバトラーは、街頭での集会、つまりは生身の身体の集まりを、「良い生」を実体化させるための一つの方法として取り上げますが、少なくとも現在の我々にとって、集会の実施には様々な困難が伴います。
 バトラーが想定した身体の集まりが満足に行えない状況で、人々の間に倫理や連帯は生まれうるのか。そこに「良い生」はあるのか。そのような、人々が集まることの意味や可能性を改めて考え話し合うことができればと思い、今回のテキストを選びました。
 レジュメを作るにあたっては、ひとまず参加者全員がバトラーに関する基本的な知識を共有できるよう、彼女の各著作の概要や思想の変遷、今回の課題図書の要点、今年2月刊行の新著 The Force of Nonvilolence に言及したインタビューの要約などを盛り込みました。しかしいざ共喰い回が始まると、そこで行われた議論は基礎知識の確認などをはるかに超えて、時にはバトラーへの批判も交えながら、政治や哲学を巡る様々なトピックが扱われました。

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