eスポーツの価値について

人間の生きる意味というのは、全て自己の正当化である。そもそも生きる意味などというのは、生きるため以外にあり得ない。生きることがシステム化された生物だけが、そのスリル無き生に意味を見出すのである。

何者かになりたい時、将来を変えたい時、最後に必要なのは盲信することだ。それが自分のやりたいことだと信じ、盲目的な努力を繰り返す。それを人は無我夢中と形容し、美徳とする。

僕は学者気取りをしたいわけではなく、俯瞰者になりたいわけでもない。ただ、自分の未来を想像したときに、そこにこのような考えが思い浮かんでしまうのは悪い癖だと思う。何しろ、夢をかなえる方法が盲信することだという考えを導き出し、それが答えだと信じる限りにおいて、私はすでに盲信することができなくなってしまう。それを凌駕する理屈を発見するまでの間に、僕の寿命が尽きてしまいそうな予感がする。

自分のただの昔話を書いた時に、想定外の評価を貰ったことが僕の体を縛っていることは想像に難くない。その時点では、良かった。しかし、ただ漠然とした未来を思い描くたびにそれは違う気がしてしまう。

僕はなんのために生きているのだろう。

こんな問いを考えるたびに、自分が情けなく思える。こんなことを考える暇があるのは、社会に生かしてもらっているからだ。じゃあ、そこから抜け出せばいいのか。残念ながら、僕は僕を盲信することができない。

eスポーツが好きだという思いは、きっと嘘じゃない。今だって、気づけばゲームをしていて、毎日のように色々なゲームのプロシーンを見ている。この世界はきっと、これからもっと輝く世界になる。その舞台を作るために僕にできることなど、ないだろう。

どうにも悲観的で、厭世的で、無力な僕には何もできない。身動きの取れない僕の周りで世界が変わり続けていく。流されまいと抗うこともしないのに、大人しく流されるのもできない。

ハッキリ言ってしまうと、多分僕は人間として欠陥品だ。社会的価値など僕に求めるのは間違っている。もし廃棄してもらうことができるのなら、今すぐにでもしてもらいたい。

でも、僕はこうして文章を書く。これは僕にとっての必死の抵抗だと考えてきたが、どうも最近そうではないような気がしてきた。僕はただ、自分の信じられるものをこの手で生み出そうと必死なのだ。そうしなければ、僕は生きる意味を見失ってしまう。だから、何度後悔しても、こうしてこの場に戻ってくるのだ。

夜寝る前の自分と、朝起きたときの自分が同じ人間だと言われて信じられるだろうか。正直僕には信じられない。だからきっと、ここで大仰な夢や目標を書きなぐったところで明日には忘れている。

今必死に作る命の綱は、明日の僕の役に立たない。

こんな風な文章を、投稿しないだけでもう幾度と書いてきた。僕に求められる価値はこうではない気がして、最後の一歩を踏みとどめていた。

しかし、非常に画期的な方法を思いついてしまった。恐らくヤバい方法なので明記はしないが、少なくともこれをすることで僕はまた生きる意味を見出そうとすることができる。そんな方法を思いついたのだ。

暗闇の中で首を吊る労働者と、偉大な発見をした科学者。家庭で愛され看取られた猫と街中で車に轢かれた猫。その寿命のために死んだミツバチと身を挺し仲間を守ったミツバチ。全ての死は不公平な評価を受ける。しかし、同じ命である。

この世界では再三言われている話だが、それが価値というものである。

なんてつまらない世界だろう。こんな世界の中、何も信じられるものなどない。だからこそ僕は、誰よりも無力なのだ。

最近、無力でよかったと感じている。そして、僕がeスポーツに見出す価値もそれに起因する気がしている。

この社会の中で動き出した者は、その苦しみを知ることができる。同時に、その楽しさを知ることもできる。そして、広い世界を見てしまった後に狭い世界を見たときにそこにはもう戻れないと感じる。ちょうど僕たちが電気のない生活を想像できないように、動き出した者には動かない者の愚かさが明瞭に映される。

こうして形成されていく世界は、社会は、動き出した者のモノだ。動き出さない者は、動き出した者に動かされる。こんな道理が通る世界の中で平等を説いたところで、誰が変えられるというだろうか。平等を説くということは、動き出すことに他ならないからだ。こうして循環していく世界の中で、動き出さない者が縋りつくものを作ればいい。そう考えてしまって、私は今度は宗教の仕組みを理解してしまった気がした。

僕はどうしてeスポーツがすきなのだろう。そこが僕にとって、盲信できる場であったからだ。でも、僕は絶対に動き出したくはなかった。それをすることで今までの自分を否定するなど、僕には絶対にできない。

縋りつくものを提供することは、僕のしたいことではない。縋りついた者がどのような道を歩もうとも、僕はそれが素敵なことだと思う。そもそも、僕は価値あるものが嫌いなのではなく、価値を定めてしまうことが嫌いなのである。

だから、eスポーツの価値とは、僕としては、ただの対象としての価値でしかないと思う。どう転ぼうと、それが好きで動いている者がいる限り神は死にはしない。

恐らく、何を書いているのか意味が不明だと思う。この文章は、奇怪なものに映るかもしれない。だからこそ、僕は今、無力でよかったと心から思う。

僕の好きなことは、文章を書くことです。それを読んでもらうのが同じくらい好きです。そして反応としてスキとかフォローをしてもらうのは、もっと好きです。僕の文章を読んでくださって本当にありがとうございます。